アメリカ第40代大統領ロナルド・レーガンについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第39回目は、第40代大統領を務めたロナルド・レーガンです。ロナルド・レーガンは、映画俳優からカリフォルニア州知事になり、その後大統領に就任した人物です。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

はじめに

映画俳優からアメリカ大統領に就任した異色の経歴を持っているのがアメリカ第40代大統領ロナルド・レーガンです。大統領就任中の暗殺未遂事件や、長く続いた冷戦の終結に貢献した人物としても知られています。今回は日本でも知名度が高いロナルド・レーガンについて生い立ちから大統領としての功績などを交えてご紹介します。

「ロナルド・レーガン」のプロフィール

ロナルド・レーガンはイリノイ州で生まれ、熱心なプロテスタント(カトリック教会から分離したキリスト教諸教派)として幼少期を過ごしました。週末は自らが子供たちを対象に演説をするなどして演説に長けていったとされています。

イリノイ州のユーリカ大学で経済学と社会学を学んだものの、歴代大統領のような裕福な家庭環境、博学な人物だったとは言えない人物でした。在学中に演説力の高さや話上手ということを評価され、ラジオアナウンサーに就任し地元のシカゴカブスの野球中継を担当しています。

第二次世界大戦勃発の緊張が続いていた1935年にはアメリカ陸軍の予備役将校になりましたが、1937年にはカリフォルニア州のハリウッドで俳優デビューし、持ち前のハンサムなルックスを生かし、わずか2年間で19本の映画に出演するほどの活躍をしました。軍人としての経歴はほとんどなく、青年期は俳優業が中心になっていました。1940年には女優のジェーン・ワイマンと結婚しますが1948年に離婚したため、後に「歴代大統領の中で唯一の離婚歴がある大統領」になってしまいます。

政治との繋がりが深い映画俳優組合の委員長を務めていたロナルド・レーガンは次第に政治への影響力を強めていきました。政治色が強い番組の司会を担当するなどしてテレビでも活躍します。1967年には、メディアで活躍した知名度を生かしてカリフォルニア州知事に就任。

1968年と1976年の大統領選に出馬したもののいずれも敗戦しています。解決までに1年以上を要した「イランアメリカ大使館人質事件」に手こずっていたジミー・カーターの支持率が下がることを横目に、ついに1980年の大統領選で勝利しました。

大統領就任後はテレビや映画受けする見た目や演説力を持ち味にし、国内経済政策、薬物問題、人種差別問題、そしてソ連との緊張緩和などの難題に取り組むことになります。

「ロナルド・レーガン」の経歴

大統領就任まで

1911年、イリノイ州タンピコで2人兄弟の2番目として生まれたロナルド・レーガンは、両親が信仰する宗教の違いに戸惑いながらも母親の宗派であるプロテスタントの道を歩むことになります。子供ながらに熱心な宗教家として活動を続けながら、父親の仕事である靴のセールスを手伝ったり、ライフガードなどをして生計を立てていました。

1928年、地元の大学に進学し経済学や社会学を専攻し、1932年に卒業しています。卒業後は巧みな話術が買われラジオアナウンサーとして活躍しました。話術に加えて見た目の評価も高かったことから映画の本場であるハリウッドへ進出します。1937年には大手映画配給会社のワーナーブラザースと契約を結び、本格的に俳優デビューを果たしました。

この頃から、俳優業の傍らで政治団体との接触を続け、リベラルな風潮を持ちつつも保守主義者として知られるようになり始めます。番組スポンサーが支援する政党と同調する発言をしたかと思うと、スポンサーの意向と反することを発言して番組から降板させられることもありました。メディアと芸風を巧みに利用して政治家としての頭角を表した頃と言えるでしょう。

1967年、リベラルな風潮が強いカリフォルニア州の知事に就任してからは自由主義者として知られるようになり、多くの人々から「憎めない人物」として人気を勝ち取ることに成功しています。1975年まで同州の知事を務めましたが、この頃には国政を目標にしていました。

自身にとって初となる1968年の大統領選では、同じくカリフォルニア州を地元にするリチャード・ニクソン副大統領候補に敗れます。1972年の大統領選はニクソン政権が勢い付いていたため不出馬、そして1976年の大統領選の際には共和党大会でジェラルド・フォード大統領に僅差で敗れてしまいました。

満を持して迎えた1980年の大統領選では現職のジミー・カーターが外交で問題を抱え続けていたため、国民のみならず議員からも見限られ、ロナルド・レーガンの地滑り的な勝利で決着が付きました。12年越しの大統領選勝利ということになります。

大統領就任後

1980年1月20日、アメリカ第40代大統領に就任した同日、1年以上膠着状態にあったイランのアメリカ大使館人質事件の人質が解放されます。素晴らしい船出に見えたロナルド・レーガン政権でしたが、大統領就任からわずか69日目の1981年3月30日にワシントンD.C.で銃撃されて瀕死の重傷を負ってしまいます。銃弾は心臓をかすめて肺の奥深くまで達しているほどでしたが緊急手術の結果、事件からわずか10日で退院しています。70歳でありながら驚異的な回復を見せた姿は多くのアメリカ国民に勇気と期待感をもたらしました。

ロナルド・レーガンは自身の名前を使った「レーガノミクス」を実施してアメリカ経済のテコ入れを図ります。従来型の需要型経済ではなく、供給型経済(サプライサイド経済学)を中心にして軍人支出拡大、減税による供給刺激、インフレ抑制が目玉でした。海外ではイスラエルとの間で自由貿易協定を締結するなどして経済の活性化を進めました。

大幅な減税や積極的な財政政策を進めた結果、莫大な貿易赤字と財政赤字が発生してしまう「双子の赤字」と呼ばれる状態に陥ります。減税や政府職員の給与カット、福祉予算削減などに取り組んだことから一定の経済回復は見られたものの、手放しには喜べない経済政策になってしまいました。

経済政策以外ではアメリカ国内で蔓延していた薬物問題や人種差別問題に取り組み、麻薬犯罪者には厳しい投獄刑、強制収容所に入所させられた日系人に一人当たり20,000ドルの賠償金を支払うなどの方針を決めています。また、黒人牧師のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの誕生日を国民の休日に制定したのもロナルド・レーガンです。

1984年、ロナルド・レーガンは2期目をかけた大統領選で再選を果たします。この頃にはアメリカの軍事力を上回るほどの力を付けていたソ連問題が大きな懸念になっていました。ロナルド・レーガンはソ連と同盟国を除いたロサンゼルスオリンピックを実行し、ソ連を国際的な立場から孤立させることに成功します。

1985年、ソ連ではゴルバチョフ書記長が就任してソ連の財政赤字が表面化したため、アメリカは弱りつつあるソ連に歩み寄るように方向転換をしました。ロナルド・レーガンは大統領就任期間中に合計4回ゴルバチョフ書記長と会談を行っており、後の大統領であるジョージ・H・W・ブッシュが締結したマルタ会談での冷戦終結をお膳立てしたのでした。44年続いた冷戦を終結まで導いた功績は大きいと言えるでしょう。

大統領就任期間後期にはソ連のゴルバチョフだけでなく、日本の中曽根康弘、イギリスのマーガレット・サッチャー、カナダのブライアン・マルルーニーなど時の主要人物と公私共に時間を過ごし、かつてないほどの友好性や親密さがあったと言われています。日本へは3回の公式訪日歴があり、どのアメリカ大統領よりも日本を訪れています。

任期一杯の1989年1月20日、ロナルド・レーガンは8年間の大統領職を全うし、高い支持率を維持したまま政界から引退しました。引退から4年後にはアルツハイマー病が発覚し、公の場から姿を消します。2004年6月5日、93歳と120日でこの世を去りました。国葬には各国の首脳陣が参列し、世界中で報道されるほどに高い注目を集めたことからロナルド・レーガンの人気の高さを物語っています。

ポイント1:暗殺未遂事件

ロナルド・レーガンは大統領就任直後、後に無罪判決を受けることになるジョン・ヒンクリーに銃撃されて瀕死の重傷を負っています。政治的な理由による銃撃ではありませんでしたが、命を危ぶむ程の大けがを負った状態からすぐに回復してみせた姿はアメリカ国民の気持ちを掴んだことに違いありません。

意識朦朧の状態で病院に運び込まれた際にも軽口を叩くほどにユーモアを忘れなかった姿は大統領職を終えるまで続きました。このような性格がスキャンダルや政策失敗があっても支持率低下に繋がらなかった要因のひとつとされています。

ポイント2:双子の赤字

ロナルド・レーガンは1期目でアメリカの経済政策に注力しました。この背景には先代大統領だったジミー・カーター政権で回復しなかった経済を立て戻す狙いがありました。主に大幅な減税と積極的な財政政策を軸に実行されて経済回復を成し遂げたものの、貿易赤字と財政赤字が並存する「双子の赤字」を招きました。双子の赤字は2001年まで続き、アメリカ経済をしばらく苦しめる結果になるのでした。

ポイント3:イラン・コントラ事件

ロナルド・レーガン政権はイランと裏取引をしていました。このスキャンダルは1986年に発覚したもので、イラクと戦争状態にあったイランへの武器売却代金をアメリカがニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」への支援に流用していたものでした。ニカラグアはアメリカの裏庭とされる場所で、ソ連の影響拡大を抑制するためにもアメリカが支配しておくべきところだったのです。

イランへの武器売却に加えて、ソ連の影響力を阻止するために裏取引をしていたことはロナルド・レーガン政権に大きな打撃を与えました。この時、ロナルド・レーガンはソ連を「悪の帝国」と評し、共産主義に抵抗する方針を打ち出して事態の収集に努めました。これを「レーガン・ドクトリン」と呼びます。歴史家の間ではレーガンの人気があったから致命的なスキャンダルにならなかったとする声もあり、レーガンの憎めない人柄が政権を守った一件と言えるでしょう。

まとめ

アメリカ第40代大統領ロナルド・レーガンは俳優から大統領になった異色の経歴を持つ人物ですが、持ち前の演説力、演技力、ユーモアのセンス、社交性などで厚い支持を得ていたことは間違いありません。ロナルド・レーガンの性格によって批判をかわし、スキャンダルを乗り越え、冷戦の締結を実現したと言っても過言ではないでしょう。ロナルド・レーガンは大統領としての功績だけでなく人物像にも注目されることが多い大統領です。

ロナルド・レーガンに関する豆知識

・大統領就任時には歴代で唯一の離婚歴がある大統領でした。(2020年時点ではドナルド・トランプとふたりのみ)
・映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をこよなく愛しており、1986年の一般教書演説で同作から台詞を引用して議会で喝采を浴びたことがあります。

本記事は、2020年3月26日時点調査または公開された情報です。
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