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アメリカの大統領 第13代 ミラード・フィルモアについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第13回目は、第13代大統領を務めたミラード・フィルモアです。ミラード・フィルモアは1853年にマシュー・ペリー提督を日本へ派遣した大統領です。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

2019年02月08日更新

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目次
はじめに
「ミラード・フィルモア」のプロフィール
「ミラード・フィルモア」の経歴
ポイント1:日本に開国を迫った大統領
ポイント2:大陸横断鉄道建設を推進
ポイント3:1850年の妥協
まとめ
ミラード・フィルモアに関する豆知識
アメリカの大統領 第13代 ミラード・フィルモアについて

はじめに

日本人にとって非常に身近な話題でもある「1853年のペリー来航」ですが、マシュー・ペリー率いる黒船隊を日本へ向かわせた人物こそアメリカ第13代大統領ミラード・フィルモアです。

ミラード・フィルモアは第12代大統領であるザカリー・テイラーが急死した後、副大統領から大統領に昇格した人物で、大統領としての目立った功績はなかったものの、後の南北戦争やインディアン戦争など混乱の時代が始まった起点に深く関わった大統領です。

日本が幕末を迎えていた時代、遠くアメリカでも大きな混乱が始まろうとしていました。今回はそんな時代に大統領を務めたミラード・フィルモアについて解説します。

「ミラード・フィルモア」のプロフィール

ミラード・フィルモアはニューヨーク州の貧しい家庭で生まれ、まともな教育を受けることなく幼少期を過ごしました。読み書きが出来るようになったのは14歳頃とされ、青年期は父親の奨めで布製品メーカーに丁稚奉公として送り出されました。

19歳で法律家の事務所で働き始め、自身も法律を学び弁護士を目指します。23歳で弁護士になってからは順風満帆の生活を手に入れました。28歳の時にニューヨーク州下院議員に選出され、政界の道も歩み始めます。

34歳の時には後に郵政長官を務めることになるネイサン・ケルシー・ホールと共同で法律事務所を開設し、ニューヨーク西部で優秀な弁護士として名を上げるようになります。1843年に議員職を一度辞めてからはニューヨーク州の会計検査員として銀行システムの構築に携わり、ニューヨークが金融都市になっていく基礎を築きます。

そして、1848年にザカリー・テイラーから副大統領に任命され政権運営に携わるようになりました。1850年にザカリー・テイラーが急死したため、副大統領だったミラード・フィルモアが大統領に昇格し、奴隷制度を巡る各州の対立や極東政策などアメリカ内外の課題を任されるようになったのです。

自身の政党だったホイッグ党は奴隷制度を巡る意見の対立で崩壊寸前になり、アメリカ国内は南北で分裂状態と厳しい状況下で大統領に就任した人物です。

「ミラード・フィルモア」の経歴

1800年、ミラード・フィルモアはニューヨーク州西部の小さな街で9人兄弟の長男として生まれました。当時の貧しい家庭の象徴とされた「丸太小屋」で生まれた人物で、他の大統領経験者と比較して家庭環境には大きな違いがありました。

1819年、丁稚奉公を終えたミラード・フィルモアは半年間かけてニューホープ・アカデミーで基礎教育を受け、法律家の事務所で事務員として働き始めます。この時には弁護士になることを決め、働きながら法律を学んでいたとされています。1823年には弁護士業務を開始し、ニューヨーク州西部を拠点に活動します。

1828年、反メイソン党からニューヨーク州下院議員に選出され、政界入りを果たします。1832年にホイッグ党から連邦下院議員に選出されて以降は、同職を1842年に指名を辞退するまで務めました。この他にも下院歳入委員会の委員長も務め、後にブラック関税と呼ばれる輸入に高関税をかける制度の原案を発案しました。

1844年にはニューヨーク州知事選に出馬して落選してしまいますが、1848年にザカリー・テイラーから副大統領に任命されます。ホイッグ党だったミラード・フィルモアは自由州と奴隷州の均衡を巡って国内で対立が始まっていたことを懸念し、騒動の沈静化のために、米墨戦争で新たに手に入れた土地でも奴隷制度は必要という立場を取りました。

しかし、肝心のホイッグ党の党首であるヘンリー・クレイらは奴隷制度に反対しており、ホイッグ党内で意見が分かれていることが露呈します。さらに追い討ちをかけるようにして1850年7月にザカリー・テイラーが急死し、ミラード・フィルモアが大統領に繰り上がることになります。

急遽、大統領に就任したミラード・フィルモアですが、最も懸念していた課題が奴隷制度を巡る南北の対立でした。米墨戦争によって広大な土地を手に入れたアメリカ政府は、新たな土地が奴隷制度を支持する奴隷州か、奴隷制度に反対する自由州にするかでこれまで保ってきた均衡が崩れる可能性を恐れていました。同時に、加速しつつあった南部諸州の過激な言動を静めることも急務だったのです。

この課題を解決するためにミラード・フィルモアが取った行動が「Compromise of 1850(1850年の妥協)」と呼ばれる政策です。この政策は南北対立に対する融和政策のひとつで、カリフォルニア州を自由州として昇格させた他に、テキサス州は一部の土地を手放す代わりに借金を政府が肩代わりする、ニューメキシコ準州とユタ準州の設立(州に昇格する際、奴隷制度については投票で決定する)、逃亡奴隷の返還を強化、ワシントンD.C.で奴隷売買の禁止の5つの法律が制定されました。

1850年の妥協はこれらの5つの法律をまとめたもので、5つのうち2つは奴隷制度に反対する北部にとって有益で、残りの3つは奴隷制度を支持する南部にとって有益な法律でした。南北それぞれに有益な法律を定めたことで、南部の怒りは静まり、ミラード・フィルモアは南北衝突の回避に成功しました。しかし、一時期な延期にしかならなかったことは後に分かることとなります。

ミラード・フィルモアは1853年にマシュー・ペリー提督を日本へ派遣した大統領です。黒船で日本にやってきたペリーはアメリカ合衆国大統領親書を幕府に渡すことが目的でしたが、その親書を書いた人物こそミラード・フィルモアです。1854年には日米和親条約が締結され、日本は開国の道を進むことになりました。

この当時のアメリカは米墨戦争に勝利し、念願だったアメリカ大陸西部の土地を手に入れたことにより太平洋国家になっていました。さらに、人口が多かった中国(清)との貿易を進めるためにも補給場として適している日本との関係を築いておきたかったのです。このような背景があったためミラード・フィルモアはペリー提督を日本に派遣したのでした。

ミラード・フィルモアが大統領として率先して取り組んだことのひとつに大陸横断鉄道の建設があります。東部の開拓から始まったアメリカは、1845年の米墨戦争によって西部の土地を手に入れたため西部の開拓が可能になりました。その際に交通の要になると考えられたのが鉄道でした。ミラード・フィルモアは鉄道の重要性を広く知らしめ、1862年にユニオン・パシフィック鉄道の建設を連邦議会が認可する下準備に尽力しました。

1869年、西部のカリフォルニア州サクラメントからネブラスカ州オマハを結ぶアメリカ初の大陸横断鉄道が開通しました。これによりオマハには精肉業大手が終結し、地元経済だけでなく西部の急速な活性化が進みました。この時、ミラード・フィルモアは政界を引退していましたが、影ながら西部発展の基礎に大きく貢献した大統領と言われています。

ミラード・フィルモアはインディアンに対しても強行的に土地を奪取する政策を進めました。武力で勝る政府軍は次々とインディアンから土地を奪っていき、議会では大統領自らがインディアンの危険性を排除したことをアピールしました。しかし、このことは後にインディアンによる抵抗戦であるインディアン戦争を引き起こすことになります。

ミラード・フィルモアは「1850年の妥協」による南北衝突の延期、日本への開国要求、インディアンへの勝利宣言など、後々災いごとを引き起こすことに携わっていたことが特徴的です。突然、副大統領から大統領に就任したため「急場凌ぎの代役」として大統領を務めた人物だったと言えるでしょう。

ポイント1:日本に開国を迫った大統領

ミラード・フィルモアが日本に開国を迫った大統領であることはあまり知られていないようです。この理由はペリー提督の方があまりにも有名なためですが、ペリー提督はあくまでもミラード・フィルモアからの親書を渡すためにやってきたアメリカの代表者です。

アメリカはこの頃から日本を始めとする太平洋に面している国への接触を始めました。その背景には、貿易拡大や太平洋の支配などアメリカ大陸を飛び出した「新たな開拓」を始めようとしたことがあります。

ポイント2:大陸横断鉄道建設を推進

ミラード・フィルモアは大統領在職中から大陸横断鉄道の建設に尽力しました。実際に大陸横断鉄道が開通したのはミラード・フィルモアが引退してからですが、精力的に予算の取り付けや、その意義を知らしめた人物とされています。大陸横断鉄道の開通は後のアメリカ経済の発展に大きく寄与したことから大きな功績と言えるでしょう。

ポイント3:1850年の妥協

ミラード・フィルモアが大統領に就任した当時、奴隷制度を巡って北部と南部が分裂しそうな状態でした。奴隷制度廃止を望んだ北部と、奴隷制度を維持するために猛烈に反発した南部は政府にとって悩みの種だったのです。

そこでミラード・フィルモアはひとまずの凌ぎとして北部にも南部にもメリットがある「1850年の妥協」と呼ばれる5つの法律を可決して衝突を回避しましたが、1854年の「カンザス・ネブラスカ法」によって無効化され、南北の対立は深刻化することになります。

まとめ

ミラード・フィルモアはザカリー・テイラーの死後、急遽大統領に就任した人物だったためカリスマ性や政治手腕に疑問が残る大統領のひとりと言われています。1850年の妥協は苦肉の策と言わざるを得ず、結果的に南北対立問題を先送りしただけでした。再出馬した大統領選で敗れたことがミラード・フィルモアに対する評価と言えるでしょう。

ミラード・フィルモアに関する豆知識

・日本が開国を決意したのはミラード・フィルモアによるものと言えます。
・26歳の時に結婚した妻が初めてホワイトハウスに水道や調理用ストーブを持ち込んで生活できる環境を整えたとされています。

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