はじめに
2001年から2009年までの2期8年にわたってアメリカ第43代大統領を務めた人物がジョージ・W・ブッシュです。2001年の同時多発テロ、イラク戦争、親子大統領などで日本でも広く知られています。ジョージ・W・ブッシュは支持率90%台から歴史上最も低い19%まで急降下を辿った大統領としても有名です。そこで今回はジョージ・W・ブッシュが大統領時代にどのようなことをしてきたのか、生い立ちから大統領として活躍するまでをご紹介します。
「ジョージ・W・ブッシュ」のプロフィール
ジョージ・W・ブッシュは1946年にアメリカ第41代大統領であるジョージ・H・W・ブッシュと妻バーバラの間に長男として生まれました。ジョージ・W・ブッシュと言えばテキサス出身として知られていますが、出生したのはコネチカット州で、育ったのがテキサス州です。ジョージ・W・ブッシュの祖父であるプレスコット・ブッシュはコネチカット州の上院議員だったことから3世代で政治家を務めたことになり、生まれながらに政治一家だったのです。
父親と同じく名門イェール大学に進学し歴史学を専攻、その後はベトナム戦争に空軍州兵として参加しています。後に、父親の政治的な配慮を受けて軍隊で優遇されていたことが判明し、不適合に近い成績だったにもかかわらず入隊できたことが発覚するのでした。
6年間の軍務経験の後、ハーバード・ビジネス・スクールに進学しMBAを取得。その後は父親も関係していた石油関連企業に就職しました。この頃に妻となるローラと出会って結婚し、1981年に双子の娘を授かっています。
1988年には父親の大統領選挙活動に参加する傍らで、大リーグテキサスレンジャーズの共同保有者として経済的にも影響力を持つようになりました。政治家として実業家として頭角を現すようになったのがこの頃です。そして1994年のテキサス州知事選挙で勝利し、本格的な政治家活動をスタートさせました。
1998年の州知事選でも再選を果たしましたが、共和党大統領候補予備選挙に出馬表明し、そのまま大統領選に勝利したことから州知事を任期半ばで辞任しています。大統領時代にスキャンダルに追われ、外交問題に精彩を欠いたビル・クリントンに代わって実行力や弁舌に長けていたジョージ・W・ブッシュにアメリカ国民の期待が集まりました。
ジョージ・W・ブッシュは好景気が続くアメリカ経済の中で、泥沼化する一方だった中東問題への対処が問われることになります。2001年の同時多発テロを受けてイラク戦争を指揮し、2期目には支持率が急降下していくことになるのでした。
「ジョージ・W・ブッシュ」の経歴
大統領就任まで
ジョージ・W・ブッシュは1946年に生まれ(ビル・クリントンも同年に出生)政治一家の長男として育ちました。祖父は上院議員、父親はCIA長官や大統領を務めたエリート一家でした。青年期までは野球やラグビーなどのスポーツに熱中したことで知られています。1964年に進学したイェール大学では歴史学を学ぶ一方で、父親も所属していた秘密結社であるスカル・アンド・ボーンズのメンバーになっています。
1968年、空軍に入隊します。試験の成績は下から数えた方が早いというお粗末なものだったとされていますが、ベトナム戦争の人員を確保する目的もあって合格しています。1970年には弁護士を目指すためにテキサス大学のロースクールに出願するものの不合格。そのまま軍隊に残ることになりました。1973年、MBA取得のためにハーバード・ビジネス・スクールに合格し軍務を終えます。
1976年、ジョージ・W・ブッシュが30歳の時、メイン州の別荘近くで飲酒運転で逮捕されて2年間の免許停止を受けるなどし、この頃の本人は無責任な人物だったと回廊しています。大統領になってからもこの頃の振る舞いが度々問題視されることになるのでした。
1977年、ハーバード大学でMBAを取得してからは父親が関係する石油工業会社で働きはじめ、友人の紹介を受けてローラと結婚します。1978年にはテキサス州下院議員選挙区に立候補しますが、僅差で敗れています。その後は1994年のテキサス州知事選挙まで石油関連会社の最高責任者として活動しました。この頃にインサイダー取引疑惑や石油価格下落などで大きな損失を負ったとされています。
政治家としての転機となったのが1988年の大統領選でした。父親のジョージ・H・W・ブッシュが共和党候補になったことを機に、選挙活動に従事し父親をサポートしました。同時に、政界との人脈も構築しながら自身の地盤を築いていきました。1994年には大統領の息子、テキサス州の実業家というふたつの肩書きを持ってテキサス州知事選に勝利しています。
テキサス州知事としては教育制度の充実や、宗教法人による弱者支援などを積極的に援助、さらに歳入超過の20億ドルを減税にまわすなどして教育機関、宗教法人、企業などから厚い支持を得ることに成功しています。そして2000年の大統領選に出馬し、史上最高の接戦とされた大統領選で民主党候補のアル・ゴアを破って第43代大統領に就任しました。
大統領就任後
2001年1月20日、ジョージ・W・ブッシュは正式に大統領に就任しますが、その年の9月11日にニューヨークとワシントンD.C.で同時多発テロが発生します。事態が解明されないなか事件現場を訪れて救助隊を激励した姿はアメリカ全土に感動を呼び、父親のジョージ・H・W・ブッシュが記録した支持率89%を上回る91%を獲得しました。
同時多発テロ発生からわずか1週間後にはテロ行為に関連する個人、組織、そして国に対してあらゆる力を公使できる権限が合同決議されました。(同年11月に愛国者法(Patriot Act)として法律化)同時にその年の国連安保理事会や国連総会でもアメリカに対する支援を得て、ブッシュ大統領は「テロとの戦い」に挑むことになります。
2001年10月には現在まで続くアフガニスタン侵攻が始まり、2002年1月の一般教書演説で有名な「悪の枢軸」発言が飛び出します。これによりアメリカはイラン・イラク・北朝鮮を名指しで批判してそれぞれの国と関係を悪化させることになります。2003年にはイラクのサダム・フセインに対して48時間以内に国外退去しなければ武力行使をするという最後通牒を発表しました。こうしてイラク戦争が始まったのでした。
ジョージ・W・ブッシュ政権1期目は同時多発テロに始まり、アフガニスタン侵攻、そしてイラク戦争など戦時大統領としての活動が中心でした。しかし、イラク戦争の大義名分であった「大量破壊兵器の保有」が証明できず、支持率が低下した状態で第2期を迎えることになります。
2004年の大統領選ではイラク戦争や中東諸国への侵攻に反対するリベラル層の支持を失いますが、過半数以上の票を集め再選を果たしました。次第に批判が高まりつつあったイラク戦争に対しては正当化を続けたものの、同年末にはイラクの大量破壊兵器保有の情報に誤りがあったことを認めています。
さらに、ジョージ・W・ブッシュ政権をスキャンダルが襲います。開戦前からイラクの大量破壊兵器保有論に批判的だったジョゼフ・ウィルソン(イラク大使代理)に対して、ジョゼフの妻ヴァレリー・プレイムがCIA工作員であることを明るみにされる嫌がらせが起こります。この主犯格とされたのがブッシュ政権の副大統領ディック・チェイニーとその首席補佐官でした。「プレイム事件」と呼ばれたこのスキャンダルは下落傾向にあったブッシュ政権の支持率を一層悪化させました。
2006年、2期目の中間選挙で共和党は民主党に大敗を喫したことから、イラク政策の責任を取ってラムズフェルド国防長官を事実上の更迭、報道官スタッフを総入れ替えするなどして支持率低下を防ごうとしました。しかし、原油高による経済不振や移民政策(不法移民を一定の条件下で就労または永住させる)などで失敗し、支持率は20%程度にまで落ち込みます。
そして「世界同時不況」の引き金になったとされるサブプライムローン問題(低所得者層や信用情報が低い人向けの住宅ローン)が発生し、外交だけでなく経済に対しても厳しい目が向けられます。ついに史上最悪の支持率19%台まで落ちて、2009年に大統領職から身を引きました。
ジョージ・W・ブッシュは過去最高の支持率から過去最低の支持率までを経験した唯一の大統領で、在任中は終始外交問題やテロ問題に尽力しました。退任の際にイラクの大量破壊兵器保有を理由に戦争に突入したことを誤りと認めましたが、世界中に残した傷跡や代償は大きくつくのでした。
ポイント1:同時多発テロ
2001年9月11日に発生した同時多発テロは、ジョージ・W・ブッシュにとって大きな試練となりました。一連のテロ攻撃によって3,000名以上が犠牲になり、負傷者は6,000名を超えたとされています。ジョージ・W・ブッシュはイラク戦争直前に穏健派のパウエル国務長官と強硬派のライス補佐官の両方の意見に耳を傾け、結果的にライス補佐官の意見を尊重したと言われています。テロ攻撃を受けた国民感情も汲み取った決断と言われていますが、この決断がアメリカにとって「テロとの戦い」の大きな転換期になったのでした。
ポイント2:イラク戦争
ジョージ・W・ブッシュと言えばイラク戦争を思い浮かべるほどにイラク戦争はアメリカにとって大きな影響を与えたとされています。例えば、2005年8月にアメリカ南部を襲った巨大ハリケーン・カトリーナの救助活動の際には、本来であれば国内にいるはずの州兵までもイラク戦争に参加させられていたため、一部の現場では人手不足に繋がったことがあります。
また、イラク戦争は開戦時の大義名分を後に誤りだったと認めたことなどアメリカ国民の感情を動揺させることにもなりました。10万人以上の犠牲者を出したイラク戦争は現在でも深い爪痕を残しており、ジョージ・W・ブッシュへの評価は厳しいものが目立ちます。
ポイント3:リーマンショック
世界中に影響を与えたリーマン・ショックは、ジョージ・W・ブッシュ政権時代に起きています。ことの発端は大統領選挙期間中の2008年9月15日に投資銀行のリーマン・ブラザーズが破綻したことが始まりです。リーマン・ブラザーズ破綻の原因がサブプライムローンです。
1930年以降最悪の金融危機を救うためにブッシュ政権は公的資金を注入して金融機関を国有化しました。これによりアメリカ政府はアメリカ経済の半分に相当する約8兆ドルの金融債務を負います。リーマン・ショックの影響は大きく、同年11月には全米で50万人が失職しています。さらに、300万人が失職する可能性があった自動車産業のGM社とクライスラー社の財政破綻を防ぐために250億ドルを両社に貸し付けています。
ジョージ・W・ブッシュは世界の金融制度全体が崩壊するとまで言われた経済危機に対してリーダーシップを発揮することなく大統領職から退いています。
まとめ
アメリカ第43代大統領を務めたジョージ・W・ブッシュは皮肉にも父親と同じく「戦時大統領」として名を残すことになりました。大統領就任時には90%台だった支持率は、退任時には19%まで落ち込み、ブッシュ政権に対する厳しい評価が見て取れます。2006年の世論調査ではジョージ・W・ブッシュは「英雄」と「憎まれ役」の2部門で同時1位になっており、彼の大統領としての働きを象徴する結果になりました。
ジョージ・W・ブッシュに関する豆知識
・祖父、父だけでなく弟も政治家として活躍しており、正真正銘の政治一家です。
・イェール大学とハーバード大学(ビジネススクール)の両方を卒業した高学歴の持ち主として知られているものの、成績は決して良いとは言えないものでした。
・霍見芳浩の授業に参加した際、後に霍見から辛辣に批判されるほど授業態度が悪かったとされています。
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