【日本の政策史その2】廃藩置県とは何なのか?「日本人」が生まれた瞬間

日本の歴史に残る「政策」について取り上げて考察するシリーズです。第2回目は明治維新最大の改革とも言われている「廃藩置県」についてです。廃藩置県を通して、現代の日本に必要な政治改革はどのようなものか考察していきます。


鎖国を続けていた江戸時代が終わりを告げ、日本は近代化・グローバル化を目指して「明治時代」に突入します。

この歴史の流れは、小学校から社会の授業で習ってきたことで知らない日本人はいないのではないでしょうか。

そして明治、大正、昭和と続き、現代の平成の時代を迎えることになります。

それでは江戸時代と明治時代では何が違うのでしょうか?

知名度の高いところでは武士がいるかどうかですね。

帯刀し、ちょんまげ頭の武士の姿が見られたのは明治時代初期だけです。法律によって武士階級が消滅したからです。御恩と奉公によって結ばれていた主従関係もまた終焉を迎えました。

議会が誕生したのも明治時代です。大日本帝国憲法も公布されましたね。通貨制度の円が導入したのも明治になってからです。義務教育も始まっています。江戸時代と明治時代ではまったく別の国の様相です。

なぜこのように日本は大きく変貌を遂げたのでしょうか?

それは変貌しなければならなかったからです。世界は現代とは異なり戦乱の時代でした。これを歴史上では帝国主義と呼びます。
列強諸国は競って後進国を植民地化していたのです。二百年以上も鎖国を続けていた日本はまさに後進国でした。このままだと日本は他国の侵略を受けて餌食になる。それを防ぐために大きな改革が必要になったのです。産業改革が進行し、陸軍や海軍などの軍備が整えられます。富国強兵です。教育もその一環です。グローバルな人材の育成もまた必要事項だったからです。

こうして日本は驚くような変貌を遂げていきます。

それでは、これらは江戸幕府にはできなかったことなのでしょうか?


幕府ではこの達成はとても困難だったことでしょう。

なぜなら日本はバラバラだったからです。江戸時代といえば将軍が絶対君主のように思われがちですが、そこまで日本はひとつにまとまっていません。地方は地方。地方を支配する大名がかなり自由に政治を行っています。時代が進むにつれて江戸幕府の政治を批判する藩も増えていきました。

ただでさえ小さな国の日本が、味方同士でいがみあっていたのでは列強の国々には到底太刀打ちできません。日本は侵略される前に強制的にでもひとつにまとまる必要があったのです。

それでは、今回は明治維新最大の改革ともいわれる「廃藩置県」を現代と照らし合わせて考察してみましょう。

最初は3府302県だった!?「廃藩置県」とは何か?

廃藩置県については学校の授業で習っていますね。言葉のままですが、「藩を廃止し、県を置く」ことです。とても単純明快な内容です。

これまで藩を実質的に支配してきたのは江戸幕府から命じられていた大名です。藩は武士を率いており、軍事力を有しています。藩札といって独自の貨幣も発行していました。

まさに地方自治体制です。これを法律によってすべて廃止したのが廃藩置県です。

藩は「県」となりました。

版籍奉還によって知藩事となっていた大名は全員失職し、東京に住居を移すように命じられます。明治政府からは知藩事に替わり「県令」が派遣されました。中央政府の指示が日本の隅々まで行き渡るようになったのです。

廃藩置県によって日本は3府302県となります。県が302もあったとは驚きですが、最初は藩をそのまま県にしたので数が多かったのです。ここから小さな県は合併していき、逆に大きすぎる県は分割されます。2ヶ月あまりで3府72県までまとまりました。

1872年には3府69県、1873年には3府60県、1875年には3府59県、1876年には3府35県まで統合されました。1889年に分割されて3府43県となっています。

列順は東京、京都、大坂(大阪)の3府、神奈川、兵庫、長崎、新潟の順になっていたようです。海外に目を向けていた明治政府にとって、開港都市は重要だったからです。

このような取り決めに薩摩藩主の島津久光は激高しましたが、藩兵も御親兵として明治政府に献兵してしまっています。反乱に備えて軍備を整えている明治政府に逆らうことはできませんでした。

反発はもちろんあったでしょうが、最悪の事態として予想していたような流血騒動はなく、平和的に廃藩置県は行われたのです。

こうして平安時代から続く領主の所領支配は終わりを告げました。日本は明治天皇、明治政府の下、ひとつにまとまったのです。


廃藩置県が生まれた背景

「廃藩置県」の成り立ちを年代順に見てみましょう。そこには明治政府の苦心としたたかさが垣間見えます。

江戸時代はまさに「封建制度絶頂」の時期です。

江戸幕府の将軍に領地支配を認められた大名(藩主)は地方自治を行っていました。知名度の高い藩をあげると、現在の鹿児島県にあたる「薩摩藩」、山口県にあたる「長州藩」、高知県にあたる「土佐藩」などがあります。薩摩藩といえば「西郷隆盛」や「大久保利通」、長州藩といえば「木戸孝允」や「山縣有朋」、土佐藩といえば「坂本龍馬」や「板垣退助」がいますね。みんな幕末に活躍した人物です。

中でも薩摩藩は強国で、単独でイギリスと戦争をしたりしています。

イギリスは薩摩藩の精強さに感銘し、これ以降急速に良好な関係を築くようになりますが、薩摩藩としてもイギリス艦隊の艦砲射撃の威力を見せつけられ単独での攘夷は不可能だと悟ります。

そして開国して列強諸国と並ぶ力を手に入れるべきだと方向転換します。

薩摩藩や長州藩には、弱腰外交の幕府にこれ以上日本の将来を託すわけにはいかないと憤り、改革を志す志士が数多く誕生しました。
そして海外の列強に肩を並べるために日本をひとつにまとめようと行動を開始します。武力による倒幕を進めていくのです。

1868年1月3日(慶応3年)、「王政復古の大号令」が告げられました。政治の主導権は完全に幕府から朝廷に移ったのです。

しかしこれで日本がひとつにまとまったかというとそうでもありません。薩摩藩や長州藩の他、土佐藩や佐賀藩など倒幕に協力的だった藩はそれぞれに軍事力を有しており、分裂して力を持っています。中央集権と呼びにはまだほど遠い内容です。

1869年7月25日(明治2年)、「版籍奉還」が行われます。廃藩置県と版籍奉還の違いがよくわからないという方がいますが、要は段取りです。いきなり廃藩置県を断行したら大きな反発を招き、明治政府自体の存続にかかわるような事態になりかねません。

地方にはそれだけの力がまだあったのです。ですから徐々に地方の力を奪っていきます。

274名の大名は知藩事となり、土地や人民はすべて天皇に返還され、明治政府が所轄することになるのです。大名の世襲制は終わり、大名と家臣との主従関係も否定されるようになるのですが、当時はよくわかっていなかった人たちも大勢いたようです。明治政府もぼやかして伝えていたといわれています。

各藩はそれぞれ軍事力を有しており、反乱などが起こると対応が厳しいという明治政府の台所事情がありました。徴兵制度も完成していませんから明治政府には正式な軍隊がなかったのです。各藩に強いプレッシャーなどかけられる状態ではありませんでした。

しかし、日本をひとつにまとめるには幕府を倒すだけでなく、地方の力を完全に削ぎ中央に集権する必要がありました。そこで1871年2月13日に「御親兵」が発足します。明治政府直属の軍隊です。

それ以前に、明治政府の岩倉具視や大久保利通は薩摩まで出向き、西郷隆盛を説得して上京させます。上京した西郷隆盛は山縣有朋の提案を聞き入れ、薩摩藩、長州藩、土佐藩に兵を出させ、軍隊を作り上げたのです。地方の反乱に備えて東西に鎮台も設けています。廃藩置県の準備が整ったことを意味しています。

実は廃藩置県には日本を中央集権国家にするだけでなく、明治政府をまとめる役割も担っていました。

当時は薩摩派の西郷・大久保らと長州・佐賀派の木戸・大隈らが対立し、新政府は分裂寸前だったのです。井上馨や山縣は、もう一度全員が同じ方向に足並みをそろえるためにも廃藩置県の実施を働きかけます。木戸は井上に説得され、西郷は山縣に説得されました。

こうして1871年8月24日に廃藩置県案が提出され、三条実美・岩倉らの賛同を得て、8月29日に廃藩置県の命令が下されます。そのためにまずは在東京の知藩事が皇居に集められたのです。

廃藩置県は実現されました。


「廃藩置県」は今の日本の礎になったのか?

廃藩置県とは簡単にいうと「地方自治を否定し、中央集権国家を築く」ことです。こうして日本の力すべてを結集しない限り列強諸国に対抗できなかったのです。

廃藩置県が成功したことによって日本はアジア初の立憲君主制・議会制国家として生まれ変わることができました。経済産業は国家主導で活性化し、強力な軍隊が誕生します。教育にも力を入れたことによって優秀な人材が数多く育ちました。

こうして日本は日本人としてまとまります。日本のため、日本を大きくするために他国を侵略し、帝国主義の時代の波に飲まれていくのです。

日本は日清戦争に勝利し、日露戦争でも大きな成果をあげて列強諸国に認められるようになります。江戸幕府が結ばされた不平等条約をようやく解消することができるようになるのです。

確かに中央集権は国の力を一点に集約することができます。国民全員を同じ方向に向かせるには好都合です。一つの命令や指示が国全体にすぐに行き渡ります。

しかしデメリットもあります。中央に力が集中するために地方との格差が大きくなるのです。命令や指示もトップダウンのため、地域の状況に見合った臨機応変な対応が取れません。トップが無能だと国が亡ぶ危険性すらあります。

日本は現在も置県の状態ですが、明治維新の頃とは違います。第二次世界大戦後に制定された日本国憲法で「地方治権」が認められたからです。日本国憲法第92条、93条、94条に記載されています。地方に住む住民意思を尊重する大切な政治指針です。

地方の過疎化、震災地の復興の遅れ、東京都への一極集中が問題になっている現代、地方分権を論議するうえで日本の歴史を振り返ることは大切なことではないでしょうか。

そして、時代や人のニーズにあわせて政治は変わるべきです。明治維新にこれだけの大改革を成し遂げたのですから、これからだってできるはずです。

どういう形が一番現代の日本に適しているのか、「廃藩置県」をとおして考えられることもあるのではないでしょうか。

まとめ – 廃藩置県によって「日本」がひとつになった!?

いかがでしたか?

学校の社会や歴史の授業を受けたときに「廃藩置県」が登場して皆さんはどのような感想を持ったでしょうか。「藩とはいわない(1871)県という」という年号くらいしか覚えていないという方もいるでしょう。

しかしこの廃藩置県によって、平安時代より領地を巡り争ってきた日本人同士の争いの歴史は終了したのです。日本人という認識が生まれたのもこの時からといわれています。

西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、大隈重信、山縣有朋ら明治維新の英雄らが一致団結して推し進めてきた廃藩置県は、確かに日本を強い国に成長する土台になりました。その効果を否定することはできないでしょう。

一方で、日本人同士の領地を巡る争いから、海外の国との戦争の歴史の転換期になったのも否めません。

これから先、日本が豊かに発展し、戦争など起こさないで済むような「廃藩置県」より大きな改革が行われることを期待しています。
国力も高まり、地方も賑わう、そういった政治を実現していきたいですね。

(文:ろひもと理穂)

本記事は、2017年5月17日時点調査または公開された情報です。
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