江戸時代、寛政の改革と天保の改革の合間にあった化政文化の芸能分野

江戸時代の文化といえば「元禄文化」「化政文化」が有名です。学校の社会の授業では必ず学習する内容になっています。元禄文化が上方中心の文化であるのに対し、化政文化は江戸中心です。葛飾北斎や小林一茶など有名な文化人や歌舞伎などの芸能があります。是非おさえておいてください。


化政文化の背景

寛政の改革の反動

田沼意次が老中首座だった頃に幕府の財政は立ち直りの兆しを見せましたが、天明の大飢饉や浅間山の大噴火、農村の荒廃などによって再び苦しい状況に陥ります。一揆や打ち壊しが相次ぎ、田沼意次は失脚。幕府は松平定信の手腕に期待することになります。

この時期に将軍だったのは、11代目・徳川家斉です。徳川家斉は御三卿の一角である「一橋家」の出身で、10代目・徳川家冶の養子となっています。将軍に就任したときにはまだ15歳でした。

その後見人として政治を主導したのが徳川吉宗の孫である松平定信になります。1787年に老中首座となった松平定信は祖父の享保の改革を模範として「寛政の改革」を実施しました。賄賂を徹底的に取締り、質素倹約を役人から庶民にまで強制しています。

政治の流れが180度転換したわけです。蘭学を否定し、朱子学のみを公認としました。「寛政異学の禁」です。田沼意次は蘭学を奨励していたわけですから、これだけでも世間は困惑します。しかし松平定信はさらに言論統制を断行していきます。庶民の生活の中から贅沢品を取締り、一大ブームとなっていた洒落本や黄表紙なども出版統制されることになるのです。これにより「山東京伝」や「恋川春町」ら「宝暦・天明文化」で活躍した文化人が処罰されることになります。

松平定信の対応があまりにも極端だったために役人からも庶民からも反発を買い、さらに将軍である徳川家斉とも険悪なムードとなりました。そして松平定信はわずか6年で解任されます。

どうやらここで将軍・徳川家斉は改革というものが、とてもわずらわしく、役人も庶民もみな迷惑するだけのものだと感じたようです。庶民の反応も同様で、「白河の清きに魚もすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」という狂歌が有名になっています。松平定信はもと白河藩藩主でした。田沼意次の時代を懐かしんだものです。

寛政の改革が終わると、将軍・徳川家斉も贅沢な生活を送っていくことになります。こうして老中首座に田沼派だった水野忠成が就任し、賄賂政治が復活していくのです。田沼が健在だった頃よりも賄賂は横行したようです。その時期こそ、江戸の町人が主役として文化が再び活性化する「化政文化」に当たります。

化政文化の終焉は天保の改革

11代目将軍の徳川家斉はおよそ50年に渡り政治の中枢にいました。これは息子の12代目将軍・徳川家慶に将軍位を譲ってからも続いていたことになります。これを「大御所時代」と呼びます。元号で記すと、「天明」「寛政」「享和」「文化」「文政」「天保」と徳川家斉の権勢は続くのです。この間に幕政は腐敗し、財政難はより一層深刻なものとなっていくのでした。

そして1841年に徳川家斉が死去、将軍・徳川家慶は老中首座であった水野忠邦と共に人事を刷新し、「天保の改革」を実施します。寛政の改革同様に、ここでも徹底的な風俗取り締まりが行われ、歌舞伎の「市川團十郎」や、人情本の「為永春水」が処罰されています。文化・文政の時期を併せて、「化政」と呼びますが、化政文化は天保の改革が開始されて衰退していくことになります。

つまり「元禄文化」が興った後に「享保の改革」で言論・出版統制が行われ文化は衰退。その後の「宝暦・天明文化」で再興するも「寛政の改革」の言論・出版統制で衰退。さらに「化政文化」で盛り上がるも、その後の「天保の改革」の言論・出版統制で衰退することになるのです。

そして、ここから先は黒船の来航など開国に向けた動きに日本は進んでいくことになります。江戸幕府は滅び、明治維新、文明開化を迎えることになるのです。


化政文化を代表する絵画作品

名所画を確立させた「葛飾北斎」:「富嶽三十六景」

化政文化を代表するもっとも有名な人物といえばこの人でしょう。「浮世絵」の「葛飾北斎」です。

世界的な名画「ひまわり」をはじめとして、その後の美術に大きな影響を与えた世界的に有名なオランダの画家・ゴッホ。彼が絶賛して仲間たちに紹介したのが葛飾北斎の浮世絵なのです。

世界的に有名なフランスの作曲家であるドビュッシーは、葛飾北斎の浮世絵から交響曲の「海」を作曲したといわれています。それだけの独創性とインパクトが葛飾北斎の作品にはあるのです。まさに化政文化だけでなく、江戸時代、日本文化を代表する画家といっても過言ではないでしょう。

そんな葛飾北斎も当初は江戸で「洒落本」「黄表紙」「読本」などの挿絵を担当していました。浮世絵といえば美人画や役者絵が主流でしたが、葛飾北斎はここに「名所画」を確立しています。その代表作品が「富嶽三十六景」です。日本の様々な場所から富士山を描いたのです。「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴」などがよく取り上げられ、有名ですね。

葛飾北斎と並び称される「歌川広重」:「東海道五十三次」

葛飾北斎と同様に西洋美術に絶大な影響を与えたのが「歌川広重」です。ゴッホやミネがその影響を受けています。歌川広重も江戸の浮世絵師で、最初は役者絵からデビューし、美人画なども手掛けています。

しかし、歌川広重といえば、葛飾北斎と同じく名所画が有名です。代表作品はあの「東海道五十三次」になります。庶民の暮らしや生活ぶりも伝わってきます。美しい青の色づかいは「ヒロシゲブルー」と呼ばれています。

日本の文化だけでなく、海外の文化にまで影響を与えたという点において、葛飾北斎と歌川広重は特筆すべき文化人です。

化政文化を代表する文学作品

滑稽本を確立した「十返舎一九」:「東海道中膝栗毛」

黄表紙や洒落本、読本の他に人情本などを書いてきた「十返舎一九」は、1802年に「滑稽本」の「東海道中膝栗毛」を発表し、一躍人気作家となります。面白可笑しく東海道を徒歩で旅する物語です。

「寺子屋」の普及によって庶民の教育熱も高まっており、字を読める人口が増加していたことも、東海道中膝栗毛が大ヒットした要因だと考えられています。滑稽本は読本よりも読み易く書かれていました。その後も十返舎一九は東海道中膝栗毛の続きを書き続け、21年後に完結しています。

十返舎一九は滑稽本を確立しただけでなく、プロの作家の地位も築いたといえます。日本人としては初めて著書の収入だけで生計を立てた人物とされています。

滑稽本の「式亭三馬」:「浮世風呂」

十返舎一九とほぼ同時期に活躍したのが「式亭三馬」です。浮世絵師でもありましたが、黄表紙などの作品も手掛けていました。平賀源内や山東京伝をリスペクトしていたと伝わっています。十返舎一九とも交流がありました。

式亭三馬の代表作品といえば、浴場の物語で、まるで落語のような滑稽本「浮世風呂」です。1809年から発表されていますので、十返舎一九の東海道中膝栗毛が発表された後になります。江戸庶民の日常や価値観などが伝わってくる作品です。

人情本の「為永春水」:「春色梅児誉美」

式亭三馬の弟子に「為永春水」がいます。作品のジャンル的には「人情本」になります。人情本は庶民の恋愛物語です。色恋については遊郭を舞台にした洒落本が先駆になりますが、こちらは寛政の改革で厳しく弾圧されたために、遊郭を離れて庶民の生活を舞台にした恋愛話の人情本が浸透していきます。

為永春水の代表作品は恋愛の三角関係のもつれを描いた「春色梅児誉美」です。1832年に発表しています。しかし洒落本と同じく人情本も天保の改革で取り締まられています。為永春水は摘発され、遠山の金さんとして有名な北町奉行の遠山景元によって手鎖の刑に処せられています。

読本の「滝沢馬琴」:「南総里見八犬伝」

山東京伝の弟子のような存在としては「滝沢馬琴」がいます。曲亭馬琴の名でも知られています。式亭三馬とは犬猿の仲だったようです。当初は黄表紙を書いていましたが、やがてファンタジー歴史作品で一躍有名となりました。こちらは「読本」という分類になります。


源為朝を主人公にし、琉球王国を再建するフィクション歴史物語「椿説弓張月」を1807年に発表しました。こちらの挿絵を葛飾北斎が担当しています。1814年には、現代でも映画化されるほどの人気作品「南総里見八犬伝」を発表。28年間もの長きに渡り書き続けました。

俳諧の「小林一茶」:「おらが春」

俳諧では「小林一茶」が登場し、近畿・四国・九州と修行の旅をしています。「雀の子 そこのけそこのけお馬が通る」や「我ときて遊べや親のない雀」といった句が有名です。文集「おらが春」は小林一茶の没後に編纂されています。

小林一茶は、生前はあまり高い評価を受けておらず、明治時代になって正岡子規によって広く世に知られることになりました。松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代の俳諧を代表する巨匠のひとりに位置付けられています。

化政文化を代表する芸能

歌舞伎の「七代目・市川團十郎」:「勧進帳」

江戸時代に一世を風靡した「歌舞伎」の「寄席」には多くの民衆が集まりました。中でも人気だったのは七代目「市川團十郎」です。1840年には有名な演目「勧進帳」を初めて演じています。

しかし天保の改革が始まり、厳しい奢侈禁止令が発令されると、七代目市川團十郎は処罰の対象となり、手鎖の刑となります。さらに江戸を追放されることになりました。天保の改革では寄席は禁止、歌舞伎は廃絶寸前まで弾圧されました。これは庶民の娯楽のメインが歌舞伎であり、歌舞伎の中心人物が七代目市川團十郎だったことを物語っているともいわれています。

長唄の「四代目・杵屋六三郎」:「勧進帳」

江戸時代には三味線音楽がブームになっており、「地歌」「長唄」というジャンルが人気を集めています。浄瑠璃や歌舞伎などにも使われました。長唄で有名な四代目「杵屋六三郎」は、歌舞伎の七代目市川團十郎に認められて、勧進帳を作曲しています。

まとめ

このように「寛政の改革」の後、「江戸の町人」中心に盛り上がりをみせたのが「化政文化」になります。文化人の名前を見ても、作品にしても現代の文化に直接的な影響を与えたものばかりです。「元禄文化」「宝暦・天明文化」としっかり区別がつけられるようにしておきましょう。

化政文化が町人中心に盛り上がったことへの反動なのか、「天保の改革」において町人らは厳しい統制を受けることになります。「士農工商」の中で、士農と工商では扱いが違ったようです。背景としては、貨幣経済が発達し、農民の多くが都市部に移り住んだために幕府の財政の収入源である年貢が減少していました。町人の娯楽や生活を制限することで、農民を帰農させるための法令「人返し令」の効果を高めようと考えたのかもしれません。

庶民の暮らしや娯楽を制限したことで、庶民の反発を受けた天保の改革ですが、「上知令」によって大名や旗本すらも反対するようになります。そして老中首座にあって改革を主導してきた水野忠邦は1843年に解任されて、天保の改革は終了しています。

その10年後、ついにペリーの黒船が日本に来航します。日本の文化は鎖国の終了と共に大きな変貌を遂げていくことになるのです。

著者・ろひもと理穂

本記事は、2018年1月14日時点調査または公開された情報です。
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