アメリカの大統領 第17代 アンドリュー・ジョンソンについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第17回目は、第17代大統領を務めたアンドリュー・ジョンソンです。アンドリュー・ジョンソンは困難を極めたエイブラハム・リンカーン政権を急遽引き継いだため苦心した大統領でした。

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はじめに

エイブラハム・リンカーンが暗殺された後、副大統領から繰り上がるようにして第17代大統領になったのがアンドリュー・ジョンソンです。1865年から1869年まで大統領を務めますが、それ以前に第二期目のエイブラハム・リンカーン政権で副大統領を務めた実力者でした。

アメリカ史が大きく揺れ動いた南北戦争の後に、平温を取り戻すために尽力した人物としても知られていますが、初めて弾劾裁判にかけられたことでも有名です。今回は、アンドリュー・ジョンソンがどのような人物で、どのような功績をあげたのか解説します。

「アンドリュー・ジョンソン」のプロフィール

アンドリュー・ジョンソンはノースカロライナ州で生まれますが、3歳のときに父親が死んだため貧困な生活を余儀なくされました。母親が裁縫で生計を立てる生活が続き、少なくとも14歳のときにはサウスカロライナ州にある仕立て屋に徒弟奉公(とていほうこう)として働き始めたとされています。

アンドリュー・ジョンソンは働き始めるまで一切の学校教育を受けたことがなく、独学で読み書きを習得するしかなかったとされています。17歳頃に仕立て屋を辞めて、兄弟と共にテネシー州のグリーンビルへ移住し、自分の仕立て屋を開業しました。

19歳のとき、17歳のイライザ・マカーデルと結婚します。イライザは基礎教育を受けていたのでアンドリュー・ジョンソンの家庭教師も務めたと言われています。イライザの献身的な努力もあり、アンドリュー・ジョンソンは若干20歳でグリーンビル市議会議員に選出されました。

その後はグリーンビル市長やテネシー州下院議員、テネシー州上院議員を歴任し、連邦上院議員に選出されました。1861年、南北戦争を目前に控えたテネシー州は連邦からの脱退を住民投票によって可決します。テネシー州はアンドリュー・ジョンソンにとってお膝元でありながら、アンドリュー・ジョンソンは上院に留まって連邦政府を支持しました。

アンドリュー・ジョンソンは南部の選出でありながらアメリカ連合国に加わらなかった姿勢をエイブラハム・リンカーンから高く評価され、副大統領を任されました。しかし、1865年4月15日にエイブラハム・リンカーンが暗殺されたため急遽大統領に繰り上がりました。

エイブラハム・リンカーンという圧倒的なカリスマを失ったアメリカのリーダーになったアンドリュー・ジョンソンですが、奴隷制度、アメリカ連合国の復帰問題、反乱を起こした南部人の扱いなどを巡って議会と激しく対立し、アメリカ史上初の弾劾裁判にかけられた大統領になりました。

「アンドリュー・ジョンソン」の経歴

大統領就任まで

1808年、アンドリュー・ジョンソンはノースカロライナ州で生まれ、政治家として活動し始める1828年頃まで「南部州」で過ごしました。貧しい家庭環境だったため、まともな教育を受けることなく仕立て屋の見習い、仕立て屋のオーナーとして生活していました。

1826年、仕立て屋としてテネシー州のグリーンビルで独立したアンドリュー・ジョンソンは政治家になってからも「テネシーの仕立て屋」と呼ばれていました。1827年、19歳のときに2歳年下のイライザと結婚し、生涯で5人の子どもに恵まれ、私生活は順風満帆だったとされています。

テネシーの仕立て屋として評判になっていたアンドリュー・ジョンソンは20歳でグリーンビルの市議会議員に選出され、26歳でグリーンビル市長に就任しました。1841年には民主党の上院議員に選出され国政に参加するようになります。


アンドリュー・ジョンソンはアメリカが南北に分断された時代に物議を呼ぶ人物として知られていました。その理由こそ「出身地と政治スタンスのねじれ」です。アンドリュー・ジョンソンは南部出身で南部選出の議員でしたが、南北戦争の際には連邦に残り政府を支持したのです。南部出身で連邦政府に残ったのは脱退した11州の上院議員ではアンドリュー・ジョンソンだけでした。

連邦から脱退した南部諸州はアメリカ連合国と呼ばれる主権国家を築き、南北戦争において連邦政府(北軍)と戦うことになります。複雑な立場をとったアンドリュー・ジョンソンですが、連邦を守ることを何よりも優先していたエイブラハム・リンカーンからは高く評価され、後のリンカーン政権二期目には副大統領に指名されました。

アンドリュー・ジョンソンが南部出身ながら連邦に残ったことは現在でも議論の対象です。事実、アンドリュー・ジョンソンは奴隷保有者で奴隷制度には賛同していました。大統領就任後も奴隷制度廃止を目指す議会と対立し、度々拒否権を行使しています。

奴隷制度に賛同していながらも連邦に残ったアンドリュー・ジョンソンはエイブラハム・リンカーンと同様に「連邦を守る」ことに重きを置いていたという見解もあります。一方で、連邦からの離脱に反対していたテネシー州東部出身だったため離脱に反対しただけという見解もあり、アンドリュー・ジョンソンの評価は二分されています。

1864年11月の大統領選でエイブラハム・リンカーンとアンドリュー・ジョンソンは国民統一党(National Union Party)から選出され勝利します。1865年3月、アンドリュー・ジョンソンはリンカーン政権で副大統領に就任します。しかし、翌月の4月15日にエイブラハム・リンカーンが殺害されてしまいます。

大統領就任後

急遽、繰り上がるようにして大統領に就任したアンドリュー・ジョンソンはエイブラハム・リンカーンが成し遂げなかった南北戦争後の問題に直面します。政府にとってこの時の大きな課題は「南部の再建(Reconstruction)」でした。一度離脱した南部諸州が連邦へ復帰する道筋、解放された奴隷の扱い、南部軍の反乱者の扱いなど多岐に及びました。

生前のエイブラハム・リンカーンは、南部諸州が円滑に連邦に戻れるように多くの条件を付けることには反対していました。しかし、チャールズ・サムナー上院議員を始めとする共和党の過激派はアメリカ連合国の主要人物は厳しく処罰し、連邦に忠誠を尽くすことが認められるまで権利を抑制、そして解放された奴隷には完全な市民権を与えるべきと主張しました。

エイブラハム・リンカーンが殺害された直後、共和党の過激派はアンドリュー・ジョンソンに接触し、エイブラハム・リンカーンが望んだ南部再建案を覆そうと企てます。しかし、アンドリュー・ジョンソンはエイブラハム・リンカーン政権時の官僚を留任し、エイブラハム・リンカーンの南部再建策を大統領令で実行しました。

アンドリュー・ジョンソンは南部諸州に奴隷制度の廃止を含んだ憲法修正条項第13条の批准やアメリカ連合国の負債履行の拒否、そして連邦を脱退する法令の無効化を求め、仮に全州がこれらの要件を満たせば連邦に復帰できるものとしました。特筆すべきは、南部連合の高官たちおおよそ14,000人に連邦への忠誠を宣言させることで赦免したことです。

アンドリュー・ジョンソンはエイブラハム・リンカーンが目指した南部諸州へ寛大な処置をとって連邦に復帰させることを実践したのでした。一方で、1866年にアンドリュー・ジョンソンは、解放奴隷の生活を守るために1865年に1年間の期限付きで発足した解放民管理局の存続を望んだ穏健派のライマン・トランブル上院議員が提出した法案を拒否しました。これにより過激派だけでなくすべての共和党議員と対立することになります。

さらに、アンドリュー・ジョンソンは共和党が強く推進していた公民権法案までも拒否しました。公民権法案は黒人をアメリカ市民にし、一般的なアメリカ人と同じように平等な権利を持たせるという画期的なものです。これを拒否したアンドリュー・ジョンソンは共和党だけでなく、奴隷解放制度を支持してきた北部の世論からも非難されるようになりました。

1866年4月、上院下院は共にアンドリュー・ジョンソンの拒否権を投票によって覆し、公民権法案を再可決しました。このことは議会が大統領の拒否権を覆した前例としてアメリカ史に残る重要な出来事になりました。アンドリュー・ジョンソンは大統領在任中に合計で21回も拒否権を行使したものの、15回は議会によって覆されており、歴代大統領のなかでも極めて高い頻度で覆されています。

その後、アンドリュー・ジョンソンは政敵だった共和党員や郵便局長などを僅か5ヶ月の間に1,700人も罷免権を行使して罷免しました。共和党との対立や、強引な手法はすぐに崩壊を招きました。アンドリュー・ジョンソンが推進した南部再建策は頓挫し、議会は大統領の権限を法案によって次々に剥奪する行動に出ました。

1867年には罷免権を含む公職在任法案、南部再建策を管理する権限、そして各省庁の業務を管理する権限を大統領から奪っていきました。アンドリュー・ジョンソンは拒否権を行使して抵抗したものの、議会によって拒否権は覆され大統領の特別権限は減っていきました。

エイブラハム・リンカーン亡き後、南部再建計画を推進しようと尽力したアンドリュー・ジョンソンでしたが、皮肉にもその手腕によって大統領の政治的権限を大幅に減らされ、後ろ盾になる政党すらも失ってしまいました。


1868年2月、ついにアンドリュー・ジョンソンは弾劾裁判にかけられることになります。11項目にもおよぶ理由のなかには、人民に対し扇動的で中傷的な演説をしたことや公職在任法を無視して政敵だったエドウィン・スタントン陸軍長官を罷免したことが並びました。

同年3月に行われた表決によって賛成35票、反対19票という結果になり、罷免が成立する賛成票36票にわずか1票の差という結果になりました。アンドリュー・ジョンソンは罷免を免れましたが、議会との対立はもはや修復不可能となり任期の1869年3月4日で第一線から身を引きました。

ポイント1:南部再建計画

アンドリュー・ジョンソンはエイブラハム・リンカーンに認められたことから、意志を継いだ大統領と考えられていました。しかし、議会からの賛同を得られない強引な手法や荒っぽい性格などが災いして次々と味方を失い、うまくいきませんでした。エイブラハム・リンカーンと同じような手法で人事権や拒否権を行使しましたが「緊急事態か否か」という点が大きく異なっていたのでした。

ポイント2:アラスカ購入

1867年4月、アンドリュー・ジョンソンはロシアからテキサス州の2倍にもおよぶ土地を720万ドルで購入する条約に署名し、議会を3時間以上かけて説得しました。当時の新聞や世論はアラスカの土地は不毛地帯と信じていたため(後に豊富な資源が発見されている)、アンドリュー・ジョンソンや交渉に尽力したスーアード国務長官たちは厳しく非難されました。ある新聞の見出しには「アンドリュー・ジョンソンの北極熊園」と皮肉まじりに書かれています。

ポイント3:弾劾裁判を受けた初めての大統領

アンドリュー・ジョンソンはアメリカ史のなかで初めて弾劾裁判を受けた大統領です。1998年にビル・クリントンが弾劾訴追を受けるまで唯一の存在でした。リチャード・ニクソンも弾劾訴追を受けましたが、裁判の前に辞任しているため数えられていません。アンドリュー・ジョンソンは長く続く大統領史のなかでも議会との対立が激しかった人物と言えるでしょう。

まとめ

アンドリュー・ジョンソンは困難を極めたエイブラハム・リンカーン政権を急遽引き継いだため苦心した大統領でした。さらに、政治手腕がなかったことで議会との対立が続き、大統領の権威や権限が弱体化したきっかけを作ったともされています。ただし、弾劾裁判の結果で罷免を免れたことは、かろうじて大統領制度の崩壊を守ったとされています。

アンドリュー・ジョンソンに関する豆知識

・議会との対立が悪化するなか、お酒を飲んで演説することもあったとされています。その際の辛辣な表現は凄まじく、大統領としての品格を大きく損なうほどだったと言われています。

本記事は、2019年2月15日時点調査または公開された情報です。
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