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アメリカ第27代大統領ウィリアム・タフトについて

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はじめに

多くの国民から支持されたセオドア・ルーズベルト政権直後の1909年から1913年まで大統領を務めたのがウィリアム・タフトです。ウィリアム・タフトは大統領職を離れた後にも最高裁判所長官を務めるなどし、アメリカ史のなかでも唯一、行政府と司法府両方のトップを務めた人物です。

大統領としては国内大企業を取り締まる独占禁止法や「ドル外交」と呼ばれる外交政策を押し進めた人物として知られています。また、大統領就任前には日本を訪れて桂太郎首相と面会し「桂・タフト協定」を締結したことでも有名です。今回は、セオドア・ルーズベルト人気に湧いた直後のアメリカを率いたウィリアム・タフトについて解説します。

「ウィリアム・タフト」のプロフィール

1857年、ウィリアム・タフトはオハイオ州のシンシナティでユリシーズ・グラント政権で陸軍長官と司法長官を務めた父親のアルフォンソ・タフトと、高学歴の才女だった母親のルイーザの間に生まれます。父親のアルフォンソは弁護士としても活躍し、熱心な共和党員でもありました。

非常に裕福で身分が高い家庭で育ったウィリアム・タフトは、家族がそうであったように地元の名門校に通い、イェール大学に進学します。大学時代には構成員同士が力を合わせて社会的、経済的な成功を目指すことを目的にした秘密結社のスカル・アンド・ボーンズに参加します。

ウィリアム・タフトはイェール大学を2番目の成績で卒業し、卒業後はオハイオ州の法律学校に進んで弁護士になりました。その後、同州のハミルトン郡の検察官、歳入局の徴収官などの役職を経て、1887年にオハイオ州高等裁判所判事に任命されます。

1890年にはベンジャミン・ハリソン大統領によって政府のために弁論する訟務長官に史上最年少の32歳で任命されました。1904年にはセオドア・ルーズベルト大統領から陸軍長官を任され、フィリピンを訪れる途中で来日を果たしています。

1908年、セオドア・ルーズベルトは大統領選に出馬しないことを明言し、代わりにウィリアム・タフトを大統領候補として推薦します。セオドア・ルーズベルトの後押しを受けて、大統領選では民主党候補のウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破って大統領に就任します。

圧倒的なカリスマ性で人気を得たセオドア・ルーズベルト政権直後、ウィリアム・タフトは保護関税や大企業の独占禁止告発などの国内問題、ドル外交など諸外国との外交問題に取り組むことになるのでした。

「ウィリアム・タフト」の経歴

大統領就任まで

裕福で政治的な家系に生まれたウィリアム・タフトにとってイェール大学に進学したことが政治家への道の始まりだったと言えます。実際に、大学在籍中に参加した秘密結社のスカル・アンド・ボーンズは父親のアルフォンソ・タフトが設立し、後に息子のウィリアム・タフトや国務長官を務めることになるジョン・ケリー、ジョージ・ブッシュ一族などが籍を置いていました。

ウィリアム・タフトは、大学卒業後は弁護士として活躍することになりますが、政府高官の息子であることや、政治的な影響力を持ったスカル・アンド・ボーンズの構成員であったことなども手伝って順調に社会的な立場を手に入れていきます。

1887年にオハイオ州高等裁判所判事に任命されてからは政府機関からも信頼されるようになり、米西戦争終結後の1898年にはフィリピン統治の総監を任され、後に大統領の後継者として見いだしてくれることになるセオドア・ルーズベルト大統領からは陸軍長官に任命されます。


1905年にはアメリカ陸軍長官として日本を訪れ、時の首相であった桂太郎と「桂・タフト協定」を締結します。この秘密協定ではアメリカはフィリピンを、日本は韓国を優越支配することを双方で承認し合い、日米関係の平和を維持しました。この協定のおかげで日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)もまとまったことから、ウィリアム・タフトの功績は大きなものとされています。

セオドア・ルーズベルトは1908年の大統領選に出馬しないことを表明し、実質的に政界から引退します。引退に際してセオドア・ルーズベルトは共和党候補そして後継者として陸軍長官だったウィリアム・タフトを指名し、ウィリアム・タフトは終始優勢で大統領選で当選します。

大統領就任後

大統領に就任してからのウィリアム・タフトは、国内政策と外交に奔走します。就任直後はセオドア・ルーズベルトの正式な後継者ということもあり、議会や世論からも支持されますが、次第にセオドア・ルーズベルトとは対照的な保守的な人物として見られるようになります。

その一例が、セオドア・ルーズベルトが目指した自然保護の法制化です。セオドア・ルーズベルトは大統領令を用いて積極的に天然資源保護の法制化に取り組みましたが、行政府と立法府の衝突を招き、実現化は保留状態にありました。それを引き継いだウィリアム・タフトも法制化を議会に求めましたが、表面的な主張に留まり、セオドア・ルーズベルト派から消極的で保守的と判断されてしまいます。

ウィリアム・タフトの消極的な姿勢は前政権から留任している議員などから不評を買い、ついにはセオドア・ルーズベルト自身からも不信感を抱かれ、親友とまで言われたふたりの仲には亀裂が生じる事態に陥りました。

一方で、ウィリアム・タフトは国内企業の独占を取り締まる「反トラスト政策」では大きな功績を上げています。その代表的な事例がスタンダードオイル社の解体です。ウィリアム・タフトは、企業合併を繰り返して実質的にアメリカのエネルギー産業を支配していた同社を解体させました。反トラスト政策を進めたウィリアム・タフトは、結果的にセオドア・ルーズベルト政権の2倍以上の大企業を告訴しています。

ウィリアム・タフトが注力した国内政策のひとつが関税の引き下げです。高税率だった関税を引き下げることで、行き過ぎた国内産業保護の政策を改めようとしました。なかでも、アメリカとフィリピンとの間は免税にし、両国の自由貿易を確立させたペイン・オルドリッチ関税法を成立させたことはひとつの功績です。しかし、消極的とレッテルを貼られたウィリアム・タフトは、議会によって原案から大幅に修正されたものに署名しただけとされています。

外交政策におけるウィリアム・タフトの代名詞と呼べるのが「ドル外交」です。ドル外交とは、武力の代わりにドル(資本)を持ってして東アジアやラテンアメリカ諸国を対象に対外進出を目指す政策のことです。平和的な外交政策に思われがちですが、対象になった国からは経済力と軍事力にものを言わせたアメリカの一方的な政策と批判されました。

なかでも、ホンジュラスやニカラグア、タヒチなどにおける財政難を救済するために借款を与え、各国が欧州に対して負っていた対外債務をアメリカ、すなわちドルに借り換えさせることを奨めました。アメリカからすれば、各国でドル資本が流通することで国家財政を守れるというものでしたが、実質的にはそれぞれの国の市場開放を画策しているとされました。

このようにウィリアム・タフトは国内、海外問わず様々な取り組みに尽力したものの、大統領就任後にセオドア・ルーズベルト支持派からの支援を得られなかったことで、思い通りの政権運営はできませんでした。このことはウィリアム・タフトがアメリカの議会政治をよく理解していなかった大統領だったと言われる所以でもあります。

ポイント1:ドル外交

ウィリアム・タフトが大統領を務めた時代にアメリカが諸外国に対して積極的におこなったのがドル外交と呼ばれる外交政策です。ウィリアム・タフトは国務長官のフィランダー・ノックスにドル外交を推進させるよう命令し、中国の鉄道建設における借款に参入したり(結果、頓挫に終わる)、カリブ海諸国が負っていた欧州各国への負債をアメリカの金融機関が買い取るなどしました。

ウィリアム・タフトはドル外交は平和的な外交策と主張しましたが、結果的に武力に頼らざるを得ない状況が続き、批判されることになりました。

ポイント2:大統領から最高裁判所長官へ

アメリカの政治は立法府(Legislative branch)、行政府(Executive branch)、そして司法(Judicial branch)の3つの組織によって成り立っていますが、ウィリアム・タフトはこれらのトップである大統領(行政府)と最高裁判所長官(司法)を務めた人物です。

1913年に大統領職を終え、1921年に連邦最高裁判所長官に就任して、1930年
の亡くなる直前まで同職を務めました。行政府と司法の両トップを務めた人物はこれまでにウィリアム・タフトただひとりだけです。

ポイント3:反トラスト法の推進と失敗

ウィリアム・タフトは大企業の独占を取り締まる反トラスト法を推進しました。1907年、USスチール社が複数の証券会社を保有していたテネシー石炭鉄鋼社を買収したことによって金融機関が勃発したため、USスチール社を元凶とみなして告発します。


しかし、タフト政権は裁判で敗れたため、実業家たちからの信頼を失いました。さらに、誤った反トラスト法の行使はセオドア・ルーズベルトの怒りを買い、ふたりの関係に亀裂を生むことになりました。

まとめ

ウィリアム・タフトは前政権のセオドア・ルーズベルトから直接の指名を受けて大統領に就任しますが、セオドア・ルーズベルトのような強力なリーダーシップやカリスマ性を持ち合わせてなかったことや、議会と協力するための術を持ち合わせていなかったことが影響し、大統領としては成功したとは言えないまま任期を終えます。しかし、後に最高裁長官を務めるなど別の形で功績を残したことは事実です。

ウィリアム・タフトに関する豆知識

・アメリカ大統領史のなかで最も巨漢だったとされており、ホワイトハウスのバスタブから出られなくなったことや、公用車のドアに挟まったなどの逸話があります。大統領時は182センチ、130キロほどあったと言われています。
・ウィリアム・タフトの運動不足を心配した秘書がメジャーリーグの始球式に出るよう進言し、1910年4月に実現しました。

本記事は、2019年10月7日時点調査または公開された情報です。
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公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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