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アメリカの大統領 第14代 フランクリン・ピアースについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第14回目は、第14代大統領を務めたフランクリン・ピアースです。フランクリン・ピアースは史上最悪の大統領と言われる反面で、優れた人間性や深い愛情を持っていた人物として知られています。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

2019年02月10日更新

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目次
はじめに
「フランクリン・ピアース」のプロフィール
「フランクリン・ピアース」の経歴
ポイント1:カンザス・ネブラスカ法
ポイント2:ガズデン購入
ポイント3:オステンド・マニフェスト
まとめ
フランクリン・ピアースに関する豆知識
アメリカの大統領 第14代 フランクリン・ピアースについて

はじめに

1853年から1857年までアメリカ第14代大統領を務めたのはフランクリン・ピアースです。アメリカでは史上最悪の大統領のひとりなどと不名誉な称号を持った人物としても知られています。

アメリカが着実と南北戦争へ進んでいた時代に大統領になったフランクリン・ピアースは、なぜ史上最悪の大統領と呼ばれるようになったのか、詳しく解説します。

「フランクリン・ピアース」のプロフィール

フランクリン・ピアースは独立戦争の際に司令官を務め、ニューハンプシャー州知事を2度務めた父親の元に生まれました。幼少期から満足な教育を受けたフランクリン・ピアースは、現代でもアメリカ最高峰と名高いボウディン大学を卒業し、弁護士の道に進みました。

25歳のときには州立法議会のメンバーに選出され議長を務めます。29歳で民主党議員に選出されて本格的に政治界で活躍するようになりました。1846年に米墨戦争が始まると大佐として従軍し、コントレラスの戦いで負傷しながらも帰国時には英雄として迎えられました。

その後は、ニューハンプシャー州憲法制定会議の議長を務め、1852年の大統領選ではホイッグ党のウィンフィールド・スコットを破って大統領に就任しました。この時のライバルであったウィンフィールド・スコットは50年以上軍に仕えた国民的英雄のひとりで、後にジョージ・ワシントン以来初となる名誉大将の称号を与えられた人物です。

大統領に就任したフランクリン・ピアースは奴隷制度に反対する自由州(主に北部)と、奴隷制度を支持する奴隷州(主に南部)の対立に苦心します。民主党の上院議員だったスティーブン・ダグラスが考案した、カンザス準州とネブラスカ準州を創設して、さらに州民に自由州か奴隷州になるかを決定させる法案、後の「カンザス・ネブラスカ法」に署名したことがフランクリン・ピアースの政治生命を決定付けることになりました。

実質的にアメリカ西部で奴隷制度を拡大させることに繋がる法案に署名したことは北部からの支持を失い、民主党からも見限られる結果になったのです。その後はアルコール依存症になり、1869年に肝硬変で命を落とすまで病と闘ったのでした。

「フランクリン・ピアース」の経歴

1804年、フランクリン・ピアースはニューハンプシャー州で8人兄弟の5番目として生まれました。両親は農園を経営しており、先祖はイギリスからアメリカ大陸にやってきてマサチューセッツ湾植民地で生活をしていたとされています。

フランクリン・ピアースは1781年にニューハンプシャー州に設立された寄宿制の中等教育機関であるフィリップス・エクセター・アカデミーに進学します。15歳でメイン州のボウディン大学に進学し、1824年には成績優秀の生徒として同校を卒業しました。卒業後は法律を学び、1827年には弁護士業を始めます。

フランクリン・ピアースが弁護士業を始めた同じ年に父親のベンジャミン・ピアースはニューハンプシャー州知事に当選し、次第に政治界との結びつきが強くなり始めます。1829年には同州の下院議員、1837年には上院議員に選出されました。1842年に上院議員を辞めて以降は弁護士業を再開し、ニューハンプシャー州地方検事を務めました。

1845年、第11代大統領だったジェームズ・ポークから司法長官に任命される話がありましたがそれを辞退し、米墨戦争に大佐として従軍しました。1848年に米墨戦争が終結してからはニューハンプシャー州憲法制定会議の議長を務め、1852年の大統領選の候補者として白羽の矢が立ちます。対立候補のホイッグ党は既に国民からの信頼を失っていたため、一般投票においては22万票という大差で勝利しました。

大統領に就任したフランクリン・ピアースは端正な顔立ちや真摯な態度で人気を集めますが、アメリカが抱えていた南北対立問題を解決することは出来ず、より一層悪化させてしまうことになります。それを代表するのが「カンザス・ネブラスカ法」への署名です。

1854年、フランクリン・ピアースはカンザス・ネブラスカ法に署名をします。民主党議員のスティーブン・ダグラスによって考案されたこの法案は、元々はアメリカ西部へ続く大陸横断鉄道建設用地を確立するために作られたものでした。しかし、新しく作られる準州で奴隷制度を認めるか否かという議論が持ち上がり複雑化し始めます。

そこでスティーブン・ダグラスはカンザス準州とネブラスカ準州それぞれで奴隷制度を認めるかどうかは州民が決めることという住民主権の原則を盛り込みました。しかし、この提案は1820年に北緯36度30分以北における奴隷州の禁止を定めたミズーリ協定(ミズーリの妥協)を無視するに等しく、実質的にアメリカ北西部における奴隷制度拡大を意味していました。

当然、南北の主張は激化しますがフランクリン・ピアースはこの法案に署名し、一定条件下で奴隷制度を禁止した1820年のミズーリ協定、さらには1850年協定を無効化してしまいました。

この法案を受けたカンザス準州では、奴隷制度を巡る住民投票が行われると考えた人たちが大勢やってくるようになり、ついにはローレンスという町で奴隷制度反対派と支持派が内戦を起こす事態になりました。この事態は「Bleeding Kansas(血を流すカンザス)」という新聞社による衝撃的な見出しで全国に報じられ、南北戦争の前兆を意味する出来事として広く知られています。

このように、アメリカが独立して以降続いていた奴隷制度を巡る南北の対立によって実質的な内戦が生じたきっかけを作った人物こそフランクリン・ピアースとされているため、アメリカでは史上最悪の大統領と呼ばれるようになったのでした。

この事態を招いたフランクリン・ピアースの支持率は急激に下降し、奴隷制度に反対していた北部からの支持は激減、所属していた民主党からも支持されることなく1856年の大統領選では候補として指名されることはありませんでした。1863年には最愛の妻を亡くし、重度のアルコール依存症に陥ります。南北戦争が始まってからは南部軍の支持を表明したことで一層評判を落とし、1869年に人知れず息を引き取りました。

ポイント1:カンザス・ネブラスカ法

長らく南北対立を「ミズーリ協定」や「1850年の妥協」などの政策によって避けてきたアメリカ政府でしたが、フランクリン・ピアースがカンザス・ネブラスカ法に署名したことで対立は悪化し、内戦状態に突入しました。

フランクリン・ピアースは自由を追求するために住民主権が最も正しい方法と信じて、署名に向けて官職任命権など大統領権限を行使しました。しかし、皮肉なことにすべて裏目に出てしまい、大統領職だけでなく政治家生命も失うことになるのでした。

ポイント2:ガズデン購入

米墨戦争によって管理権を手に入れていた現在のアリゾナ州とニューメキシコ州の土地を、メキシコ政府から正式に買い取ったのはフランクリン・ピアースです。おおよそ77,700平方キロメートルに及ぶ広大な土地を現在の価値で300億円程度で買い取りました。

これにはアメリカ南部の大陸横断鉄道建設のための土地買収という背景があり、当時メキシコ担当大臣だったジェームズ・ガズデンの名前に由来しています。ガズデン購入によって現在に続くアメリカ領土が完成しました。(アラスカ州とハワイ州は除く)

ポイント3:オステンド・マニフェスト

フランクリン・ピアースはスペイン領だったキューバを買収しようとしていました。それにあたりスペイン政府との金銭的交渉、ヨーロッパ諸国の公使によるスペイン政府への圧力、そして交渉が難航した場合は宣戦布告するという内容を機密文章にまとめました。

しかし、スペイン政府に圧力をかけることを明記した機密文章が漏洩したためフランクリン・ピアース政権は打撃を受けることになり、フランクリン・ピアースの評判は急降下しました。

ちなみに、オステンド・マニフェストは駐欧アメリカ公使たちが集まったベルギーのオステンド(Ostend)という都市にちなんでいます。

まとめ

フランクリン・ピアースは史上最悪の大統領と言われる反面で、優れた人間性や深い愛情を持っていた人物として知られ、現在でも出生地であるニューハンプシャー州では人気があります。この時代に大統領になっていなければ多くの尊敬を集めた人物になっていたとする意見もあります。

フランクリン・ピアースに関する豆知識

・1856年の大統領選で民主党の候補者から外れた時に、もはや酔う以外にすることはないと嘆いたとされています。
・プライベートでは子ども3人を早くに亡くし、1863年に妻を亡くしてからはアルコール依存症が加速した不遇の人生だったと言われています。

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