アメリカ第35代大統領ジョン・F・ケネディについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第34回目は、第35代大統領を務めたジョン・F・ケネディです。ジョン・F・ケネディは、大統領職在任中に、テキサス州にあるダラスで暗殺された事件で有名です。 公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

はじめに

ジョン・F・ケネディは1961年から1963年までアメリカ第35代大統領を務めた人物です。アメリカ国内では、わずか43歳で大統領に就任したことや、アイルランド系アメリカ人として初の大統領になったことで注目を浴びました。

ジョン・F・ケネディが世界中で知れ渡ることになったのは、1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されたことでしょう。現代でもジョン・F・ケネディ暗殺事件は多くの謎が残されており、そのことがさらにジョン・F・ケネディの名を広めているのも事実です。

今回はジョン・F・ケネディが暗殺されるまで、どのような政治的な働きをして、どのような人物だったのかを様々なエピソードを交えてご紹介します。

「ジョン・F・ケネディ」のプロフィール

ジョン・F・ケネディは1917年にマサチューセッツ州のブルックラインという町で生まれました。後に「19世紀生まれ初の大統領」となるわけですが、幼い頃は病弱で生死をさまよったこともあるほどでした。

ジョン・F・ケネディ一家のルーツはアイルランドにあり、1849年に曾祖父がアイルランドからアメリカ大陸にやってきたところから始まります。ジョン・F・ケネディの父親は実業家としての顔を持ち、フランクリン・ルーズベルト政権では駐英大使を務めたほどの実力者でした。

成績優秀でスポーツ万能だった兄のジョセフ・ジュニアに劣等感を持っていたジョン・F・ケネディは、兄と同じようにロンドンに渡りますが、体調不良ですぐに帰国させられてしまいます。帰国後はプリンストン大学に進学しますが、こちらも体調不良でわずか1ヶ月で通えなくなりました。

父親の力を借りて名門ハーバード大学に入学して以降は、海軍士官養成学校そして海軍へ進みました。1944年、兄のジョセフ・ジュニアが事故死したため、父親のジョセフが考えていた「息子の政界進出」の夢がジョン・F・ケネディに託されました。

そして「新しい世代から指導者を」というキャッチフレーズと共に、ジョン・F・ケネディは29歳の若さで下院議員に選出されました。その後は、マサチューセッツ州から合衆国上院議員選挙に立候補し、上院議員として活躍します。

ハンサムな顔立ちと卓越した演説力で大衆を惹き付けたジョン・F・ケネディは、1960年の大統領選で、後の大統領である共和党のリチャード・ニクソンとの接戦を制し、大統領に選出されました。

世界大恐慌、第二次世界大戦、そして冷戦などが続き、自信を失いつつあったアメリカに新世代の指導者が現れたことは国民の大きな期待を生んだのでした。

「ジョン・F・ケネディ」の経歴

大統領就任まで

1917年にマサチューセッツ州で9人兄弟の2番目として生まれたジョン・F・ケネディは、長男のジョセフ・ジュニアとは対照的な存在でした。成功者だった父親の期待は長男に向けられ、病弱でなおかつ平凡な成績だったため、常に「負い目」を感じて生きていく環境で育ちます。

1930年、13歳のときに寄宿舎付きの学校に進学したものの、体調不良を理由に1年も経たずに兄のいる学校へ転校しますが、そこでは退学処分の一歩手前というような存在でした。この背景にも「兄への劣等感」があったとされています。

健康上の理由でロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、プリンストン大学を辞めざるを得ず、結局は1936年に父親の計らいでハーバード大学に進学します。とてもハーバード大学に進学できるような成績ではなかったものの、なんとか退学にはならず、水泳やヨットなど、体を使うスポーツに熱中するようになります。そして、幼い頃から本人を苦しめてきた病弱体質から脱却しつつありました。

1941年には陸軍士官学校と海軍を受験するも、健康状態が悪いと判断され不合格になってしまいます。しかし、父親の計らいで海軍士官に任命され、なおかつ戦地に赴かない部署へ配属されました。ジョン・F・ケネディは、その頃に出会った女性と恋に落ちますが、アメリカが第二次世界大戦に参戦することをきっかけに、ふたりの関係を終わらせようとした父親の計らいで船上勤務に移動させられます。

1943年、ジョン・F・ケネディの英雄伝として知られることになる出来事が起こります。ソロモン諸島で日本海軍の輸送を妨害する任務を任されたジョン・F・ケネディたちは、日本海軍の駆逐艦天霧と衝突し2名が死亡、10名が海上に投げ出されるという事故に遭います。

ジョン・F・ケネディは仲間を命綱で結びつけて6キロほど泳いだところにある、何もない無人島に避難することに成功します。しかし、そこには水も食糧もなかったことから、ジョン・F・ケネディは4キロほど離れた別の島まで泳いで水や食糧、カヌーを手配し仲間を救いました。この出来事は、ジョン・F・ケネディらが乗っていた魚雷船の名前をとって「PT109」と呼ばれています。

ジョン・F・ケネディの父親は息子による英雄的行動を世間に知らしめるため、海軍・海兵隊勲章を与えるように手配します。また、1944年にはこの事件を扱った雑誌が全国で発売され、ジョン・F・ケネディは全国的に有名に、そして英雄視されるようになったのでした。

同年、海軍のパイロットとして活躍していた兄のジョセフ・ジュニアが任務中に事故死したことでジョン・F・ケネディを取り巻く環境が一変します。父親のジョセフは、長男を政治家にさせるつもりでしたが、それが叶わぬこととなったため、次男のジョン・F・ケネディに夢を託します。

1946年、マサチューセッツ州の下院議員選から始まり、1952年の上院議員選では父親の手引きによる豊富な選挙資金や多くの票を獲得し、政治家として人気を集めるようになりました。そして、1960年の大統領選ではわずか11万票差という接戦を制して大統領に就任したのでした。(1956年の大統領選では副大統領候補で敗北)

このように大統領就任までのジョン・F・ケネディの人生は「兄への劣等感」と「父親の手引き」が特徴と言えるものでした。ふたりの存在がなければ、大統領への道は開けなかったでしょう。

大統領就任後

1960年の大統領選で勝利したジョン・F・ケネディは、43歳8ヶ月で迎えた翌年の大統領就任演説で有名な「国が国民に何をするかを問うのではなく、国民が国に何が出来るのかを問え」という名言を残し、沈みがちだったアメリカ国内に「新時代の訪れ」を予感させました。

ジョン・F・ケネディ政権はこれまでとは異なる様々な顔ぶれとなりました。なかでも、重要なポストだった国務長官にはこれまで面識がなかったディーン・ラスクを配置し、ジョン・F・ケネディ自身が積極的に外交を行う姿勢を明確にしました。この背景には、前大統領のアイゼンハワーが外交を国務長官に任せきりにしていたことが影響しています。

ジョン・F・ケネディが取り組む国内政策は「ニューフロンティア政策」と呼ばれ、教育や宇宙科学、景気回復、経済成長、平和部隊、後進国への援助など多岐に及ぶものでした。なかでも、人種差別に対する取り組みは高く評価されています。事実、大統領権限でアフリカ系アメリカ人を政府幹部や連邦判事に配置し、全州から黒人の学生を拒否する学校をなくすことに成功しています。

ジョン・F・ケネディの外交政策では、ソ連との一触即発の危機を乗り越えたことが評価されています。東西に分断されていたドイツを巡ってソ連と対立し「ベルリンの壁」が作られた1961年の「ベルリン危機」、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとしていたことが発覚して全面核戦争が起こりそうになった1962年の「キューバ危機」では、水面下でソ連のフルシチョフ首相を懐柔することに成功しています。

一方で、南ベトラムとラオスを救済するという正義の元で遂行したアメリカによる軍事物資支援は、実質的な軍事介入となり、アメリカ軍がベトナムから撤退することを巡って南ベトナム政府(サイゴン政府)と対立し、泥沼化する事態を招きました。

1963年11月22日、次の大統領選に向けたキャンペーンとしてテキサス州のダラスでパレードをおこなっている最中に何者かに狙撃され命を落としました。大統領就任後、わずか2年10ヶ月という短い期間で最悪の形で大統領職を終えたのでした。ジョン・F・ケネディ暗殺事件については不透明な部分が多く、政府によって2039年まで証拠は非公開扱いにされています。

ジョン・F・ケネディの大統領就任は、アメリカの新時代の訪れと思われたものの、志しなかばで途絶えてしまいました。卓越した演説力や大統領としてふさわしい風格を持ち合わせていたと高く評価される一方で、大統領就任後にも続いた父親の影響力やマフィアとの繋がりなどスキャンダルが続いた大統領でもあります。

ポイント1:キューバ危機の回避

3年未満という短い任期中にジョン・F・ケネディが残した大きな功績が、1962年の「キューバ危機の回避」でしょう。ソ連がキューバ国内に核ミサイル基地を秘密裏に作っていたことが明らかになり、ソ連とアメリカが一触即発、つまり核戦争突入寸前までになったところから衝突を回避した出来事です。

キューバ危機は後に「人類が最も核戦争に近づいたとき」と言われるほど緊迫したものでした。アメリカはソ連の要求通り、キューバへの侵攻はせず、ソ連威嚇のためにトルコに配置していたミサイルを撤去し、ソ連はキューバからミサイルを撤去したことで、事態は収拾しました。

キューバ危機については、ジョン・F・ケネディだけが評価された訳ではなく、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相も高く評価されています。

ポイント2:ニューフロンティア政策

ジョン・F・ケネディを象徴する政策が「ニューフロンティア政策」と呼ばれる国内政策です。大きく分類して「人口・生存・教育・住宅や都市郊外・宇宙科学・自動化・余暇」で構成され、それぞれで新たな政策を打ち立てるというものでした。

具体的かつ明確なニューフロンティア政策は高い推進力で進められ、かつてのフランクリン・ルーズベルトが就任後100日で様々な政策を具現化した「ニューディール政策」に通じるものがありました。なかでも広く知られているのが、1960年代終わりまでに人間を月に送り、無事に帰還させる「アポロ計画」です。

この頃のアメリカは宇宙開発競争でもソ連と争っていました。ソ連はアメリカよりも先に宇宙空間での有人飛行に成功していたため、アメリカはソ連よりも先に月に行ければ優位になり、国民の士気も上がるという考えに基づいた計画でした。しかし、ジョン・F・ケネディはアポロ計画の成功を知ることなくこの世を去ってしまいます。

ポイント3:テレビを活用したイメージ戦略に成功した大統領

ジョン・F・ケネディはルックスの良さに加え、人々を惹きつける演説のセンスにも長けていました。そして、アメリカ国内でテレビが広まり始めた時代にそれをうまく活用し、大衆を魅了することに成功した大統領でもあります。

なかでも、1960年の大統領選の時には、アメリカで初のテレビ討論が実施され ジョン・F・ケネディはニクソン候補と対峙しました。当時のテレビの画質や色の再現性には限界があると分かっていたジョン・F・ケネディは、色が濃いスーツを着たり、俳優に指南してもらい化粧を施すことで自身の存在を浮き立てることをしています。

この時代のアメリカでは、テレビを見た人はジョン・F・ケネディを支持し、ラジオだけを聞いていた人はニクソンを支持したと言われたほどでした。これ以降、アメリカの政治家たちは見栄えを意識した衣装や化粧を欠かせなくなったとされています。

まとめ

1961年から1963年までアメリカ第35代大統領を務めたジョン・F・ケネディは、アメリカの新時代を切り開く人物として期待されたものの、暗殺という最期を迎えました。アメリカ国内ではエイブラハム・リンカーンと同じほどの大きな損失とされ、現代でも人気がある大統領のひとりです。その証拠にニューヨークの空港や、フロリダ州の宇宙センターにはジョン・F・ケネディの名前が付けられ、いまでも世界中に名を轟かせています。

ジョン・F・ケネディに関する豆知識

・ジョン・F・ケネディは、大統領就任後だけで32名と不倫関係にあったとされています。そのうちのひとりが、マリリン・モンローです。
・ジョン・F・ケネディ政権で司法長官を務めたのは弟のロバート・ケネディですが、1968年にロサンゼルスで暗殺されています。
・ジョン・F・ケネディの長女キャロライン・ケネディは、2013年から2017年まで駐日アメリカ大使を務めました。


本記事は、2019年12月28日時点調査または公開された情報です。
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