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アメリカの大統領 第15代 ジェームズ・ブキャナン・ジュニアについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第15回目は、第15代大統領を務めたジェームズ・ブキャナン・ジュニアです。ジェームズ・ブキャナンは史上最悪の大統領と評価される一方で、時代に適していなかった不遇の大統領としても知られています。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

2019年02月11日更新

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目次
はじめに
「ジェームズ・ブキャナン」のプロフィール
「ジェームズ・ブキャナン」の経歴
ポイント1:サウスカロライナ州の離脱阻止失敗
ポイント2:1857年恐慌
ポイント3:日本との友好関係に貢献
まとめ
ジェームズ・ブキャナンに関する豆知識
アメリカの大統領 第15代 ジェームズ・ブキャナン・ジュニアについて

はじめに

1857年から1861年までアメリカ第15代大統領を務めたジェームズ・ブキャナン・ジュニア(以下、ジェームズ・ブキャナン)は、歴代大統領のなかで唯一のペンシルベニア州出身の大統領で、生涯独身だったことで知られています。

また、大統領として目立った功績はあげられず、南北戦争を招いた人物として先代の大統領であるフランクリン・ピアースと並ぶ歴代最悪の大統領という汚名を持っています。今回は、アメリカが南北戦争に突入することになった時代の大統領だったジェームズ・ブキャナンについて解説します。

「ジェームズ・ブキャナン」のプロフィール

ジェームズ・ブキャナンは弁護士として、さらには下院議員、上院議員として成功を収めた人物でした。とくに、弁護士として成功して以降は「法律」というものに重きを置くようになり、後に経験することになる大統領職においても法律以外での支配は承認しないことを主張し続け、武力や論争による支配を拒んだことは有名です。

大統領を務めるまでにペンシルベニア州下院議員、連邦下院議員、駐露アメリカ大使、駐英アメリカ大使、国務長官など様々な重役を務めた経歴があり、自らが自身のことを「年老いた公僕」と呼んでいました。

1856年の大統領選で第13代大統領のミラード・フィルモアらを破って当選しますが、この当時のアメリカは奴隷制度をめぐって北部と南部に分断されているような状態でした。ジェームズ・ブキャナンは、アメリカ独立後初めて迎える国家分断の危機に対して、かつてのジョージ・ワシントンがそうであったように「中立」の立場を貫き、問題解決には消極的だったのです。

当時、怒りに包まれていたアメリカ国民に対して、冷静そして中立で対応しようとしたことが裏目に出て南北の怒りは衝突する事態になりました。多くの歴史家はジェームズ・ブキャナンはあまりにも激動の時代に大統領になってしまったために功績を残せなかったとし、怒りに対して中立で冷静さを保とうとした行動は本来であれば賞賛されるべきとしています。

ジェームズ・ブキャナンは史上最悪の大統領と評価される一方で、時代に適していなかった不遇の大統領としても知られています。

「ジェームズ・ブキャナン」の経歴

1791年、ジェームズ・ブキャナンはペンシルベニア州で生まれました。1783年にスコットランドから移民としてやってきた父親は新天地のアメリカで大成功を収めた商人で、11人の子どもに恵まれました。ジェームズ・ブキャナンは上から2番目で、ごく一般の教育を受けて育ちました。

1809年、ペンシルベニア州の名門校であるディキンソン大学を成績優秀で卒業し、弁護士を目指すために同州のランカスターで法律学を学び始めました。1812年には弁護士資格を取得し、弁護士業で順調な生活を送りますが米英戦争(1812年戦争)のために志願兵として戦闘に参加しました。

1814年にはペンシルベニア州下院議員に選出され、1831年まで同職を務めます。1832年には駐ロシア大使としてロシアに派遣されて、1834年に民主党の上院議員に選出されました。1843年まで上院議員を務めた以降は、ジェームズ・ポーク大統領によって国務長官に抜擢されてから本格的な国政に関わるようになりました。

フランクリン・ピアース政権では駐イギリス大使を任され、アメリカがスペインからキューバを買収、または武力行使によって入手することを秘密裏に文章化した「オステンド・マニフェスト」を執筆しました。この際に、ジェームズ・ブキャナンはアメリカがスペインに対して好戦的な表現を使った文面を和らかい表現に変えたと言われています。

1856年の大統領選の際には民主党の候補者に指名され、共和党初の大統領候補者となったジョン・フレモント、大統領経験者のミラード・フィルモアらと三つ巴の戦いを制しました。奴隷制度に対し明確な立場を示した他のふたりとは対照的に、ジェームズ・ブキャナンは立場を曖昧にしたため、奴隷制度に賛成した北部自由州の議員を揶揄する「doughface」と呼ばれました。

大統領に就任した翌年には1857年恐慌がアメリカを襲います。この経済恐慌はイギリスやフランスの同盟軍とロシアがクリミア半島を舞台に戦争を始めたクリミア戦争が起点とされており、ヨーロッパでの穀物価格下落によってアメリカからの輸入が削減されたためアメリカは大きな損害を受けました。さらに、保険会社の破綻、過剰な鉄道建設、ゴールドラッシュによる金の価格下落などアメリカ国内の原因も加わりました。

ジェームズ・ブキャナンは恐慌の影響が大きかったアメリカ東部と西部に対して救済策を投じなかったため一層評判を下げることになりました。ちなみに、アメリカ南部ではこの恐慌の影響は限定的だったとされていますが、その理由はヨーロッパ市場で堅調だった綿花製品の貿易が南部の経済を支えていたためです。

1860年の大統領選においてエイブラハム・リンカーンが次期大統領に当選すると、サウスカロライナ州は西部での奴隷制度拡大に反対していたエイブラハム・リンカーンに対抗するように連邦政府から脱退を表明します。

ジェームズ・ブキャナンはサウスカロライナ州に続いて脱退する州が出てくる前に脱退の連鎖を阻止しようとしますが、南部出身の支持者たちによる援護を受けられず失敗に終わり、立て続けに南部の6つの州が脱退を表明しました。

最後の最後で南部諸州の脱退を引き止められなかったジェームズ・ブキャナンの責任は重く、いよいよ南北戦争が本格的に始まる状況を作ってしまったのでした。

ポイント1:サウスカロライナ州の離脱阻止失敗

ジェームズ・ブキャナンが史上最悪の大統領とされる大きな理由のひとつが、南部諸州の離脱を食い止められなかったこととされています。1860年にサウスカロライナ州が初めに離脱を表明した直後、憲法修正会議を開こうとしましたが、次期大統領となるエイブラハム・リンカーンに拒否されてしまいました。これにより南部出身の閣僚たちは一斉に辞任をして、南北の分裂は決定的になったのです。

ポイント2:1857年恐慌

国内外の経済事情が原因となった1857年恐慌は南部を除くアメリカ全体に影響を与えましたが、とりわけ東部と西部の影響は大きく、南北戦争まで3年近く継続し多くの失業者、廃業が連鎖的に起こりました。この際にジェームズ・ブキャナンは「同情はするが、個人を救うために出来ることはない」と発言し、アメリカ国民の信頼を失ったとされています。

ポイント3:日本との友好関係に貢献

1859年、ジェームズ・ブキャナンは江戸幕府の外国奉行であり日米修好通商条約批准書交換使節だった新見正興と接見し、友好の証として孝明天皇にアメリカ製の懐中時計を送っています。アメリカ国内が波乱の最中に日本と友好関係を築こうとした点は大統領の功績として評価されています。

まとめ

ジェームズ・ブキャナンは次の大統領となるエイブラハム・リンカーンと比較されがちで、南北対立問題に揺れた時代に大統領に就任したため功績が残せなかったとされています。しかし、中立で争いを避けようとする一貫した姿勢は大統領として相応しかったと見る人もいます。

ジェームズ・ブキャナンは同様に史上最悪の大統領と評される先代大統領フランクリン・ピアースと同じで、優れた人間性でありながら時代にそぐわなかった大統領のひとりと言えるでしょう。

ジェームズ・ブキャナンに関する豆知識

・ジェームズ・ブキャナンは生涯独身でしたが、若いときに婚約者が自殺してしまったことが原因とされています。
・ジェームズ・ブキャナンが孝明天皇に贈った懐中時計はウォルサム社製で、川端康成も愛用していたことでも有名です。
・大学時代は成績優秀だったことで有名ですが、2度も学校を退学させられそうになるほど不真面目だった一面もあると言われています。

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