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【日本の政策史その4】聖徳太子の「十七条憲法」について

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十七条憲法


1947年5月3日に日本国憲法が施行されてから70年という年月が経過しています。現代では、憲法そのものの問題点が指摘されたり、憲法改正が盛んに議論されたりしています。

こかれから、公務員になる。公務員を目指す方にとっても日本の行政の歴史を学ぶテーマ「十七条憲法」です。

みなさんが、学校の教科書で最初に憲法の文字が登場するのは、「聖徳太子」が制定されたとされる「十七条憲法」です。604年の制定とされています。

「憲法」とは、「憲法は法律の法律」という表現も使われます。憲法と法律の違いについては、下記の通りです。

日本のように国民主権を掲げる国にとっての憲法とは、「国民が国家に守らせる法」です。人権の確立と自由の保障のための国家組織の制度を定めたものです。

それに対して法律は「国家が国民に守らせる法」と区別されています。法律よりも憲法の方が優先される法であり、そのため簡単に変更ができないように保護されています。

そういう意味での、日本の最初の憲法は1889年2月11日に公布され、1890年11月29日に施行された「大日本国憲法」とされています。「明治維新」「帝国主義」という時代に作られました。

それでは、今回は、日本の歴史テーマである「十七条憲法」について考察していきます。

目次

西暦604年に制定されたとされる「十七条憲法」とは?

十七条憲法とは簡単に説明すると「役人の心構え」です。そこでは国家権力の制限について触れられてはいませんし、国民の権利についても取り上げられていません。役人はこうあるべきだと明言しているだけなのです。

それでは「日本書紀」に紹介されている十七条憲法を噛み砕いてご紹介いたしましょう。

一、 「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」の一文は有名ですね。教科書にも登場します。この一文から十七条憲法であることを判断するような問題もよくテストや入試問題に出題されます。最初の事項だけあって、最も重要な内容といえます。要するに「人と争わずに和を大切にしよう」というものです。
二、 「篤く三宝を敬へ、三宝とは仏、法、僧なり」の一文も記憶にあるのではないでしょうか。当時の新興宗教である「仏教」を積極的に推進しているのが特徴的ですね。
三、 「詔を承りては必ず謹め」。天皇の命令には反発せずに受け入れなさいということです。
四、 「群臣百寮、礼を以て本とせよ」。役人は常に礼儀を重んじなさいということです。
五、 役人は公平な態度で裁きなさい。
六、 役人たるものは悪いことは懲らしめ、良いことをどんどんしなさい。
七、 仕事はその役目に適した役人にさせなさい。
八、 役人はさぼることなく、早朝から夜遅くまで働きなさい。
九、 役人はお互いを疑うことなく信じ合いなさい。
十、 意見を出し合う場で異論を受けても腹を立てないようにしなさい。
十一、優れた働きや成果、または過ちについては明確にして必ず賞罰を与えなさい。
十二、役人が勝手に民衆から搾取してはいけない。
十三、他の役人の仕事も知っておきなさい。
十四、他の役人に嫉妬してはいけません。
十五、役人は国を大事にして私利私欲に走ってはいけません。
十六、役人が民衆を使役するときは時期を選びなさい。
十七、大切なことは自分ひとりで決めず、みんなで相談しなさい。


以上の17項目が十七条憲法です。

ほぼ行政法、行政組織法のような感じですね。政府と国民の関係の規範となるような内容というより、官僚や貴族に向けた道徳的規範です。国家の組織形態や構造についてもほとんど触れていません。第三条で天皇の命令が絶対であると記載されるにとどまっています。

聖徳太子によって生まれた「十七条憲法」、その背景とは?

なぜこのような道徳的規範を示す法が定められたのでしょうか。

それは定めなければならないほどに人心が荒れていたからだと言われています。

この法文は、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)によって604年に作られたといわれています。厩戸皇子は用明天皇の第二子で、有力豪族の蘇我氏とは縁戚にあたります。ちなみにこの厩戸皇子の諡号が「聖徳太子」です。聖徳太子は貨幣になったほど有名な人物ですが、今回は制定当時の名前である厩戸皇子で紹介させていただきます。

古来より日本では世襲制の氏姓制度が主流でした。皇族に匹敵するだけの権力を持っていた豪族、貴族がいたのです。そのトップに位置する家柄が「臣」であり、それを率いるのが「大臣」です。代表格は蘇我氏です。そして天皇4代に仕え、50年にも及ぶ権勢を誇ったのが蘇我馬子です。

他にも「連」という臣に匹敵する権力を有していた豪族もいます。代表格は物部氏(もののべうじ)です。蘇我馬子のライバルが物部守屋になります。

この時の日本は蘇我馬子や物部守屋のような豪族が割拠しており、互いに権力争いを行っています。天皇の権威や権力もまだまだ弱かった時代です。

ライバル同士だった蘇我馬子と物部守屋が直接衝突することになったのが、仏教を取り入れるべきかという議論からでした。物部守屋は排仏派の筆頭です。対して蘇我馬子は崇仏派の筆頭でした。用明天皇が崩御してからは武力衝突が発生します。

まずは、次期天皇の座を狙っていた物部守屋派で、厩戸皇子の叔父でもあった穴穂部皇子が蘇我馬子に殺されます。物部守屋も蘇我馬子に攻められ戦死、新たに天皇に即位した崇峻天皇も蘇我馬子の逆鱗に触れて殺されます。

そこで初めての女帝となる推古天皇が即位するのです。皇族も巻き込んだ政争劇は国の存亡を揺るがす混乱を引き起こします。

国内で熾烈な政争劇が繰り広げられている一方で、中国は隋王朝が300年ぶりに統一国家を築いています。厩戸皇子は隋の実情を知り、脅威に感じていました。このまま国がバラバラだと隋に支配されてしまう危険性があるからです。厩戸皇子は中央集権国家を完成させることを使命とし、その準備を急ぐことになります。

最大の権力者である蘇我馬子や推古天皇と共に隋に匹敵できる国造りが進められるのです。

603年には氏姓制度に対抗するような「冠位十二階」の制度が定められました。有能な人材の起用が急務だったからです。また諸国と正式な外交を行うためには外交使者の官位を整える必要もあったのです。

摂政となった厩戸皇子は、混乱を収め、天皇のもとにすべての力が結集させるために和を説いたのです。それが十七条憲法の誕生とその背景になります。


厩戸皇子は斑鳩宮に臣下を集めて原案を提示しました。こうして日本初の成文法が完成します。他国に滅ばされることのない強い国造りと内政を落ち着かせるためには必要な法だったのです。

やがて645年に乙巳の変が起こり、蘇我入鹿が誅殺され、蘇我蝦夷が自害するとさらに天皇中心の統一国家の傾向が強まっていくことになります。

十七条憲法から1300年後、大日本帝国憲法が誕生します。

604年に十七条憲法が制定されてからおよそ1300年後、日本に正式な憲法が公布、施行されます。大日本帝国憲法です。

制定の目的はやはりバラバラになっていた日本を天皇のもとに集結させ、列強諸国に屈しない国造りのためでした。こちらの第一条、第四条には「国家の統括権は天皇が総攬する」とあります。天皇に力が集まるように伊藤博文はドイツ・プロイセンの憲法を模範としました。

日本国民は一致団結することで経済や軍事面で大きな成長を遂げます。やがて列強諸国を脅かす存在となっていくのです。

しかし大日本帝国憲法には内閣や内閣総理大臣の規定がありませんでした。そのため軍部は天皇直属の組織として独走するようになり、日本の致命的な欠点を生み出します。

第二次世界大戦の敗北後、1947年5月3日に日本国憲法が施行されます。原案の作成はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)という軍事組織です。現在の日本国民の権利を守る柱になっています。長い時間と多くの犠牲を払って日本はようやく国民主権を手に入れました。

はるか昔に作られた十七条憲法ですが、そこから学ぶことはないのでしょうか。

内容は確かに国民の権利を守るようなものではありません。しかし、十七条憲法を現代の公務員が厳守するとどうなるでしょうか。改めてその内容を読むと、国民の権利を守ることにつながる項目も多いことに気が付きます。

公務員が「公平な態度で、礼儀正しく、私利私欲に走らず、互いに疑うことなく信じて働くこと」「人との和を大切にすること」を徹底すると日本という国はもっともっと素晴らしい国になるのではないでしょうか。これはもちろん公務員に限った話ではありません。国民全体で実行したい内容です。

一部の人間に権力が集中し、それを保護するような法の扱いは間違っています。そのことは歴史から学ぶことができるでしょう。同じ過ちを繰り返してはいけません。

しかし国の発展を目指すときに、新しいものばかりに目を向ける必要があるのでしょうか。先人たちの声に耳を傾けることも大切ではないでしょうか。そこから学ぶことや自らの言動を振り返ることはできます。

私たちは十七憲法の中の道徳的規範を読んで、いくつ胸を張って「実現できている」と答えられるでしょうか。もしかすると厩戸皇子の国造り思いはまだまだ実現されていないのかもしれません。

先に進むことと共にぜひそのことも考えていきたいですね。

まとめ

近代法治国家を構成する「憲法」や「法律」について、17条憲法になる通り、古来から、考えられているテーマです。

それは、国家の秩序を維持するためであり、そこには、権力者の暴走を防ぎ、国民の生活と権利と自由を守るためという概念も範囲内です。

改めて日本のよりよい国造りのために、そして子供たちの将来のために、十七条憲法をとおして現代を見つめてみるのも必要なことかもしれませんね。

(編集:公務員総研/原文:ろひもと理穂)

本記事は、2017年5月29日時点調査または公開された情報です。
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この記事を書いた人

公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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