日本の近代化にとって重要な機会となった「日清戦争」と「日露戦争」。日清戦争のわずか10年後に日露戦争は勃発します。「得をしようと(1904年)日露戦争」「遠くで行う(1905年)ポーツマス条約」といった年号の語呂合わせもありますね。日露戦争とポーツマス条約はセットでしっかりと内容を理解し把握しておきたいところです。
日清戦争と日露戦争はとてもよく似た部分とまったく異なる部分があります。どちらの戦争も講和によって終了している点は同じですね。相手が降伏するまでは戦っていません。旅順が戦場になった点も共通点です。戦っている相手はまったく違うのに戦場が同じというのは不思議な話です。どちらの戦争にも日本が勝利している点も忘れてはいけません。日本は清(中国)とロシアといった巨大な国と戦い、これに勝利を収めているのです。世界中を震撼させた点も同様です。
それでは異なる点はどこなのでしょうか。一つは日本の被害の規模です。日清戦争は戦争で命を落とした兵隊はおよそ2,000人ほどですが、日露戦争で命を落とした兵隊はおよそ90,000人ともいわれています。桁がまったく違うのです。戦争を起こっていた期間に関しても日清戦争が約半年に対して、日露戦争は1年半もの長期に渡っています。また、講和条約を結ぶ際の日本の状況が異なるために、締結された条約の内容もまるで違うのです。ですから戦後の国民の反応も真逆になります。
今回は前回の日清戦争に引き続き、日露戦争について、その背景を含めてお伝えしていきます。
各国の戦略はどうだったのか?
ロシア帝国の思惑
「三国干渉」によって日本の遼東半島支配を認めなかったロシアは、清と露清密約を結び「満州」での駐留や権益拡大に成功しました。さらに遼東半島にある旅順と大連を租借地としました。ロシアの「南下政策」は確実に清の領土を侵略していったのです。
満州が反植民地化したことに清の国民が反発。1900年に「義和団の乱」が起こります。日本を含めた列強諸国は派兵してこれを撃退しました。ロシアはこの混乱の中で満州を制圧し、完全に植民地化しようと試みます。日本、イギリス、アメリカはこれに抗議、ロシアは撤退を約束しますが、約束を反故し兵力を増強しました。ベルリン条約によってバルカン半島への進出を断念したロシアは、南下政策として極東地域に矛先を絞っていたからです。
イギリスの思惑
ロシアの勢力拡大に懸念していたイギリスでしたが、正面からロシアと武力衝突するつもりはありません。外交政策によってロシアの動きを封じ込めようと画策します。しかし義和団の乱以降、ロシアが満州を支配するに及び対応処置が必要となったイギリスは、日清戦争に勝利して軍事力を見せつけた日本と同盟を結びます。これが1902年の「日英同盟」になります。
軍事同盟ですが、日英が協力してロシアと戦争をするというものではありません。ロシアが清や朝鮮に侵略し、日本と戦争になった場合、中立を守るとなっています。イギリスが参戦するのは第三国が介入した場合に限ります。つまりロシアと友好関係のあったフランスなどが派兵したときには、イギリスも同じように日本側に援軍を送るというものでした。イギリスは戦争によって国力が消耗することを恐れていたようです。
日本の思惑
ロシア主導の三国干渉により遼東半島を返却しなければならなくなり、さらにその遼東半島の利権をロシアに奪われることになった日本は、ロシアへの敵愾心を強めていました。ロシアは満州を支配し、シベリア鉄道の満州への敷設権も得ます。日本はこのままでは朝鮮、そして日本もロシアに支配されるようになると警戒します。満州から撤退しないロシアに対しては外交交渉は効果がなく、武力衝突しか解決策がないと日本政府は判断しました。
清以上にロシアは巨大であり、軍隊も近代化されています。到底日本の及ぶところではありません。伊藤博文や井上馨らは戦争回避派でしたし、ジャーナリストの幸徳秋水や日清戦争には賛成していた内村鑑三などの民間人からも「非戦論」が主張されています。対して主戦派は山縣有朋、小村寿太郎、桂太郎らの面々です。国民も主戦派が多かったようで、東京帝国大学の教授らは開戦を訴える意見書を提出しています。
ロシアと戦争をするのであれば、シベリア鉄道が全線開通する前にしなければ、ヨーロッパ方面の兵力も相手にしなければならなくなります。さすがにロシアもすぐに日本が戦争を仕掛けてくるとは考えておらず、油断をしている状態でもありました。しかし戦争をするにはお金がかかります。日本の国家予算が4億円から5億円という中で、日本銀行副総裁の高橋是清は諸外国を駆けずり回り1億円以上の外貨を調達します。結局日本は日露戦争で約13億円もの外貨公債を発行することになるのです。
日露戦争とは何のか?
旅順要塞攻略
1904年2月、ロシア旅順艦隊に対する日本海軍の奇襲攻撃から日露戦争は開戦します。日本としては旅順要塞を攻略、さらに満州に駐留するロシア軍を殲滅することを目標としていました。大きな成果を出してから講和するという日清戦争と同じ戦略です。そのためにはヨーロッパ方面に進出しているロシア最強を誇る艦隊「バルチック艦隊」の到着前に決着させる必要がありました。
陸軍の攻撃、進軍は迅速さを要求されるものとなりました。強行進軍、攻撃となります。遼東半島に上陸した第二軍は、南山のロシア陣地を陥落させるためだけに死傷者4,000人という損害を受けています。ロシアは日本軍の兵站を伸ばし、持久戦で戦う方針でした。日本軍は補給面でもかなり苦労をしています。
日本は近代要塞化した旅順に対し徹底的な力攻めを繰り返しました。1905年の1月に東北方面の防衛線を突破し、要塞に立てこもるロシア軍は降伏しましたが、旅順の攻略だけで日本兵の死者は15,000人にものぼるといいます。これによりロシア側のマキシム機関銃の威力が世界に証明されました。その後2月には「奉天会戦」においてロシアの拠点である奉天を占領しますが、ここでも日本兵の死者は15,000人を超えています。兵力の消耗があまりにも激しく、ロシア軍の主力を追撃できてはいません。
日本海戦
奉天会戦に勝利した時点で日本は講和の道を探っています。仲介役としてアメリカ合衆国大統領ルーズベルトに依頼していました。しかしロシア側は奉天会戦の敗北でも主力軍を失っておらず、さらに最強を誇るバルチック艦隊の到着が近づいていることから強気でした。ロシアは和平交渉の席につくつもりはなかったのです。
5月にバルチック艦隊が7ヶ月という月日を費やし、ようやく戦場に到着します。用意周到に準備していた日本海軍に対して、バルチック艦隊には様々な問題が蓄積しており、わずか3日間の戦いでバルチック艦隊は壊滅します。これに対して日本側の被害はほとんどなく、まさに圧勝でした。この結果が世界中を震撼させることになります。さらに日本は樺太に侵攻し、全島を占領します。こうしてロシアもようやく講和の席につくことを決断したのです。
ポーツマス条約とは何なのか?
日本の実情はどうだったのか?
そもそも日本とロシアでは国力に大きな差があります。総力戦になれば日本に勝ち目がないのです。日本はここまでの日露戦争で死者約90,000人、死傷者は延べ約200,000人を数え、戦費は約20億円に達していました。国家予算の4倍を上回る額です。ロシアはさらに長期戦になればヨーロッパ方面の兵力を投入してくることになります。そうなるともはや日本に戦争を続けていく力はなかったのです。一方ロシアでも国民の反戦運動などが盛んになっていました。第一次ロシア革命とも呼ばれる血の日曜日事件も起こっています。戦争終結は両国の望むところでした。
日本は日清戦争に勝利したときと同じような講和条件を希望しています。期待していた賠償金の希望額は30億円とも50億円だったともいわれています。樺太全土の割譲も条件として提示しています。国民の中にはロシア領の一部割譲も条件に加えるべきだという主張もあったほどです。しかし講和の使者としてアメリカに赴く小村寿太郎は、講和の内容が日本国民の受け入れがたいものになることを予想していました。小村寿太郎を励ました伊藤博文も同じ見解だったようです。
講和内容はどのようなものだったのか?
ロシアは賠償金の支払いを拒否します。日本に割譲すると認めた樺太領は北緯50度以南のみでした。希望に叶った部分としては旅順、大連の租借権を日本に譲り渡すことや満州南部の鉄道の租借権を譲り渡すこと、朝鮮半島における日本の優越権を認めることなどがあげられます。
ロシアにもこのまま持久戦に持ち込めば勝てるという戦争継続派がおり、日本側がこの条件を飲まなければ講和が成り立たないという背景がありました。それがわかっているだけに日本は強硬姿勢を貫けません。こうして仲介国のアメリカ・ポーツマスで行われた講和会議は合意に至りました。これを「ポーツマス条約」と呼びます。
日本での国民の反応はどうだったのか?
この講和内容に対して日本国民の怒りは爆発しました。これだけの犠牲を払って戦争に勝利したにもかかわらず賠償金がまったく支払われないこと、そんな弱腰の外交をする桂内閣への怒りでした。もちろん外務大臣の小村寿太郎にも怒りは向けられています。なぜこうなったのか。それは日露戦争中の日本の実情はまったく国民に知らされていなかったためです。早期講和を目論んでいた政府はロシア側に弱みを見せないために国民にも隠し通したのです。それを知らないために国民やマスコミは講和内容に大きな期待を寄せていました。
怒りが暴動を引き起こしました。1905年9月に発生した「日比谷焼打事件」です。講和条約反対を訴える人たちが日比谷公園に集まろうとしましたが、警察官が公園を事前に封鎖。怒りが爆発した民衆は、公園に強制侵入するだけでなく、新聞社、警察署、交番などを襲撃します。さらに仲介役をしたアメリカへも矛先が向けられ、アメリカ公使館や教会なども襲撃されています。翌日に戒厳令が出され、2,000人以上が検挙されました。それでも国民の反発は収まらず、1906年1月に桂内閣が総辞職しています。
日露戦争を現代と照らし合わせて考察してみよう
多くの犠牲を払って日本はようやくその実力を認められ、不平等条約は改正されました。1911年に関税自主権が回復しています。イギリスは日本との同盟をさらに強化しています。日本は朝鮮の保護国となり、混乱の続く朝鮮を安定させるために1910年には日韓併合条約を結び、大韓帝国は滅亡し日本に併合されました。日本は完全に列強諸国と肩を並べることができるようになったのです。
一方でアメリカでは日比谷焼打事件などから日本人を排斥する動きが出始めます。これを「黄禍論」と呼びます。こうして日米関係は急速に悪化していくことになるのです。しかし日露戦争の結果は、白人に一方的に侵略され、植民地化されてきた白人以外の人種の意思も変えることになります。白人による支配の終わりを告げた戦争でもありました。
(文:ろひもと 理穂)
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