アメリカの大統領 第3代 トーマス・ジェファーソンについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第三回目は、第3代大統領を務めたトーマス・ジェファーソンです。トーマス・ジェファーソンは、アメリカ史にとって重要な文書を書き、急進的な思想を啓蒙した人物です。

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はじめに

1801年から1809年までアメリカ合衆国第3代大統領を務めたトーマス・ジェファーソンは大統領に就任する前には初代国務長官、副大統領を歴任し、政治家として活動する以前には弁護士、園芸学者、建築家、考古学者、バージニア大学創設者など様々な分野で活躍した人物です。

このような経歴から歴代アメリカ大統領のなかで最も偉大な人物と評される声があります。今回は大統領職以外にも多彩な才能を発揮したトーマス・ジェファーソンについて解説します。

「トーマス・ジェファーソン」のプロフィール

トーマス・ジェファーソンはアメリカの独立宣言を書いた中心人物として広く知られています。文才があると評判だったため、第2代大統領を務めて同じく独立宣言を書いたメンバーだったジョン・アダムズからその役割を任された経緯があります。

現在でこそ独立宣言はトーマス・ジェファーソンが書いたと言われていますが、実はジョン・アダムズが大半の構想を考えていました。トーマス・ジェファーソンとジョン・アダムズはライバル関係ながら互いに尊敬する間柄でした。

トーマス・ジェファーソンは大統領を務めた際に「第2のアメリカ革命」を起こした人物と言われています。この革命とは連邦派政権だったアメリカ政府を民主共和党政権に移行したことを指します。それまで中立を目指したジョージ・ワシントンとジョン・アダムズの政権を争いごとを起こさずして政権交代を実現したのです。

トーマス・ジェファーソンは「西部開拓」に大きく貢献した人物としても知られています。その基礎となるのが1803年の「ルイジアナ買収」です。現在のアメリカ国土の23パーセントをフランスから買い上げたことで東海岸から始まった開拓は西海岸へ広がっていきました。戦争ではなく買収という形で決着をつけたことは大きな功績とされています。

このようにトーマス・ジェファーソンは独立宣言、政権交代、西部開拓など現代にまで続くアメリカの基礎を築いた人物です。

「トーマス・ジェファーソン」の経歴

トーマス・ジェファーソンは1743年に13植民地のひとつであるバージニア植民地で大農園を経営し、同じ植民地の有力者たちとの親交が深かった家庭の10人兄弟の長男として生まれます。1757年に父親が死んで以降、土地と数十人の奴隷を相続し家を築きます。ちなみに、この場所は1987年に「Monticello(モンティチェロ)」と呼ばれる世界文化遺産に登録されることになります。

トーマス・ジェファーソンは9歳でラテン語、古代ギリシア語、フランス語を始め、16歳のときに名門ウィリアム・アンド・メアリー大学に入学し哲学を学びます。1日15時間勉強することもあった生活でフランス語を習得し、語学だけでなくヴァイオリンなど様々なことに取り組みました。この頃の意欲的な行動が後のフランスとの交渉や政治観に繋がっていきます。

1762年、優等賞というおまけ付きで大学を卒業し、1767年にはバージニア法廷の弁護士になります。弁護士としてはバージニアの有力者たちを顧客にして年間100件以上の訴訟を扱いました。そんななか黒人の弁護活動にも注力し、後の大統領時代には奴隷の輸入を違法とする法案を成立させました。一方で、生涯で600人以上の奴隷を抱え、彼のプランテーションでは無給で働く奴隷がほとんどだったとされています。

1769年、バージニア植民地議会議員に選出され政治の世界に進みます。この頃、13植民地はイギリスから不当な圧力を受け続けていましたが、トーマス・ジェファーソンは圧力に反対するために決議文を書きます。その際に、イギリスの圧力の不当性を追求するのではなく「植民地で自らを治める自然の権利」を主張しました。


この考え方はバージニアだけでなく植民地全体で独立に向けた思想の基礎となります。この決議文は後に「イギリス領アメリカの諸権利の意見の要約」として出版され、トーマス・ジェファーソンの文才を決定づけたと言われています。

独立戦争が始まった1775年、トーマス・ジェファーソンは第2回大陸会議に参加者のなかで2番目の若さで参加します。1776年には独立宣言を書くメンバーに選出され、ジョン・アダムズやベンジャミン・フランクリンらと共に独立宣言の原稿を書き上げました。そして、同年7月4日にアメリカは独立宣言をし、トーマス・ジェファーソンの功績のひとつになりました。

アメリカの独立後はバージニア議員、邦知事を歴任します。教育改革を進めていた母校のウィリアム・アンド・メアリー大学の法学教授に指名されるものの、改革の遅さに痺れを切らして自らバージニア大学を設立しました。この頃にはイギリスからアメリカ最大の実力者として命を狙われるようになっていました。

1785年から1789年までは駐フランス公使、1790年にはジョージ・ワシントン政権で初代国務長官を務めます。1796年の大統領選ではジョン・アダムズに敗れたものの、副大統領に就任し、1800年の大統領選で第3代大統領に選出され、2期(8年)にわたり大統領職を務めることになります。ちなみに、トーマス・ジェファーソンは1796年の大統領選の際にはすでに隠居生活を送っていました。

トーマス・ジェファーソンはアメリカ史で最も偉大な民主主義者、最も完全な市民、最も偉大な啓蒙活動家などの評価がある一方で、これまでで一番大統領権限を行使した大統領、黒人奴隷への差別主義者、莫大な負債者などの評価もあります。

ポイント1:「革命のペン」と呼ばれた文才

トーマス・ジェファーソンは独立宣言を書いた中心人物であることの他に「イギリス領アメリカの諸権利の意見の要約」や「バージニア覚書」など多くの著書を残しています。独立期に活躍した人物を表す言葉として、ジョージ・ワシントンは「革命の剣」、パトリック・ヘンリーは「革命の舌」、そしてトーマス・ジェファーソンは「革命のペン」があります。

ポイント2:史上最大にお得だった不動産取引「ルイジアナ買収」

トーマス・ジェファーソンは現在のアメリカ国土の23パーセント(15州分)に該当する土地をフランスから破格の1,500万ドルで買収しました。1エーカー(1,224坪・畳2,250枚程度)がわずか3セントでした。土地を望むアメリカと軍資金が必要だったフランスの思惑が一致し、1803年にパリで締結しました。これによりアメリカ西部への道が開かれ、西部開拓が本格化しました。

ポイント3:二面性があると言われ続けた人物

トーマス・ジェファーソンはインディアンや奴隷に対して終始二面性を持っていたと言われています。インディアンを「高貴な野蛮人」と称したように尊重する一方で排除する政策を執りました。1803年にはインディアンの強制移住政策を立案し、1830年にこの政策が元になったインディアン移住法が成立しています。また、奴隷制度には声高々に廃止を訴えていたものの生涯奴隷を保有していたこともあり、現代でも評価は分かれています。

まとめ

トーマス・ジェファーソンはアメリカ史にとって重要な文書を書き、急進的な思想を啓蒙した人物です。それを支えたのが幼い頃から続けた勉学であり文才でした。戦争を避けてペンで政治を動かした象徴と言えるでしょう。良くも悪くも二面性を使い分けたスタイルは現代のアメリカの政治に通ずるものがあります。

トーマス・ジェファーソンに関する豆知識

・トーマス・ジェファーソンはワシントンで就任式を行った初めての大統領で、就任式には約1,000人が集まったとされています。
・アメリカではジョージ・ワシントンに次いで2番目にトーマス・ジェファーソンの名前に由来する地名が多いとされています。
・トーマス・ジェファーソンが死んだ1826年7月4日は奇しくもアメリカ独立記念日で、同日の数時間に政治のライバルで友人だった第2代大統領のジョン・アダムズも息を引き取りました。

本記事は、2018年12月25日時点調査または公開された情報です。
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