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アメリカ第21代大統領チェスター・アラン・アーサーについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第21回目は、第21代大統領を務めたチェスター・アラン・アーサーです。チェスター・アラン・アーサーは、政治家になる以前は、弁護士として働いていました。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

2019年09月11日更新

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目次
はじめに
「チェスター・アーサー」のプロフィール
「チェスター・アーサー」の経歴
ポイント1:ペンドルトン法の可決
ポイント2:腐敗した政府との決別
ポイント3:中国人入国拒否法
まとめ
チェスター・アーサーに関する豆知識

はじめに

チェスター・アラン・アーサー(以下、チェスター・アーサー)は、ジェームズ・ガーフィールドが銃弾に倒れた後、副大統領から昇格するかたちでアメリカ第21代大統領に就任した人物です。汚職や腐敗にまみれた議会の誰からも信頼を得ることなく大統領に就任し、大統領職を終える頃には多くの人から尊敬された人物としても知られています。

アメリカの歴史家のなかでは、チェスター・アーサーのような政治をすることはいまでは到底難しいとされるほど功績を讃える人もいるほどです。今回は1881年9月から1885年まで大統領を務めたチェスター・アーサーについて解説します。

「チェスター・アーサー」のプロフィール

チェスター・アーサーはアイルランド系イギリス人の父親と、バーモント出身の母親の間に生まれました。公の出生地はバーモント州とされていますが、父親の仕事に縁があったアイルランドかカナダのケベックで出生したともされています。この不明確な出生地問題はアメリカの政治家として活躍する際に厄介な問題に発展することになります。

幼少期は公立の学校に通い、名門のウィリアム大学に進学します。古典を専攻する傍らで、ホイッグ党員としても活動してホイッグ党首のヘンリー・クレイを熱烈に支持しました。大学ではディベート部(弁論部)の部長に選出され、部長だけが着られるジャケットを着て過ごしていたとされています。

ブラウン大学の大学院に進学した後は地元の学校の校長を務め、1851年にはニューヨークで弁護士として働き始めました。弁護士としては逃亡奴隷や自由黒人の弁護に尽力し、共和党に傾倒していくようになります。

熱心な共和党支持者になったチェスター・アーサーは、共和党の検閲長官や経理部長などを任されるようになり、時の大統領であるユリシーズ・グラントからニューヨーク関税徴収官を任命されました。しかし、後のラザフォード・ヘイズ大統領の公職人事改革の一環として更迭されることになります。

チェスター・アーサーは1880年の大統領選挙において副大統領に選出されますが、翌年の9月にジェームズ・ガーフィールドが銃撃によって命を落としたため、繰り上がるようにして大統領に就任することになります。ジェームズ・ガーフィールドが志なかばに終わった公職制度改革を引き継ぐことになったのです。

「チェスター・アーサー」の経歴

生い立ちから大統領就任まで

チェスター・アーサーは1829年にバーモント州で生まれたとされていますが、晩年では1830年生まれと主張して1歳若く見られようとしたり、実はバーモント州で生まれていないため、アメリカ国民ではないすなわちアメリカの政治家になる権利がなかったと現在でも疑惑が持たれています。

事実、1880年の大統領選の際に副大統領候補だったチェスター・アーサーを陥れようと画策した民主党陣営は弁護士を雇って調査を実施し、チェスター・アーサーはアイルランドかカナダのケベックで生まれたと主張しました。さらに、父親がチェスター・アーサーが生まれた後も1843年までアメリカに帰化しなかったため、二重国籍を持った状態でした。

このような生い立ちに関する疑惑の目は、政治家として活躍し始めてからも向けられ続け、チェスター・アーサーは生涯にわたって疑惑を持たれる人物として知られるようになります。しかし、後の大統領職において疑惑の目を払拭させるほどの活躍をすることになります。

1845年、チェスター・アーサーはブラウン大学に進学、1851年には修士号を取得して弁護士として活躍するようになります。弁護士として活動するために選んだ場所がニューヨークで、この選択によって政治家としての道が始まります。

弁護士として活動する傍ら、共和党員として南北戦争の際にはニューヨーク州の主計総監、さらに関税徴収官などを歴任します。この頃には、共和党の堅固派として知られたロスコー・コンクリングがチェスター・アーサーを丸め込むようにして議会の都合が良い人物を公職に配置する仕組みが出来ていました。そして、1880年の大統領選においてチェスター・アーサーは副大統領に就任します。

議会主体の政治に強く反発した大統領のジェームズ・ガーフィールドは公職制度改革を断行します。しかし、チェスター・アーサーはロスコー・コンクリングの圧力によってメディアや周囲の反発を受けながらもジェームズ・ガーフィールドの公職制度改革を止めるようにジェームズ・ガーフィールドを説得しました。

ジェームズ・ガーフィールドはチェスター・アーサーの説得を拒絶し、公職制度改革を断行しようとしますが、1881年7月に銃撃されて瀕死の重傷を負ってしまいます。この銃撃を受けて世論は公職制度改革を支持、推進する流れに変わり、チェスター・アーサーもそれに同調するようになります。

大統領就任

1881年9月、ジェームズ・ガーフィールドが命を落とし、チェスター・アーサーは大統領に昇格します。これを機会にして、堅固派のロスコー・コンクリングと袂を分かち、公職制度改革を推進することに注力するようになります。チェスター・アーサーのこの行動を受けた堅固派からは不信を買い、議会からは信用できない大統領とまで揶揄されるようになりました。

大統領になったチェスター・アーサーは1882年の中間選挙で政敵の民主党が勝利したことを受けて、是が非でも実績を残す必要が出てきました。そこで白羽の矢を立てたのが「ペンドルトン法(Pendleton Act)」です。この法案は公職制度改革の一環で、民主党上院議員のジョージ・ペンドルトンによって提案されたものです。

ペンドルトン法は、資格試験によって公職が選任される制度で、現代ではごく当たり前ですが、当時の腐敗した政治においては極めて画期的な制度でした。仮に、この法案が成立すれば政治信条や政党、宗教や人種などに関係なく公務員が選ばれるようになるため、長く続いた公職制度の腐敗や世論からの悪いイメージ払拭に繋がるものでした。

チェスター・アーサーは議会にペンドルトン法の可決を訴えますが、議会はそれを無視して従来通りのやり方を維持しようとします。しかし、チェスター・アーサーは世論に訴えかけることと、全国で公職制度に不満を持っていた個人や団体を組織化し、ついには1883年にペンドルトン法を可決に持ち込みました。

腐敗した公職制度に大鉈を振るうことになったチェスター・アーサーの決断は世論からは支持され、1897年には公職の50パーセントがペンドルトン法の対象となり、1932年までには80パーセントにまで及びました。現代からすれば当たり前の制度ですが、この時代に断行したことこそがチェスター・アーサーの大きな功績とされています。

ペンドルトン法の可決は世論からは支持されたものの、当然ながら既存の政治界からは批判の対象となり、チェスター・アーサーは1884年の大統領選では共和党からの支持を得られずに大統領候補の指名を得ることなく引退しました。引退した同じ年の11月に脳出血によりこの世を去りました。

ポイント1:ペンドルトン法の可決

チェスター・アーサーは政界から多くの反対や批判を受けながらも公職制度改革を実行した大統領として現代でも高い評価を受けています。なかでも公務員を試験制度で選出することを定めたペンドルトン法を成立させたことは偉業と言えます。

この偉業の影にはチェスター・アーサーの「草の根活動」がありました。政治家のための政治になりつつあったアメリカ政府を、元の姿に戻したことは現代では到底無理な偉業と言われています。

ポイント2:腐敗した政府との決別

チェスター・アーサーは熱心な共和党員だったことから共和党堅固派のロスコー・コンクリングによって都合良く扱われていました。しかし、公職制度改革を推進した先代の大統領ジェームズ・ガーフィールドが死んでからは堅固派を見限るようにして改革を断行しました。

チェスター・アーサーは、ジェームズ・ガーフィールドから引き継いだ政策を実行する道義的責任があると主張し、政界に多くの敵を作りながらも改革を実行しました。この姿勢には政敵のなかからも賞賛の声をあがったとされています。

ポイント3:中国人入国拒否法

チェスター・アーサーはラザフォード・ヘイズがそうであったように中国人移民を制限する法案に拒否権を行使して反対しました。当時のアメリカにとって中国人は鉄道建設や鉱山労働者などの貴重な労働力でしたが、議会は中国人が増え過ぎてしまったことで先20年間は中国人移民を差し止める法案を可決しました。

チェスター・アーサーは拒否権を行使しますが、対立関係にあった議会との溝は深く、妥協案で10年間の移民差し止めで決着させました。しかし、この中国人入国拒否法は1943年まで更新され続けることになります。

まとめ

チェスター・アーサーは先代大統領の死を受けて副大統領から急遽、昇格した人物です。就任当時は議会からも信用されない人物でしたが、議会との対立を覚悟のうえで公職制度改革を断行したことは大きな功績だったとされています。政治のしがらみではなく、道義的責任に重きを置いて大統領を務めた人物と言えるでしょう。

チェスター・アーサーに関する豆知識

・美食家としても知られており、わざわざホワイトハウスを改築してまでパーティーを開催していたとされています。
・チェスター・アーサーは、1885年3月に大統領職を終え、同年11月に他界しています。これはジェームズ・ポークに次いで2番目に早い退職後の死とされています。

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