アメリカ第25代大統領ウィリアム・マッキンリーについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第24回目は、第25代大統領を務めたウィリアム・マッキンリーです。ウィリアム・マッキンリーは、その肖像が1928年から1946年の間、500ドル紙幣に使用されていたことで有名です。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。


はじめに

1897年からアメリカ第25代大統領を務めたウィリアム・マッキンリーは、現代に繋がる近代的アメリカ政治の基礎を築いた大統領として知られていますが、大統領2期目を迎えた1901年に暗殺された人物です。

また、南北戦争に従軍した最後の大統領としても知られ、19世紀から20世紀にかけて大きな時代の流れを迎えた際に大統領を務めていました。今回は「オハイオ州のアイドル」という異名を持っていたウィリアム・マッキンリーについて解説します。

「ウィリアム・マッキンリー」のプロフィール

1843年、ウィリアム・マッキンリーはオハイオ州で9人兄弟の7番目として生まれました。曽祖父はスコットランドとアイルランドからの移民集団のひとりで、独立戦争を戦った人物とされています。

幼少期はオハイオ州のポーランドで過ごし、地元の公立学校を卒業してからはペンシルベニア州の名門校アレゲニーカレッジに進学します。しかし、体調を崩してしまい休学を余儀なくされます。療養のためオハイオ州に戻って復学を目指しましたが家庭の経済事情により断念し、学位を取得することなく退学しました。

家計を支えるために教師や郵便局で働き始めた矢先に南北戦争が始まります。1861年には北軍のオハイオ州志願兵隊のひとりとして従軍し、おおよそ1年にわたってバージニア州で南軍との戦闘に加わりました。この時の上官が後に第19代大統領を務めることになるラザフォード・ヘイズで、ウィリアム・マッキンリーの働きを高く評価していたとされています。

南北戦争の際にラザフォード・ヘイズの元で活躍したウィリアム・マッキンリーは昇進を繰り返し、終戦を迎えた1865年9月には少佐に名誉昇進をして除隊しました。南北戦争でラザフォード・ヘイズと出会ったことが政治の世界へ進む足がかりになります。

南北戦争後、ニューヨーク州で法律を学んで弁護士になったウィリアム・マッキンリーはオハイオ州で弁護士活動を始め、元上官だったラザフォード・ヘイズの州知事選活動を共和党員として献身的に支援します。1868年にはラザフォード・ヘイズはオハイオ州知事に当選し、1876年には大統領に就任します。

要職に就いたラザフォード・ヘイズの手助けを得るようにして共和党の連邦下院議員に選出されたウィリアム・マッキンリーは歳入委員会の議長を務める傍らで、ラザフォード・ヘイズに国内産業を保護するための50パーセントを超える高関税(後のマッキンリー関税)を提案するなどして存在感を強めていきました。

ウィリアム・マッキンリーは1891年にオハイオ州知事に選出され、1896年の大統領選で勝利するまで同知事を務めました。この時代のアメリカは国内開拓から、海外へと目を向け始めた時代で、ひとつの転換期を迎えていました。

「ウィリアム・マッキンリー」の経歴

大統領就任まで

ウィリアム・マッキンリーは1843年に生まれてから、1860年にペンシルベニア州のアレゲニーカレッジに通うまでオハイオ州で過ごしました。社会人になってからもオハイオ州を拠点に活躍し、弁護士としてもオハイオ州民のために尽力しました。

なかでも、ウィリアム・マッキンリーの人柄を表す話として、1876年に鉱山オーナーとオハイオ州の坑夫33名の間で起きたストライキ騒動があります。ウィリアム・マッキンリーはストライキの暴動によって牢獄に入れられた坑夫たちを弁護し釈放させることに成功しますが、騒動後に坑夫たちが寄せ集めた弁護士費用の受け取りを拒否したとされています。


ウィリアム・マッキンリーにとってそれほどまでにオハイオ州は思い入れが強い場所であり、この思い入れこそが後にオハイオ州知事、大統領就任への支えとなります。

事実、州知事時代にはそれまで実施されてこなかった州内の貧困層の実態数を調査し、自らがチャリティーの先頭に立って10,000人以上に食事と衣類を提供できるだけの募金を集めました。このような背景からウィリアム・マッキンリーは「オハイオ州のアイドル」と呼ばれるようになったのです。

ウィリアム・マッキンリーが政治の世界へ進むようになったのは、南北戦争の際に後の大統領であるラザフォード・ヘイズの元で働いたことが大きく影響しています。ラザフォード・ヘイズがオハイオ州知事に当選したのは、州民に働きかけたウィリアム・マッキンリーの功績が大きかったとされています。

自身が州知事に選出されてからもオハイオ州のために働くことを続け、2ヶ月間でおおよそ16,000マイル(約26,000キロ)を移動しながら、ときには1日7回にもおよぶ演説を実施しました。このような活動は1896年の大統領選での勝利に結びついていきます。

ウィリアム・マッキンリーのこのような行動や実績は、それまでの「政党」による選挙という概念を覆し「候補者」が選挙の中心になるという概念を作り出しました。この点においてウィリアム・マッキンリーは近代的なアメリカ政治の基礎を作ったと言われています。

大統領就任後

大統領に就任したウィリアム・マッキンリーはこれまでの大統領とは異なり、アメリカ国内政策や立法化よりも外交政策に従事することになります。その代表的な事例が1898年にスペインとの間で勃発した米西戦争です。

米西戦争の背景にはスペインの植民地だったキューバの存在があります。当時、アメリカはキューバ国内に農場や鉱山など多額の経済的権益を保有していたことに加えて、キューバの独立を支持する立場をとっていました。しかし、スペインはキューバに高圧的な態度を続け、強制収容所で非人道的な行為が繰り返されていることが発覚しました。

これを知ったウィリアム・マッキンリーは政治的介入をしてスペイン政府に対してキューバに自治権を与えることを進言し、キューバ問題は解決したように見えました。しかし、キューバのハバナ港に停泊中だったアメリカ海軍の戦艦メイン号が突如爆発して266名が犠牲になる事故が発生します。

アメリカ政府はこれをスペインによるものと断定し、ウィリアム・マッキンリーはスペイン政府に対してキューバ問題にアメリカが仲裁できるようにする覚書を送付しました。覚書の送付は平和的な解決を図るものでしたが、高ぶったアメリカ国民や議会の感情を抑えられず、最終的に戦争教書を議会に送付して戦争が始まりました。

米西戦争の表向きの理由はキューバの自由と独立、そして民主主義を守る正義でしたが、実際にはイギリスの影響力がカリブ海や太平洋地域に及ぶのを防ぐことが狙いでした。米西戦争の勝利はアメリカにとって国際的な責務を負う理由を得たことでもあり、後にアメリカが国際的な問題に介入する先例になりました。

米西戦争でアメリカに大きな影響を与えたことのひとつがフィリピンの獲得でした。敗れたスペインはアメリカにプエルトリコとグアムを割譲し、2,000万ドルとフィリピン領を交換しました。これによってアメリカはアジアを含む極東の強国になります。

米西戦争はアメリカにとって単なる戦争ではなく、今日まで続く「世界のアメリカ」の基礎を作ったと言えます。ウィリアム・マッキンリーが近代的なアメリカ政治を作った人物と言われる背景には米西戦争の決断と勝利が大きく影響していると言えるでしょう。

キューバやフィリピンなどをアメリカ政府の保護下にしてアメリカを世界の強国に仲間入りさせたウィリアム・マッキンリーは1900年の大統領選でも勝利し、2期目を迎えます。

しかし、2期目を迎えて半年を経った1901年9月6日、ニューヨーク州で開催されたパンアメリカン博覧会に訪問していたウィリアム・マッキンリーは2発の銃撃を受けて、一時は回復傾向にあったものの銃撃から8日後の9月14日に死亡しました。

ポイント1:米西戦争

ウィリアム・マッキンリーが大統領を務めた時代に起きた米西戦争はアメリカがかつてのイギリスのように世界に台頭するきっかけを作った戦争でもありました。同時に、自由や民主主義を主張して他国の問題に介入する前例になったと言えます。


ウィリアム・マッキンリーは米西戦争を毎日のように監督し、戦争に積極的に関わりを持ちました。アメリカの大統領が戦争に関与する基礎はこの時に始まったとされています。

ポイント2:ハワイ併合

ウィリアム・マッキンリーはハワイ王国をアメリカ自治領のハワイ準州として併合させた人物です。先代の大統領だったグロバー・クリーブランドはハワイ共和国を承認しなかったのに対してウィリアム・マッキンリーはすぐに承認しました。

この背景には帝国主義政策を執っていたウィリアム・マッキンリーが、ハワイ諸島を太平洋支配の拠点として活用しようとしたことがあります。事実、ハワイ準州になった直後にアメリカ海軍太平洋艦隊の基地が建設されました。これが有名なパールハーバーです。

ポイント3:米比戦争

ウィリアム・マッキンリー政権では米西戦争の他にフィリピンを相手にした米比戦争もありました。アメリカとフィリピン独立派によるもので、アメリカがスペインと講和条約を結び、フィリピンは独立ではなくアメリカの保護下になったことに対する反発がきっかけになりました。

ウィリアム・マッキンリーは、すでにアメリカ領土になっていたフィリピンに対して戦争ではなく「反乱」として扱いました。「警察活動」と称した2年半に及ぶ制圧では、10歳以上は皆殺しにする虐殺や拷問が繰り返され、フィリピン人兵士おおよそ2万人、民間人25万人以上が犠牲になったと言われています。

まとめ

ウィリアム・マッキンリーはアメリカ政治が国内から国外へ向かった時代の先駆け的な大統領と言えます。歴史家の間では「進歩主義時代(Progressive Era)」と呼ばれ、アメリカ社会と政治の大きな転換期になりました。

一方で、スペインやフィリピンとの間で戦争が起こり、後に太平洋戦争にまで繋がる時代の基礎だったとも言えます。自由と民主主義を盾にした実質的なアメリカの帝国主義が加速していくのでした。

ウィリアム・マッキンリーに関する豆知識

・映像資料が残っている初めての大統領で、それを撮影した人物こそトーマス・エジソンです。
・1946年に廃止された500ドル紙幣の肖像画に採用されていました。
・ホワイトハウス内に記者室を用意し、側近を通じて大統領の仕事を記者に伝えていたとされています。これが現代のホワイトハウス報道官の走りと言われています。

本記事は、2019年9月24日時点調査または公開された情報です。
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