アメリカの大統領 第6代 ジョン・クィンジー・アダムズについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第六回目は、第6代大統領を務めたジョン・クィンジー・アダムズです。優れた外交手腕や、奴隷制度拡大の阻止に尽力した人物です。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。


はじめに

1825年から1829年までアメリカ第6代大統領を務めたジョン・クィンジー・アダムズは第2代大統領だったジョン・アダムズの息子です。アメリカ史で初めての親子で大統領になった家系です。ジョン・クィンジー・アダムズは大統領就任前には外交官として諸外国との連携に尽力した人物でもあり、多くの歴史家は「最も偉大な外交官」と評するほどです。

今回は優れた外交手腕や、アメリカが本当の意味で独立を果たすことになったモンロー主義を起草した人物でもあるジョン・クィンジー・アダムズについて解説します。

「ジョン・クィンジー・アダムズ」のプロフィール

ジョン・クィンジー・アダムズは幼い頃から父親に同行する形でヨーロッパなどを歴訪し、海外との交流が身近な環境で育ちました。大統領を務めた父親の教育方針も影響して、わずか13歳のときに駐ロシア大使の秘書と通訳を兼ねてロシアに滞在しています。

語学力や海外での生活経験を生かして、父親が担当大臣を務めたオランダを始め、ポルトガル、ロシアなどの公使を務めます。帰国後は地元であるマサチューセッツ州の上位議員を務め、1817年には第5代大統領のジェームズ・モンロー政権で国務長官に任命されました。

当時のアメリカはイギリスから独立したものの、イギリスを始めヨーロッパ諸国との貿易に依存する状態が続いており、イギリスやフランスの争いに巻き込まれそうになるほど立場が弱い存在でした。そんななか、ジョン・クィンジー・アダムズはアメリカは諸外国の紛争には干渉せず、自国へも干渉させないという相互不干渉の立場を明確にした「モンロー主義」を起草します。

アメリカの外交の基礎を築いた影役者と言われたジョン・クィンジー・アダムズですが、1825年に大統領に就任したものの、皮肉なことに父親と同じくわずか1期で退任します。その理由が反政権派からの中傷や、様々な政策に対する反対運動でした。これらは次期大統領となるアンドリュー・ジャクソン支持派が中心になって行われ、呪われた政権と揶揄されました。

外交を始め諸外国と手を組むことに長けていた人物でありながら、国内の覇権争いに飲み込まれるようにして失脚したジョン・クィンジー・アダムズは、現代にも続くアメリカ大統領選の中傷合戦における初めの犠牲者だったと言われています。

「ジョン・クィンジー・アダムズ」の経歴

1767年、ジョン・クィンジー・アダムズは13植民地のひとつであるマサチューセッツ植民地で、後に大統領を務めることになる父親のジョン・アダムズとアビゲイル・アダムズの間に生まれます。幼い頃から父親に厳しく躾けられ、幼少期に父親に宛てた手紙には本を読む目標や、時間の使い方について指南を仰ぐ言葉が綴られていたほどです。

独立宣言から2年後の1778年、父親に同行するかたちでフランスへ渡り、14歳のときにはオランダ最古の大学であるライデン大学へ通い始めます。その後、使節団の一員としてロシアに3年間滞在し、1785年にアメリカに帰国してハーバード大学へ入学します。この時すでにフランス語、オランダ語、ロシア語などを習得していました。

1790年にはマサチューセッツで弁護士になり、翌年にはボストンで弁護士事務所を開設します。1794年、ジョージ・ワシントン大統領は語学と海外経験が豊富なジョン・クィンジー・アダムズをオランダ担当大臣に任命し、1796年にはポルトガル担当大臣を務めます。

1797年、父親のジョン・アダムズが第2代大統領に就任し、現在のポーランドとドイツの領邦だったプロシア担当大臣を任命され、任期一杯の1801年まで同職を務め、ヨーロッパ諸国との外交やアメリカの国際政治の立ち位置を考えるようになります。この頃、イギリス生まれで貧しい商人の娘のルイーザと結婚し、現在でも歴代大統領のなかで唯一、外国生まれの女性と結婚した人物になりました。


1801年にはマサチューセッツ州上院議員に選出され、1803年からは連邦党員として連邦上院議員を務めます。この間にはルイジアナ買収や、争いを続けるイギリスとフランスとの貿易を禁止した通商禁止法などの成立に関わりました。なかでも、1807年の通商禁止法はアメリカ経済に大きなマイナス影響を与えたため、ジョン・クィンジー・アダムズを支持した人たちは離れていきました。この結果、連邦党から民主共和党へ鞍替えすることになります。

第4代大統領のジェームズ・マディソンによってロシア担当大臣に就任し、ロシアとの関係を強めました。1814年には米英戦争(1812年戦争)の停戦交渉を担当し、ガン条約を締結しました。その後はイギリス担当大臣を務め、1817年からはジェームズ・モンロー政権で国務長官に就任します。

1824年の大統領選では強い愛国心とこれまでの活躍が評価され次期大統領に選出されますが、最後まで大統領の座を争ったのが後の大統領になるアンドリュー・ジャクソンでした。一般投票ではアンドリュー・ジャクソンが優勢だったものの、選挙人投票で優勢だったジョン・クィンジー・アダムズが勝利しました。

大統領就任後は、もともとひとつだった民主共和党が国民共和党と民主共和党のふたつに分裂し、与党と野党のような対立関係になりました。この状況はジョン・クィンジー・アダムズの任期中続くことになり、アンドリュー・ジャクソン支持者たちによる妨害を受け続け、目立った活躍が残せないまま任期を迎えます。

1828年の大統領選では再選を目指したものの、アンドリュー・ジャクソン支持派による「ネガティブ・キャンペーン」の影響を受け敗れてしまいます。周囲からの強い奨めもあり、1830年には下院議員に選出され、亡くなる1848年までその職を務めました。

ポイント1:モンロー主義を起草

「アメリカとヨーロッパ諸国は相互不干渉とする」という外交の基本概念を提唱したモンロー主義(Monroe Doctrine)はジェームズ・モンローによって発表されました。モンロー主義は後のアメリカの外交の基礎となり、アメリカの精神的な自立を生んだものとされています。これを起草した人物こそジョン・クィンジー・アダムズです。

ポイント2:米英戦争の停戦(ガン条約)をまとめた人物

1812年、独立後も海上閉鎖を続けたイギリスに対する反感や、イギリスがインディアンを煽動して入植者に抵抗を続けていると考えたアメリカはイギリスと再び戦争状態になります。

アメリカはこの戦争がすぐに終わると思い込んでいたものの、3年近く続いて泥沼化しました。経済的な打撃や国民の疲弊も大きくなり、講和をまとめるべく担ぎ出された人物こそ外交経験が豊富なジョン・クィンジー・アダムズでした。

ちなみに、1828年の大統領選で共に争い、後の大統領になるアンドリュー・ジャクソンが率いた民兵軍はこの戦争でインディアンを大量に殺害し、ニューオーリンズのイギリス軍を撃退したことで英雄扱いされています。

ポイント3:リンカーンに影響を与えた奴隷解放の基礎

ジョン・クィンジー・アダムズは早くから奴隷問題が政府を分断させることを危惧して、奴隷制度の拡大を阻止しようと尽力しました。万が一、国や州が戦争状態になった際には政府が奴隷を解放する権利を持つことを主張した初めての人物です。このことは後にエイブラハム・リンカーンの奴隷解放宣言の基礎になったとされています。

まとめ

ジョン・クィンジー・アダムズは優れた外交手腕や、奴隷制度拡大の阻止に尽力した人物でしたが、現代でも続いているネガティブ・キャンペーンによって表舞台から引き下ろされた人物でもあります。この時代の終わりは、アメリカの過激な時代への突入を意味しています。

ジョン・クィンジー・アダムズに関する豆知識

・川で泳ぐことを習慣にしていたある日、置いていた服が盗まれて、通りがかった子どもにホワイトハウスまで着替えを取りに行かせたことがあるそうです。
・ハーバード大学で修辞学の教師をしていたことがあります。

本記事は、2019年1月11日時点調査または公開された情報です。
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