アメリカ第36代大統領リンドン・ジョンソンについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第35回目は、第36代大統領を務めたリンドン・ジョンソンです。リンドン・ジョンソンは、「偉大な社会 (Great Society) 」という政策を打ち出した大統領として知られています。 公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

はじめに

ジョン・F・ケネディ暗殺後、急遽大統領を務めることになったのがリンドン・ジョンソンです。ジョン・F・ケネディが暗殺されたその日である1963年11月22日から、1969年1月20日まで実質的に2期にわたってアメリカ第36代大統領を務めました。

極めて保守的なテキサス州出身の人物でありながらジョン・F・ケネディのようなリベラルな政策「偉大な社会政策 (Great Society)」を打ち出し、名を上げました。一方で外交ではベトナム戦争に手を焼き、最終的にはアメリカ世論の分裂を招いて失脚します。

混乱の中で大統領に就任し、ジョン・F・ケネディの意思を継いだリンドン・ジョンソンとはどのような人物だったのでしょうか。今回は、アメリカ第36代大統領を務めたリンドン・ジョンソンについて解説します。

「リンドン・ジョンソン」のプロフィール

リンドン・ジョンソンはテキサス州の貧しい農家で生まれました。地元の公立学校を卒業してからは、現在のテキサス州立大学に通い教職を志すようになります。志望通り、高校の教員になったリンドン・ジョンソンは、テキサス州下院議員を5期にわたって務めた父親の奨めで教職を離れ、1931年に議員秘書になりました。

議員秘書としてワシントン立法補佐グループの議長も務めたリンドン・ジョンソンは、当時のルーズベルト政権の要人とも人脈を築きながら、アメリカ政治の中枢へと近づいていきました。

リンドン・ジョンソンが生まれたテキサス州は南北戦争で敗れた南軍ということもあり、南北戦争後のアメリカの中央政治では影を落としていましたが、ルーズベルト政権で副大統領を務めた同郷出身のジョン・N・ガーナーとの出会いが大きな影響力を与えました。

政治的な相談役であり後ろ盾となる存在を得たリンドン・ジョンソンは、テキサス州青年局長、テキサス州下院議員など着実に政治家としての歩みを進めました。第二次世界大戦が始めると海軍少佐として従軍し、帰国後は議員として再び議会に戻りました。

その後は民主党選出の上院議員として活躍し、国家予算の効率化を調査する委員会を率いるなどして注目を浴びるようになります。1960年の大統領選では、民主党大会でジョン・F・ケネディに敗れ、大統領候補にはなれませんでした。しかし、ジョン・F・ケネディが勝利した後、副大統領としてリンドン・ジョンソンが指名されたのです。

1961年には北部出身のジョン・F・ケネディ大統領、南部出身のリンドン・ジョンソンという「南北のバランス」を意識した政権が誕生しました。1963年にジョン・F・ケネディが暗殺された直後、副大統領だったリンドン・ジョンソンが繰り上がる形で大統領に就任します。

急遽、大統領になったリンドン・ジョンソンは、人種差別問題(公民権)や貧困などの国内問題に加え、ベトナム戦争という大きな外交問題を託されることになるのでした。

「リンドン・ジョンソン」の経歴

大統領就任まで

1908年、リンドン・ジョンソンはテキサス州ストーンウォールに生まれます。農業や綿花栽培を営む農家で育ち、決して裕福とは言えない環境でした。大学を卒業後は教職に就いたものの、1931年には父親の奨めでテキサス州下院議員だったリチャード・ケルバーグの立法秘書官になりました。

この頃の秘書官としての経験が、後の上院議員、大統領時代に「立法の魔術師」と呼ばれることに繋がります。人脈を駆使し、衝突を避ける交渉術を得意としたリンドン・ジョンソンのこのやり方は大統領就任後まで続くことになりました。

1934年には同じテキサス州出身のクローディア・アルタ・テーラー(後のレディ・バード・ジョンソン)と結婚し、2女をもうけています。1935年には地元のテキサス州青年局長を務め、教育と雇用拡大に尽力し、政治地盤を築くことに成功します。1937年、テキサス州下院議員に当選し、フランクリン・ルーズベルト大統領が指揮を執ったニューディール政策の推進に加担しました。

1941年、テキサス州上院議員の補欠選挙に立候補しますが、現職州知事との一騎打ちに僅差で敗れています。そんな中、アメリカは日本に宣戦布告をして、リンドン・ジョンソンは第二次世界大戦に海軍少佐として参加します。危険とされたニューギニア島付近の日本軍偵察役を任されますが、目立った功績を残すことなく帰国しています。(この際、マッカーサー総帥から銀星章を受け取っているが、政治的な配慮だったと懐疑的な意見が多い)

1948年、再び上院議員選挙に立候補し共和党候補を大差で破ります。あまりにも大差で勝利したため「地滑りリンドン」と揶揄されましたが、上院議員としての働きは目を見張るものでした。軍事委員会の委員、国家予算調査委員会、少数党院内総務などすべて既存勢力を懐柔する能力が必要な役目でしたが、立法秘書官時代のやり方を生かしてあらゆる改革に成功します。この頃からリンドン・ジョンソンは「立法の魔術師」、「議会政治の天才」と呼ばれるようになりました。

1954年、上院議員選で再選を果たし、重要法案の可決にはリンドン・ジョンソンが欠かせないというほどの影響力を持つようになり、1960年の大統領選を迎えたのでした。

大統領就任後

下院議員12年、上院議員12年のキャリアを積んだリンドン・ジョンソンは、1960年の大統領選民主党大会に民主党候補として出馬しますが、マサチューセッツ州選出のジョン・F・ケネディに敗れます。勝利したジョン・F・ケネディは、副大統領としてリンドン・ジョンソンを指名し、共和党のニクソン候補を破り大統領に就任しました。

副大統領時代は「何でもない男」と批判されたリンドン・ジョンソンですが、内政については長けており、貧困格差是正や公民権などジョン・F・ケネディが掲げた「ニューフロンティア政策」のために尽力します。対照的に、外交問題には積極的ではなかったため、大統領になってから外交問題に苦しむことになるのでした。

1963年11月22日、大統領と共にテキサス州へ遊説に出向いたところ、ジョン・F・ケネディが暗殺されます。大統領の死亡が確認されるとすぐに飛行機でワシントンD.C.に戻ったリンドン・ジョンソンは、機内で大統領就任の宣誓を済ませて大統領に就任しました。

当初、ケネディの息がかかった閣僚たちと、南部出身のリンドン・ジョンソンとの間に対立が起こると不安視されたものの、持ち前の交渉術で結束することに成功します。その証拠に、ケネディが指名した閣僚のほとんどが任期を全うするまで務め上げています。
1964年の大統領選ではケネディ死後直後ということもあり同情票が集まって勝利し、公民権制定や人種差別撤廃をアピールしました。上下両院議員選挙で民主党が大半を占めたため、リンドン・ジョンソンにとっては政策を進めやすい環境が整います。ケネディからの脱却と公民権確立を目指す「偉大な社会政策 (Great Society)」がスタートしました。

1964年7月2日、リンドン・ジョンソンは公民権法に署名し、アメリカの歴史で長く続いた人種差別制度は連邦法で全て禁止されることになります。また、1965年には社会保障や福祉保険などの拡大を進め、低所得者向けの医療、フードスタンプ、幼児の就学支援、高等教育法などを法制化しました。

これらの法制化に成功したリンドン・ジョンソンは、アメリカ大統領史上フランクリン・ルーズベルト並の功績を残したと評価されています。(フランクリン・ルーズベルトは12年間の任期)これらの功績すべてが、立法秘書官時代に培った経験からきているのです。

1965年には、ベトナム国内の対立に介入し続けていたアメリカが、後に8年間も続くことになるベトナム戦争に本格参戦します。長引く戦争と増え続けるアメリカ兵の犠牲者数を受け、リンドン・ジョンソンに対する世論の反応は冷ややかなものに変化していきました。

1968年、リンドン・ジョンソンはテレビ演説において、ベトナム介入政策の方向転換を表明すると同時に、次期大統領選には出馬しないことを発表しました。この時点で5万人を超えるアメリカ兵が犠牲になっており、実質的な責任を取る形での退陣表明だったのです。

国内政策においては天才とまで評されたリンドン・ジョンソンですが、外交においてはまったく力を発揮できずに、戦争の犠牲者を増やし続けた結果に終わりました。1973年1月、ベトナム和平協定が調印される5日前にリンドン・ジョンソンは心臓発作を起こし、ベトナム戦争の終結を知ることなく他界しました。

ポイント1:公民権法の成立

リンドン・ジョンソンの最も大きな功績のひとつが「公民権法」の成立です。1964年に署名された公民権法は、人種差別を禁止し、ホテルやレストランなどでおこなわれていた人種による隔離を禁止したものです。これによりアメリカ全州において正式に人種差別が禁止され、長く続いたアメリカの差別社会が法律で制限されました。

リンドン・ジョンソンによる公民権法の法制化についてアメリカ司法省は史上最も実行力がある差別撤廃のための法律と認めています。奴隷制度や黒人が多く暮らした南部出身(テキサス州)のリンドン・ジョンソンによって、人種差別問題に終止符が打たれたことは大きな意味を持つことになりました。

ポイント2:貧困との戦い(偉大な社会政策)

リンドン・ジョンソンは1964年の一般教書演説において「貧困との戦い」を宣言し、国内の貧困問題解消に取り組みました。ケネディが打ち立てた「ニューフロンティア政策」を上回る内容で、高齢者医療保険制度、優秀な学生への奨学金制度、貧困家庭の児童への就学援助など多岐に及びました。これらの構想をすぐに実現したことはリンドン・ジョンソンの議会政治への根回しや、地方政府や企業を囲った巧みな交渉術があったからこそと言われています。

1964年からわずか1年で130以上の政府事業を制定し、雇用促進、職業訓練、住宅支援、食料衣料助成などを貧困層へ提供しました。リンドン・ジョンソンが手がけた「偉大な社会政策」のなかでは、高齢者、貧困者、身体障害者、母子家庭への医療援助が手厚いものとなりました。

ポイント3:ベトナム戦争

リンドン・ジョンソンを失脚させることになったベトナム戦争は、大統領として活躍した6年間を通して常にリンドン・ジョンソンを悩ませる問題でした。ベトナムの共産主義国化を恐れ、阻止することがアメリカの使命と判断したアイゼンハワー政権は軍事支援という名目で介入を始めますが、南北に分断されたベトナムでは事態が一向に良くならない状態が続いていました。

1964年にベトナム北部のトンキン湾でアメリカの駆逐艦が攻撃されアメリカ兵が犠牲になる事件が起こります。(トンキン湾事件)これをきっかけにしてアメリカは本格的な軍事介入を決定し、合計50万人近いアメリカ兵がベトナムに送り込まれました。この決断を下したのがリンドン・ジョンソンです。

しかし、このトンキン湾事件はアメリカ政府が正式に北ベトナム政府を攻撃する口実にするための「自作自演」ということが分かり、後に批判の対象になりました。好転しないベトナム分裂問題、増え続ける犠牲者、アメリカ政府による軍事介入への意図的なシナリオなど全てが悪印象になり、リンドン・ジョンソンはベトナムに対する政策を見直すことを迫られ、結果的に大統領を退くことに繋がりました。

まとめ

ケネディ暗殺の混乱の中、繰り上がるようにして大統領に就任したリンドン・ジョンソンですが、国内政治においては天才的手腕と高く評価された一方で、外交ではベトナム戦争をうまくまとめられずに失脚してしまいました。今でもリンドン・ジョンソンの政治手腕は高く評価されていますが、ベトナム戦争を泥沼化させた罪は大きく、負のイメージが強く残ってしまった大統領のひとりと言えるでしょう。

リンドン・ジョンソンに関する豆知識

・1968年に実施したテレビ演説で「次期大統領選には出馬しない」という表明をしましたが、原稿になかった内容だったためホワイトハウスはひどく動揺したと言われています。
・アメリカ歴代大統領の中でエイブラハム・リンカーン(192.5cm)についで2番目に慎重が高い大統領でした。(192.0cm)

本記事は、2019年12月27日時点調査または公開された情報です。
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36代大統領リンドン・ジョンソン
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