アメリカ史上初の黒人大統領 第44代大統領 バラク・オバマについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第43回目は、第44代大統領を務めたバラク・オバマです。バラク・オバマは、アメリカ合衆国史上初の、非白人、アフリカ系大統領として有名です。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

はじめに – アメリカ史上初の黒人大統領

2009年から2017年まで2期8年にわたってアメリカ第44代大統領を務めた人物がバラク・オバマです。

アメリカ史上初の黒人大統領としてや、歴代アメリカ大統領として初めて被爆地である広島を訪れた人物としても知られています。一方で、アメリカ国内では批判が多い医療保険制度改革や移民制度改革などを強引に成立させたという一面もあります。

今回は日本でも広く知られているバラク・オバマがどのような人物だったのか生い立ちから大統領としての功績を含めて解説します。

「バラク・オバマ」のプロフィール

バラク・オバマはハワイ州のオアフ島ホノルルでケニアにルーツを持つ父親と、カンザス州出身の白人の母親との間に生まれました。3歳の頃に両親が離婚しており、幼少期は母親の元で過ごすことになります。父親は成績優秀ながらケニアに帰国してケニア政府のエコノミストとして活動しました。

人類学者になった母親と一緒にインドネシアで新しい生活を始めますが、現地で母親が再婚し祖父母夫妻がいるホノルルに戻ります。しかし、母親が研究のためにインドネシアに再び戻ることになり、母親の祖父母と一緒にホノルルで青年期を過ごしました。この頃に母親と継父は離婚しています。

大学進学と同時にカリフォルニア州にわたり政治学や国際関係論を専攻します。大学卒業後はニューヨークやイリノイ州で、出版社やNPO法人で働きました。その後、ハーバード大学ロースクールに入学し、法務博士の学位を取得しています。

シカゴで弁護士事務所を開設し、人権派弁護士として知られるようになりました。1996年にはイリノイ州議会上院議員選の補欠選挙で当選、1998年と2002年も再選し同州の上院議員を務めました。

2004年の大統領選では民主党候補だったジョン・ケリーの基調演説に登壇し、アメリカ合衆国には人種や保守派やリベラル派などは関係なく平等、自由、そして幸福を追求できること主張した演説でアメリカ全土から注目を集めました。同年の大統領選では民主党は共和党のジョージ・W・ブッシュに敗れてしまいますが、この時に「民主党のバラク・オバマ」が全国に知れ渡りました。

2008年の大統領選では、任期一杯まで務めたジョージ・W・ブッシュの支持率低下を受け、共和党候補ジョン・マケイン候補を大差で破ります。そしてついに2009年1月20日、アメリカ史上初の黒人大統領として正式に就任します。

大統領に就任したバラク・オバマは、公約だったイラクからの完全撤退、外交、人種差別問題や移民問題などの国内政策に立ち向かうことになるのでした。

「バラク・オバマ」の経歴

大統領就任まで

1961年、バラク・オバマはケニア人の父親とアメリカ人の母親の間に生まれ、4歳までハワイ州オアフ島ホノルルで過ごしました。両親の離婚と母親の研究職を理由にインドネシアに引越し、同国の首都であるジャカルタの小学校に通います。1966年には母親が再婚し、1970年には異父妹が誕生しました。

1971年、オアフ島に戻ってきてからは島内で最も有名な私立学校プナホウ・スクールに通います。この頃のバラク・オバマは大麻や飲酒、喫煙などに手を出す素行が悪い少年だったとされており、大統領になってからも大麻吸引問題を指摘されています。(2014年、大麻は喫煙よりも健康被害が少ないと自身の問題を一蹴している)

1980年、母親は再婚相手と正式に離婚し、インドネシアに移住。バラク・オバマはオアフ島に残って祖父母と一緒に生活をしていました。1979年にはカリフォルニア州ロサンゼルスのオクシデンタル大学に進学し、2年後にはニューヨーク州のコロンビア大学へ編入します。政治学を学びながら出版関連の仕事に就くことを目標に、ビジネス誌などへの寄稿を続けました。

1983年に大学を卒業してからは出版社や人道支援に力を入れていた地域振興事業の管理者などを経験しています。また、自身でも職業訓練施設や大学予備校講師事業などを立ち上げるなどし、大統領時代にも通じる「弱者救済」の基礎を身につけました。そして、1988年にはハーバード大学のロースクールに入学し、同校が発行する「Harvard Law Review」や「プレジデントジャーナル」などの編集長を任されています。バラク・オバマの執筆力に定評があるのはこの時代の活躍も大きく影響しているでしょう。

1991年にはシカゴ大学の法学フェロー(研究職)に就任し、1992年にはシカゴで弁護士事務所を開設しました。1992年から2004年まではシカゴ大学ロースクールの講師としても活躍します。1995年には自伝を発表するなど活躍の場を広げていきました。そして、弁護士事務所開設時に出会ったミシェル・ロビンソンと結婚し、1998年に長女、2001年に次女を授かっています。

弁護士として活躍していた頃のバラク・オバマは貧困層救済に重きを置いた活動を続け、後の1996年、1998年、2002年のイリノイ州上院議員選や大統領として活躍する際の土台となるスタイルを確立しました。徹底して弱者に優しいオバマの政策はこの時代に築かれていたのです。

2003年のアメリカ合衆国上院議員選挙ではアフリカ系アメリカ人で史上5人目となる上院議員になり、マイノリティ候補、若さ、演説力、文才などで注目を浴びました。2004年の大統領選の際には民主党候補のジョン・ケリーをサポートする演説で再び注目を浴び、次の民主党候補はバラク・オバマで間違いなしとまで言われるようになります。

大統領就任後

2009年、共和党のジョージ・W・ブッシュが任期を終えてオバマ政権が誕生しました。泥沼化したイラク戦争や外交、イラク戦争やリーマン・ショックなどを発端とする国内経済の混乱をどのように解決するかがオバマ政権に問われました。

オバマ大統領は就任後16ヶ月以内にイラクから全軍を撤退させることを公約にしていましたが反対意見が多く、2010年8月に一部を撤退、5万人を残留させる暫定措置を取ります。結局、共和党の反対派に配慮して2011年12月まで全軍撤退は先延ばしされる結果になります。

オバマ大統領が就任当時から積極的に取り組んだのが「弱者救済」です。とくに急激なグローバル化によって生まれた大量の失業者や医療を受けられない人を救うための政策を全面に打ち出しました。なかでも最重要課題とされていたのが国民皆保険をうたった医療保険制度改革「オバマ・ケア」です。

オバマ・ケアはごく簡単に言うとお金がなくて医療を受けられない人(アメリカ国民6人にひとりに相当)を失くすための法律で、実質的な国民皆保険という仕組みです。一方で、病気がちな人への医療費支払いが増加し中小保険会社は破綻の危機に遭い、中間層の保険料が値上がるなど弊害は大きなものになりました。(後のトランプ大統領はオバマ・ケア廃止を訴えて評価得ることになる)

この他にも移民制度改革にも注力しました。なかでも知られているのが「DACA」と呼ばれるプログラムで、すでに米国籍を取得している人や、15歳以下でアメリカに入国した人たちの強制送還を条件付きで免除するものでした。結局、2期目の2014年に採決先送りのため廃案となり、在籍中の成立はかないませんでしたが、このことは2008年の大統領選時にオバマを支持したヒスパニック系に落胆を与え、オバマ政権は大きな支持基盤を失うことになります。

オバマ政権は平和的な外交に貢献したことでも知られています。なかでもイランとの間で締結した2015年の「核合意(イランの核開発を大幅制限することやIAEAによる調査受け入れなど)」は、10年以上にわたる交渉の上で成立した歴史的な合意と評価されました。(2018年トランプ大統領によって合意離脱)さらに、敵対関係にあったキューバとの国交再開を果たしたことも賛否両論あるものの評価されています。アメリカにとって敵国とされた国と平和的な外交を築いたことは高く評価されましたが、後のトランプ大統領によってすべて覆されることになるのでした。

後にトランプ大統領によって覆されることになるオバマ政権の功績のひとつと言えば「環境問題」です。バラク・オバマはアメリカの主要企業に二酸化炭素排出量の上限を定めたCap And Trad(キャップ・アンド・トレード)を要求したり、2015年の気候変動枠組条約締約国会議(COP21)では俗に言う「パリ協定」の採択にも関わることでアメリカも地球環境を守るために貢献する姿勢を打ち出しました。しかし、これもアメリカ第一主義のトランプ大統領によって離脱という形で2017年に終えることになります。

このようにバラク・オバマは2期8年間で医療保険制度改革、移民制度改革、環境政策、そして平和的外交に取り組みましたが、後任のトランプ大統領によってすべてが見直されることになるのでした。そして、任期一杯の2017年1月20日、共和党のトランプ大統領に座を譲ることになります。

ポイント1:アメリカ史上初のアフリカ系アメリカ人大統領

バラク・オバマはアメリカ史上初となるアフリカ系アメリカ人大統領です。ケニア人の父親と白人の母親を持つバラク・オバマは、アメリカの少数派から絶大な支持を得て弁護士、政治家としてのキャリアを積みました。また、弁護士時代から一貫していた弱者救済の姿勢はアメリカのマイノリティの星とも呼ばれ、貧困層、黒人、移民の期待を集めたのでした。

2009年1月20日、大統領就任式では全米から約200万人(トランプ大統領の時は推定50万人)がワシントンD.C.に集結し、アフリカ諸国でも大々的にテレビ放送がされるなど大きな注目を集めました。報道では涙する多くのアメリカ国民が映し出され、新しいアメリカの始まりを期待した人が多かったとされています。オバマ大統領の誕生はアメリカ史にとって大きな期待や希望に溢れた歴史的なスタートだったと言えるでしょう。

ポイント2:医療保険制度改革

バラク・オバマが大統領就任期間中に最も注力した政策とされているのが「医療保険制度改革」です。国民皆保険を目指したセオドア・ルーズベルト大統領時代(1901年から1909年)から1世紀近く取り組まれてきた法案でしたが、リーマン・ショック後の不景気の最中であったことや、財政負担の増加、保険料値上げ、個人の自由を侵害するなど様々な理由で抵抗され続けました。

2010年3月21日、法案は可決されたものの、26州から違憲との訴訟が起こるなど波乱が続き、後任のトランプ大統領は選挙公約のひとつとしてこの医療保険制度改革(オバマ・ケア)を廃止することを掲げるようになります。アメリカの医療保険問題は根深く、オバマの必死の尽力もむなしく響く結果になりました。2020年2月時点でオバマ・ケアは継続しているものの、トランプ大統領は引き続き廃案にすると公表しています。

ポイント3:広島を公式訪問した初の大統領

日本にとって印象的なバラク・オバマの功績のひとつが「広島訪問」でしょう。

2016年5月27日、バラク・オバマは現役アメリカ大統領として初めて広島市を公式訪問しました。その際17分間にわたって「核なき世界」を訴えた演説は多くの人の胸を打ちました。一方で、アメリカ国内では単なる政治的遺産(レガシー)、弱腰外交などと批判される場面も見られ、アメリカによる平和的な外交に対して根強い抵抗があることを感じさせました。

まとめ

2009年から2017年まで大統領を務めたバラク・オバマはこれまでにないほどのマイノリティ目線、平和主義、弱者救済主義を礎にした異例の大統領だったと言えます。

とくに女性、若年層、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系からの支持が非常に厚かったことが特徴です。対照的に、アメリカ国民の大多数を占める富裕層や中間層、40歳以上からの支持は低く、続くトランプ政権によってアメリカ国民の2極化を浮き彫りにすることになります。皮肉にもアメリカでは弱者を救う政治がうまく機能しないことを証明することになりました。

バラク・オバマに関する豆知識

・2009年、バラク・オバマは「核なき世界」への貢献を評価されてノーベル平和賞を受賞しています。
・「Change.」や「Yes We Can.」はバラク・オバマのキャッチフレーズとして日本でも広く知られています。

本記事は、2020年3月30日時点調査または公開された情報です。
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