アメリカの大統領 第9代 ウィリアム・ハリソンについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第九回目は、第9代大統領を務めたウィリアム・ハリソンです。ウィリアム・ハリソンは、大統領に就任してわずか1ヶ月、風邪をこじらせて肺炎を患って命を落とします。

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はじめに

ウィリアム・ハリソンは1841年3月4日から同年の4月4日までのわずか1ヶ月だけ大統領を務めた人物で、歴代のアメリカ大統領のなかで初めて在職中に死亡した大統領です。アンドリュー・ジャクソンの時代から続いた民主党政権がホイッグ党に移行した歴史的な転換期に大統領を務めていたことでも知られています。

わずか1ヶ月という大統領職でしたが、ウィリアム・ハリソンがアメリカ国民に与えた影響は様々なものがありました。今回はアメリカ第9代大統領ウィリアム・ハリソンについて解説します。

「ウィリアム・ハリソン」のプロフィール

ウィリアム・ハリソンはバージニア州の前身であるバージニア植民地で政治一家の3男として生まれました。父親はイギリスからの独立について話し合った大陸会議に参加し、独立宣言に署名をしたメンバーのひとりで、バージニア州の州知事を務めていました。また、兄はバージニア州選出の下院議員で、ウィリアム・ハリソンも政治への道が決まっていたような人物でした。

幼い頃からラテン語やフランス語の習得に熱心だったウィリアム・ハリソンは医学の道を歩むようになります。しかし、18歳の時に父親が死に、学費の工面が出来なくなったため志しなかばで医学の道を諦めて陸軍に入隊します。米英戦争(1812年戦争)の際にはテムズ川の戦いでイギリスとインディアンの連合軍を打ち破る功績を上げました。この功績が後に大統領に選出される大きな理由になります。

米英戦争で名前を上げたウィリアム・ハリソンは政治界へ進み、民主共和党に所属します。しかし、民主党のアンドリュー・ジャクソンやマーティン・ヴァン・ビューレンが執った反近代的な政策に反対しホイッグ党に入党します。1836年と1840年の大統領選にホイッグ党から立候補して、1840年の大統領選で勝利しました。

大統領に就任してわずか1ヶ月、風邪をこじらせて肺炎を患って命を落とします。当時としては高齢の68歳にして大統領になったウィリアム・ハリソンでしたが、病には勝てず大統領職を全う出来ないまま人生を終えたのでした。

「ウィリアム・ハリソン」の経歴

1773年、ウィリアム・ハリソンは現在のバージニア州チャールズシティで生まれました。アメリカがイギリスから独立をした1776年以前に生まれたため、厳密にはアメリカ合衆国市民ではない最後の大統領とされています。

ウィリアム・ハリソンの家庭は地元では有名な政治一家で、14歳で地元の大学に入学して語学を学び始めます。成績は優秀だったものの、学校内で新興宗教が広まっていたため父親の薦めでバージニア州南部の学校へ転校しました。転校先の学校では奴隷制度へ反対するプロテスタント達と友好を深めていきました。この奴隷制度へ反対する思想は、後にウィリアム・ハリソンがホイッグ党へ進むことへ大きな影響を与えたとされています。

しかし、1790年には奴隷制度を支持していた父親と意見が対立するようになり、ペンシルベニア州のフィラデルフィアへ追い出されてしまいます。フィラデルフィアでは父の知人だったロバート・モリスの家で生活することになりました。ロバート・モリスは独立戦争時にアメリカに財政支援をした商人で「革命の財政官」と評された人物です。ちなみに、1863年まで発行された1,000ドル札の肖像画になっています。

ロバート・モリスの元で新たな生活を始めたウィリアム・ハリソンはペンシルベニア大学に入学し、医学を学び始めます。しかし、翌年の1791年には遺産を残すことなく父親が死んだため、学業を諦めて陸軍に入隊することを決意します。本意ではなかったものの、陸軍に入隊したウィリアム・ハリソンは後に国民的英雄になる活躍をすることになるのでした。

陸軍に入隊して以降は主に西部で活動し、北西部領地長官を務めました。1800年にはインディアナ準州知事、インディアン対策局長官に就任します。1812年、アメリカはイギリス、カナダ、インディアンの連合軍を相手に戦争を始めます。この戦争は後に米英戦争または1812年戦争とも呼ばれ、1814年に講和条約(ガン条約)が締結するまで続きました。


当初、米英戦争はすぐに終結すると考えられていましたが、次第に長期化し世間の関心が高まっていたなか、ウィリアム・ハリソンがショーニー族の酋長で白人へ抵抗を続けた象徴的な人物だったテカムセを討ち取った(ティッペカヌーの戦い)というニュースが知れ渡ります。インディアンに決定的な打撃を与えたとされるこの勝利はウィリアム・ハリソンを一躍英雄にしました。

米英戦争は実質的に1815年に終結し、国民的英雄になったウィリアム・ハリソンは政界へ進みます。当初は民主共和党所属の下院議員から始まり、オハイオ州選出の上院議員を歴任し、政治家の階段を順調に上っていきました。1836年の大統領選ではアンドリュー・ジャクソンの後継者とされたマーティン・ヴァン・ビューレンに敗れてしまいます。

1837年、アメリカを大恐慌が襲います。多くの国民が職を失うなか、豪華な服をまとったマーティン・ヴァン・ビューレン大統領とは対照的に、ウィリアム・ハリソンは「林檎酒と丸太小屋」というイメージを世間に定着させていきました。

これはライバルだった民主党がウィリアム・ハリソンには林檎酒と年金を与えておけば残りの人生を丸太小屋でおとなしく過ごすと言ったことを逆手に取ったイメージ戦略で、ウィリアム・ハリソンが庶民派であることを定着させるのに役立ちました。

英雄でありながら庶民派を演じたウィリアム・ハリソンは、1840年の大統領選で勝利します。この大統領選は全有権者の80パーセントに該当する240万人が投票し、大統領選への関心の高さを象徴することになりました。

1841年3月4日、2時間にわたる歴代最長の演説を行ったウィリアム・ハリソンはホイッグ党による新しい政治をスタートさせましたが、3月26日に風邪をひき、4月4日に肺炎が原因で死去しました。大統領としては活躍することなく生涯を終えたものの、大統領選への関心を高めることや、現代にも続く選挙演説の基礎を築いた人物とされています。

ポイント1:ホイッグ党初の大統領

ウィリアム・ハリソンはアメリカで初のホイッグ党選出の大統領です。ホイッグ党はヘンリー・クレイによって設立された政党で、農業中心で奴隷制度を支持した民主党に対抗する存在でした。ホイッグ党が政権を執ったことはアメリカの政治も経済も大きく転換することを意味していたのです。

ポイント2:猟官制を廃止しようとした大統領

ウィリアム・ハリソンが活躍した1800年代、イギリスやアメリカでは政権運営に関連する公職は政治的な背景に基づいて選出されることが一般的でした。これをSpoils System(猟官制)と呼び、その時の政権に有利になるような偏った仕組みでした。ウィリアム・ハリソンはこの制度を廃止しようと尽力した人物です。

ポイント3:初めて選挙演説を行った

ウィリアム・ハリソンは1840年の大統領選の際に合計で23回も一般市民の前で選挙演説を行ったとされています。一般市民の前で選挙演説を行った大統領はウィリアム・ハリソンが初めてで、現在でもこのスタイルは続いています。

まとめ

ウィリアム・ハリソンは病に倒れたため大統領としての功績は少ないものの、米英戦争での活躍や大統領選での存在感など記憶に残る大統領だったと言えます。仮に、ウィリアム・ハリソンが大統領を続けていられれば、後の奴隷制度問題は違った形になっていたかもしれません。

ウィリアム・ハリソンに関する豆知識

・寒空の下で2時間を超える大統領就任演説を行ったため風邪をひいて命を落としたと言われていますが、風邪をひいたのは就任演説の3週間後のため因果関係はないとされています。
・孫のベンジャミン・ハリソンは第23代大統領です。

本記事は、2019年1月29日時点調査または公開された情報です。
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