【日本の政策史その6】幕末の混乱期に突如あらわれた集団「新選組」とは?

日本の歴史に残る「政策」について取り上げて考察するシリーズです。第6回目は小説、ドラマなど現代で人気の高い「新選組」についてです。「新選組」とはどのような人の集まりなのか?評価が分かれるそのあり方について現代と照らし合わせて考察します。


江戸時代を境に「武士・侍」の身分が日本には存在しなくなるわけですが、そんな侍の終焉の時期にあって異彩を放ち、後世まで注目されることになる武装集団が「新選組」です。

「選」の文字は「撰」を用いられることもありますが、本人たちも新選組と新撰組のどちらも使用していたようです。正式には新選組となります。

新選組は幕末という混乱期のわずか「6年間」しか存在はしていません。しかも隊士数は全盛期であっても200名ほどです。最期にはほぼ全滅して新選組は消滅しているのです。いったいそんな新選組のどこに後世の日本人の心を惹き付ける魅力があるのでしょうか。

幕末の混迷を正したのは、明治維新を成し遂げた薩摩藩や長州藩、土佐藩や佐賀藩などの志士たちです。彼らがヒーローだとすれば、新選組は完全にヒール役になります。尊王攘夷を掲げる志士たちを斬り、捕らえたのが新選組だからです。

そのために新選組は志士たちから憎まれていました。それは明治政府が誕生してからも続きます。時代に逆行して志ある人たちを斬り続けた殺人集団として虐げられました。新選組のわずかな生き残りも名前を変え、新選組に属していたことを隠して生きていくことになります。

しかし現代での新選組人気は熱気を帯びています。小説に取り上げられ、大河ドラマになり、映画にもなりました。ゲームの世界でも大人気です。苦心の末に明治維新を実現し、日本をひとつにまとめて列強諸国に立ち向かった木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛ら三傑よりも人気は上なのではないでしょうか。

実に不思議な現象です。そこには新選組だけが持ちえた何かがあるはずです。今回は新選組とは何なのかを現代と照らし合わせて考察みましょう。

新選組とは?

新選組とは突如誕生して、すぐに消えた組織です。出現した先は京都です。京都の人たちも驚いたことでしょう。

新選組は浪士の集まりでした。純粋な武家の出の隊士はほとんどいません。武器の扱いにだけ長けた氏素性もわからぬようなメンバーなのです。歴史や血筋、家柄を尊ぶ京都の人たちに受け入れられることはまず考えられません。むしろ嫌悪の目を向けられるのがオチです。

事実、新選組は当初は「壬生狼」と呼ばれて京都の人たちから嫌厭されていました。人間ではなく狼、つまり獣扱いされていたのです。当時はそれだけ嫌われていたとうことですね。

新選組の任務は何だったのでしょうか。寄せ集めの独立組織だったのでしょうか。


彼らは浪士の集まりでしたが、京都に到着後、会津藩預かりとなり、武士として江戸幕府側のために尽力します。ただし正式な幕臣ではありません。現代で例えると地方の公的機関に勤める非常勤職員といった感じでしょうか。正式な公務員ではなく、契約社員のようなイメージです。

新選組に課せられた役目は京都の治安維持です。治安を乱す不逞浪士などを取り締まり、捕らえるのが任務というわけです。

それでは当時の京都には警察のような治安維持に係わる公的機関は存在しなかったのでしょうか。

当時江戸幕府の部署である京都所司代が治安維持をになっていました。その指揮下にある京都町奉行という機関もあります。さらに京都の治安維持のために京都守護職という役職も幕末に新たに設けられています。京都守護職は京都所司代と京都町奉行を率いつつ、幕臣だけで組織された京都見廻組も結成し京都の治安維持に当たっています。しかしそれでも人手が足りず、非正規組織の新選組を指揮下に置いたのです。

正式に新選組の名前で活動するようになったのは1863年8月のことだとされています。当初の新選組最高責任者は芹沢鴨です。

水戸藩の浪士で新選組の局長筆頭でした。芹沢鴨を含めて24名の隊士で結成されたのです。局長には他に近藤勇と新見錦が、副長には土方歳三、山南敬助が就いたとされています。新見錦は芹沢鴨同様の水戸藩浪人で、新選組の局長だったとも副長だったともいわれており定かではありません。

ここで新選組の掟とされる「局中法度」が定められました。法度は五条だったと伝わっています。

-武士道に恥じる行為はしてはいけない
-新選組から抜けることは許されない
-無断で借金をしてはいけない
-無断で争い事を裁いてはいけない
-個人の理由で戦ってはいけない

以上の五条です。このどれかを違反した場合は切腹となっています。

いつの時代、どこの組織でも理想を追求します。そして企業理念やモットーなどをお題目のように掲げるのですが、新選組の驚くべき点は、この理想論を本気で追及したところにあります。つまりひとつでも局中法度に背いたら本当に処刑したのです。

ここで注目すべきは最初の項目でしょう。武士道に恥じる行為というものが具体的にどのようなものを指すのかわからないのです。とてつもなく抽象的な表現です。よってそのさじ加減は局長や副長によって臨機応変に決められました。

この処刑を「粛清」とも呼びます。実際にこの粛清によって命を落とした隊士は45名にものぼるそうです。もちろんこの中には敵方のスパイも含まれています。

では、なぜここまで隊規を徹底する必要があったのでしょうか。

ひとつは氏素性もわからぬような浪士たちを統制するためです。もうひとつは、あくまでも想像の域の話ですが、「誠の武士」を目指したためです。本当の武士組織を目指すために偽りの武士を徹底的に排除したのです。

初代筆頭の芹沢鴨は近藤や土方らによって暗殺されました。芹沢鴨は武力を背景に商人を脅して金を無理やり借用するなどの暴挙を繰り返していたそうです。同様に副長の新見錦も法度に背いたとして切腹させられたといわれています。その後、総長となる山南敬助もまた新選組を無断で脱走し捕らえられて切腹しました。


1864年12月には副長助勤だったものが小隊の組長となり、1865年に伊東甲子太郎を参謀として迎えると、組長は十人になりました。

一番組組長・沖田総司、二番組組長・永倉新八、三番組組長・斎藤一、四番組組長・松原忠司、五番組組長・武田観柳斎、六番組組長・井上源三郎、七番組組長・谷三十郎、八番組組長・藤堂平助、九番組組長・鈴木三樹三郎、十番組組長・原田左之助です。

その他に内偵を役目とする監察方があり、後に副長助勤となる山崎蒸や「壬生義士伝」の主役である吉村貫一郎などが有名です。ちなみにこの中で伊東、松原、武田、谷、藤堂が粛清もしくは暗殺によって亡くなっています。

新選組は1867年の「池田屋事件」で一躍有名になるのですが、この時に討ち取った倒幕志士は7名、そして23人を捕縛しています。

倒幕志士を殺しまくった人斬り集団のイメージが強い新選組ですが、実際は内部の粛清で殺した人間の数の方が多いといわれています。

新選組が生まれた背景

京都の治安は大きく乱れていました。1858年に江戸幕府がアメリカやロシアなどの強硬姿勢に屈して勝手に通商条約を締結したのがきっかけでした。

「尊王攘夷」「討幕運動」が京都を中心に活発化します。諸藩から志士が集まるだけでなく、過激派は要人暗殺や商家への押し込み強盗なども行っていました。

江戸幕府は京都所司代や京都町奉行だけでは治安を維持できないとして、1862年に京都守護職を新設します。しかしその役目を担う藩は藩兵1000人を京都に常駐させなければならず、財政が苦しくなるのはわかっていました。

その中で江戸幕府に指名されたのが「会津藩」です。会津藩には藩祖である保科正之が定めた家訓があり、それは「会津藩は将軍家を守護すべき存在である」というものでした。家臣の多くが反対するなかで藩主・松平容保は京都守護職を引き受けます。

このとき、人手不足の京都治安維持に一役買うことになるのが、浪士を集めた集団である「浪士組」でした。その後、京都の壬生村に拠点を置いたことから「壬生浪士組」と呼ばれるようになります。新選組の前身です。

新選組誕生には京都の治安維持とは別の思惑もあります。地方の道場師範で生涯を終えたくないと考えていた「試衛館」の4代目当主である近藤勇は、同じ天然理心流剣術の門下生と共に浪士組に参加しました。近藤勇は百姓の三男として生まれ、試衛館3代目当主の近藤周平の養子になったという経緯がありました。同志の土方歳三もまた百姓の出身で、商人になるために奉公に上がっています。武士への憧れがとても強かったのが新選組の局長と副長なのです。彼らは武士になるために浪士組に参加します。

当初の浪士組を率いていたのは庄内藩出身の清河八郎でした。彼は討幕派のひとりとして尊王攘夷派の志士を京都に集めます。さらに江戸幕府を騙し、上洛予定の将軍・徳川家茂護衛のために浪士組を結成し、前衛として上京します。京都に到着するや、浪士組に本来の目的は将軍護衛ではなく、朝廷に仕え尊王攘夷を成し遂げることだと告げるのです。

公武合体論を支持している近藤はそんな浪士組を離脱し、京都に残ることを選択します。芹沢鴨も賛同します。こうして「壬生浪士組」が誕生するのです。

1863年にクーデターが京都で勃発します。長州藩を筆頭とする尊王攘夷派を京都から追い出したのです。先頭に立ったのは薩摩藩と会津藩でした。この「八月十八日の政変」の際に活躍した壬生浪士組は以後、新選組と名乗ることを許されます。

もともと凄腕の剣客揃いのメンバー構成でしたが、局中法度を徹底することで新選組は組織としての力も大いに発揮していくことになるのです。

新選組について現代と照らし合わせて考察

新選組の魅力は「愚直なまでに志を遂げよう」とした点でしょう。

時代の流れは列強諸国に肩を並べることであり、そのためにも朝廷を中心にした王政復古が必要でした。江戸幕府は滅びるべき運命だったのです。しかし新選組は最期まで幕府に忠誠を誓い、新政府軍と戦います。この姿もまた主君に忠義を尽くす武士道の追及であり、時流に飲まれて新政府軍に協力していった諸藩の武士とは異なる点なのです。

新選組はまさに局中法度にある「武士道に恥じる行為をしてはいけない」を守り抜いて散っていきます。本来の武士よりも武士らしくその生涯をまっとうしたわけです。

現代でも本来の政府機関と同じく志高く活動されている組織は存在します。例えば学習塾などはその部類ではないでしょうか。教育が持つパワーを信じてひたすらに人材育成に尽力しています。そのひたむきさは学校といった公的機関に負けず教育というもの追及しているように思えます。


新選組が後世に語り継がれる大きな要因は、まさにどんな身分であっても「徹底的に志を追及していけば理想に到達することができる」ということを実践したことにあるのではないでしょうか。

現代の私たちは公務員であろうとも、民間企業に勤めようとも新選組の取り組みから学ぶことはあるはずです。時代のブームに乗ることも必要でしょうが、それ以上に働く意義にこだわらなければなりません。

まとめ

評価の分かれる新選組の生き方。組織をまとめるための粛清という見せしめは肯定されるものではないでしょう。しかしその断固たる覚悟がなければ成し得ないものもあるのかもしれません。

新選組に賛同するかは別として、よりグローバル化している現代において、何が重要であり、何を目標としていくのか、そのために組織はどうあらねばならないのか、新選組は多くの考える材料を提供してくれています。

ぜひ皆さんにも今後を考えるきっかけにしてもらえれば幸いです。

(文:ろひもと理穂)

本記事は、2017年6月7日時点調査または公開された情報です。
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