アメリカの大統領 第2代 ジョン・アダムズについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第二回目は、第2代大統領を務めたジョン・アダムズです。ジョン・アダムズは、アメリカの基礎を築いた人物として知られています。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。


はじめに

1797年から1801年までアメリカ合衆国第2代大統領を務めたジョン・アダムズは、アメリカ海軍の創設者でもあります。

カリスマ性があったジョージ・ワシントンの後を継いだジョン・アダムズは後に「アメリカ建国の父で最も影響力があった人物」と評されるほどに活躍します。

今回はアメリカ合衆国第2代大統領のジョン・アダムズについて解説します。

「ジョン・アダムズ」のプロフィール

ジョン・アダムズはジョージ・ワシントンが大統領だった1789年から1797年の8年間は副大統領を務め、ジョージ・ワシントンの右腕役として活躍していました。

とくにイギリスから独立をした時代には、大陸会議のマサチューセッツ湾植民地代表、独立戦争終結の際に結ばれたパリ条約ではアメリカを代表する交渉主、さらにはヨーロッパにも滞在し各国との友好関係を築くことにも尽力しました。

1774年、独立に向けて開催された大陸会議で初めてジョージ・ワシントンと顔を合わせたジョン・アダムズは「権利と抗議の宣言」を起草する役割を与えられます。これはイギリスに対して不当な圧力やその効力の無効性を訴えるもので、後の独立宣言の元になるものです。ジョン・アダムズはアメリカがイギリスの配下に置かれることを不当であると初めて明確に論証した人物とされています。

早い時期から独立を考えていたジョン・アダムズは後にすべて実現しアメリカ合衆国の基礎となる、憲法の起草、植民地を統括する政府の樹立、海軍の創設に取り組みました。イギリスからの独立を説いた書の「Common sense(コモン・センス)」を読んだジョージ・ワシントンは独立に向けて決起したのと対称的に、ジョン・アダムズは独立よりも独立後の国をどうするかが重要と冷静に分析していました。

このようにジョン・アダムズは大統領職に就く以前からアメリカの基礎を築くことに尽力した人物だったと言えます。また、不断の努力と優れた先見の明がジョージ・ワシントンを支え、自身も大統領職に就く原動力になりました。

「ジョン・アダムズ」の経歴

ジョン・アダムズは1735年に13植民地のひとつであるマサチューセッツ湾直轄植民地で農家の3人兄弟の長男として生まれます。父親は農夫である一方で民兵隊将校、保安官、徴税人、行政委員を務め20年以上にわたり町の雑事をこなしていた人物で、その精力的な姿はジョン・アダムズに大きな影響を与えました。

父親に倣って農夫になるつもりだったジョン・アダムズは父親から読み書きの基本を教えてもらい私塾に通います。習うのではなく自らが進んで勉強する楽しみを覚えたジョン・アダムズはハーバード大学に進学し、卒業後は聖職者の道に進むことを決意します。

地元で教師をしながら聖書を勉強する日が続きますが、この頃から広い世界に出て自身の才能で出世することを考えるようになります。地方法廷の見学をきっかけに弁護士を目指すことにしたジョン・アダムズは1758年に弁護士になりますが、この頃世間では政治論や宗教論が活発に議論される時代になっていました。


1764年にはアビゲイル・スミスと結婚し、翌年の1765年、イギリスは税収を増やすための印紙法を制定し、アメリカは新聞、証書、パンフレットさらにはトランプのカードにも印紙を貼ることを強制させられました。弁護士だったジョン・アダムズにも大きな影響を与える印紙法はアメリカ人の反感を買い、イギリスからの独立の風潮が広まります。

これに対してジョン・アダムズは又従兄弟(はとこ)のサミュエル・アダムズらと共同で意見書を作成し、匿名ながらボストン・ガゼット紙に採用されます。これは後に「法令と封建法について」として広く知られる文献となり、ジョン・アダムズが初めて政治に関与した機会になりました。

1770年、ジョン・アダムズは弁護士としての活躍や政治に長けていることからマサチューセッツ議会の議員に選ばれます。この頃、ジョン・アダムズは弁護士としてボストン虐殺事件、キング対スチュアート事件、ジョン・ハンコック裁判のようなアメリカとイギリスの争いとも言える裁判を担当し、いずれもアメリカ側に有利な判決を勝ち取っていました。

1774年にはマサチューセッツ湾植民地を代表して大陸会議に参加し、早くから独立を進言し「権利と抗議の宣言」や「政府に関する考え方」などを執筆します。ジョン・アダムズはイギリスとの和解を主張し続けたジョン・ディキンソンに反感を抱きながらもジョージ・ワシントンを大陸軍総司令官に推薦し独立を成し遂げました。

この際、独立宣言を起草したメンバーにジョン・アダムズも含まれていましたが、議会に敵が少ないことや文才で優れていることからトーマス・ジェファーソンが中心になって書き上げられました。しかし、後にトーマス・ジェファーソンはジョン・アダムズが議論の前線に立ち、守護者としての役割を果たした真の中心人物だと振り返っています。

1789年の大統領選ではジョージ・ワシントンに次いで2番目に票を獲得し、1797年まで副大統領を務めます。1796年の大統領選ではトーマス・ジェファーソンを破って大統領に就任しますが、ジョージ・ワシントンのようなカリスマ性がないことや、権力に不慣れなことから本人も認めるように「不出来な大統領」と評価されてしまいます。

しかしながら、独立を巡る大陸会議や独立宣言の起草では陰ながら中心役として活躍し、ジョン・アダムズがいなければアメリカは別の形になっていたと言われるほどの影響を与えました。

ポイント1:独立宣言を起草した人物

ジョン・アダムズが大統領に就任する以前に独立宣言を起草したことはアメリカにとって大きな功績とされています。独立宣言についてはトーマス・ジェファーソンが表立った活躍をしたと言われがちですが、発想や政府のあり方、国のあるべき姿などの骨格はジョン・アダムズの思想が基になり、議会での反論に対する調整役も務めました。

ポイント2:フランスとの戦争を回避した

もともとはアメリカの同盟国だったフランスは、フランスの革命の際に干渉してきたイギリスを敵視しました。一方で、独立後のアメリカはフランスとの貿易を継続しようとしますが、イギリスが介入し米英仏の関係は緊張状態になります。この際に米英でジェイ条約が結ばれて、フランスがアメリカまでも敵視するようになりました。

フランスはイギリスと貿易を続けるアメリカ商船を次々に捕まえ、その数は1年間でおおよそ300以上に上りました。この様子は「宣戦布告なき戦争(疑似戦争)」と呼ばれ、ジョン・アダムズは解決のために海軍の創設や外交努力によって1800年に終結させ、寸前のところで戦争を回避しました。

ポイント3:民主共和党と連邦派に挟まれた大統領

ジョン・アダムズは、後にアメリカの政治を二分する民主共和党と連邦派に挟まれた大統領でした。ジョージ・ワシントンと同様に大統領は超党派的な役割で中立を保ち、党派抗争は内戦の可能性や外国からの干渉を受けると考えていました。皮肉なことに自身が信じている道を突き進んだために、後に党派抗争を引き起こすことになってしまうのでした。

まとめ

ジョン・アダムズは現代では一定の功績が認められ、アメリカの基礎を築いた人物として知られていますが、研究が進むまでは「忘れられた大統領」と揶揄される人物でした。ジョン・アダムズは人知れずアメリカ創始期に現代まで続くアメリカの骨格を築いた人物なのです。

ジョン・アダムズに関する豆知識

・息子のジョン・クィンジー・アダムズはアメリカ合衆国第6代大統領です。
・ジョン・アダムズは初めてホワイトハウスに住んだ大統領で、当時、工事中だったホワイトハウスはトイレが屋外にあり、隙間風が吹き込むようなお粗末な状態でした。
・ジョン・アダムズは8歳から喫煙していたとされています。

本記事は、2018年12月18日時点調査または公開された情報です。
記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。

気に入ったら是非フォローお願いします!
NO IMAGE

第一回 公務員川柳 2019

公務員総研が主催の、日本で働く「公務員」をテーマにした「川柳」を募集し、世に発信する企画です。

CTR IMG