【頻出歴史問題】政党政治の終焉とファシズムの台頭-昭和時代の日本

公務員採用試験の頻出歴史問題「第一次大戦後の昭和の時代」についての解説ページです。日本は満州の支配を強めつつあり、アメリカ・イギリスとは関係が悪化していっています。第二次世界大戦に突入するまでに日本に何があったのかをご紹介いたします。今回は昭和の前半「近代」について解説します。


「昭和時代」は1926年12月から1989年1月までの期間になります。20世紀のほとんどといえるでしょう。この期間に日本は第二次世界大戦の敗戦という経験をすることになります。未曽有の犠牲者が出た、まさに悲しい歴史です。1945年の終戦を区切りとして昭和時代は前後に分けられます。終戦前が「近代」、そして終戦後が「現代」です。

第二次世界大戦については今後2回に分けて、その内容をお伝えしていきます。また、戦争以外については、近代と現代の2回に分けてお伝えします。今回お伝えしていくのは第二次世界大戦勃発までの昭和前半・近代です。

昭和時代の近代でのテーマは、「なぜ戦争が起こったのか」になります。はたして日本の政治の舵取りは誰が担っていたのでしょうか。政治の主導権を握る動きについても注目していきましょう。

昭和時代の近代は試験にもよく出題される単元です。時系列や背景もしっかりと押さえておかなければなりません。一部、重要な年号暗記をご紹介しておきましょう。

「独裁(1931年)への道、満州事変」
「戦に向って(1932年)、五・一五事件」
「身を引くサッサと(1933年)、国際連盟脱退」
「ひどく寒い日(1936年)、二・二六事件」
「いくぞみんなで(1937年)、日中戦争」
「いくさやるため(1938年)、国家総動員法」
以上が近代の重要事項ということになります。

日本の経済状況はどうだったのか

大戦景気とはどのようなものなのか

第一次世界大戦は日本に「大戦特需」をもたらしました。欧州の主要な生産国が軒並み戦争に巻き込まれたことで、日本の製品が多く売れるようになったのです。特に「鉱山」「造船」「商事」の潤いぶりはすさまじく、「成金」が続出することになります。軽工業部門では「綿織物業」が発展しています。重化学工業で急激な発展を遂げたのが「海運業」です。造船技術も進歩し、海運業は世界三位に躍り出ることになります。

こうして経済は急成長していくことになりますが、日本のインフレに庶民の賃金は追いつかない状態でした。賃金が上がらない中で物価が上がると庶民の生活は確実に苦しいものになります。実例としては、大戦特需前後で比べると、包丁の価格が1.5倍になっています。紙類は1.6から1.7倍です。鉄製のバケツはほぼ倍の価格です。

昭和金融恐慌とはどのようなものだったのか

しかし第一次世界大戦が終了すると、各国の生産力が元に戻ります。するとこれまでのように日本は輸出できなくなります。これが戦後恐慌の引き金の一つです。ここに追い打ちをかけるように関東大震災によって手形が焦げ付き、取り付け騒ぎから1927年に「昭和金融恐慌」が起こりました。より深刻な被害を受けたのは地方です。特に東北地方は冷害などによって大凶作と重なっており、赤ん坊の間引きや娘の身売りなどが行われて社会問題となっています。

1929年にはニューヨークのウォール街で株価の大暴落に始まった恐慌が世界中に蔓延していくことになります。「世界恐慌」です。日本でも物価と株価の下落によって中小企業は倒産が相次ぎ、失業者で溢れました。3万の小売商が夜逃げしたとも伝わっています。農村は生糸の輸出が激減し、豊作と他国からの輸入によって米価が下落したために壊滅的な被害を受けました。

満州を巡る動きはどうだったのか

関東軍とはどのような組織だったのか

日露戦争の講和・ポーツマス条約によって日本は旅順から長春間の南満州支線をロシアから譲り受けます。1906年、日本は「南満州鉄道」を設立しました。その守備隊として誕生したのが「関東軍」です。日本にとってこの満州経営の権益確保は重要な課題として、その後の内閣に引き継がれていくことになります。

満州での権益を死守するため、地元の軍閥で親日派であった張作霖と交渉を続けますが、排日運動の激化から張作霖は欧米とのつながりを強化しました。そして欧米から資本提携を受けて南満州鉄道と並行する鉄道の建設に着手するのです。これに対し関東軍は1928年に張作霖が乗った列車を爆破して殺害します。田中内閣は急ぎ天皇に上奏しようとしましたが、拒否されて総辞職となります。こうして関東軍の独断専行が目立つようになっていくのです。


満州事変とはどのようなものだったのか

1931年、奉天郊外・柳条湖付近の南満州鉄道線路上で爆発騒ぎが起きます。「柳条湖事件」と呼ばれています。関東軍は張作霖の息子である張学良ら中国側の仕業であるとし、即時軍事行動に移りました。関東軍は満州全土をおよそ5ヶ月で占領します。

1932年、清王朝の最後の皇帝を執政(元首)とした満州国の建国が宣言されます。関東軍は満州での自衛のために強引に戦争を仕掛けて領土を広げてきましたが、国際世論の反対が強く、その批判をかわすべく傀儡政権樹立を画策したのです。その動きに引きずられて犬養内閣も満州国の独立支援を閣議決定します。しかし国際連盟からリットン調査団が派遣され満州国を半年間調査。その報告を確認し、1933年には国際連盟おいて満州国存続を認めないという判断が下されます。これに対して日本は国際連盟からの脱退を表明します。

日中戦争とはどのようなものだったのか

この頃の中国は日本の侵攻を受けつつ、さらに内側でも揉めていました。1912年には清王
朝が滅び、中華民国が誕生します。しかしこの中華民国も袁世凱の後継者たちから成る北京政府と蒋介石らの国民革命軍に分裂していました。1926年に蒋介石は中国共産党と手を組み北伐を敢行、1927年に南京国民政府を樹立します。1928年には北京政府を打倒して中国を統一するのですが、このときには国民党と共産党はすでに分裂していました。毛沢東が率いる共産党は武力蜂起し、蒋介石はこれを掃討する作戦にでます。「国共内戦」です。

日本が満州国を擁立したことに対し、蒋介石は黙認の姿勢でした。共産党への弾圧を優先したからです。そんな中で国民党と共和党を一致団結させたのが日本でした。1937年に北京近郊の盧溝橋で日本軍と中国軍の軍事衝突が発生します。「盧溝橋事件」です。当初は小規模な衝突ですぐに停戦協定が結ばれたのですが、この事件が各地の軍事衝突の火種となっていきます。蒋介石は共産党との国共合作を余儀なくされます。こうして日本と中国の争いは第二次世界大戦中にも引き継がれていくことになるのです。

日中戦争については満州事変のきっかけになった1931年の柳条湖事件からとする説と、1937年の盧溝橋事件からとする説があります。どちらにせよ中国にとってまさに国難が続く時期でした。

政党政治の終焉とファシズムの台頭

政党政治の絶頂期とはいつだったのか

明治維新から続く薩摩藩・長州藩などの倒幕の功臣らによる「藩閥政治」が、大正デモクラシーなどの国民の運動によって転換期を迎えます。「政党内閣」による「政党政治」の始まりです。昭和の時代の初期は、インフラ整備などの公共投資によって経済の復興を掲げる「立憲政友会」と、財政削減を柱に掲げる「立憲民生会」(もと憲政会)が交互に組閣する政党政治の絶頂期にありました。

しかし恐慌によって日本の経済は混迷し、国民は苦しい生活を余儀なくされます。英仏米などの植民地を所有している列強は、「ブロック経済」によって国内の経済状況の建て直しを図ります。関税をコントロールし、需要を国内に収めたのです。これによって他国からの輸入量は格段に減ります。ダメージを受けたのは収益が見込める植民地を持たない日本でした。

軍部によるクーデター

政界の重鎮や経済界の重鎮による政治腐敗、汚職などが問題視されるようになると、政党政治への反発が高まるようになりました。中にはそれを力づくで解決しようとする集団も登場してきます。1932年の「血盟団事件」では政治運動をする者たちが、選挙演説中の民政党の井上幹事長を射殺、銀行の理事長も狙われ射殺されました。同年には、海軍将校らが蜂起し、内閣総理大臣である犬養毅を射殺しています。「五・一五事件」です。井上幹事長も、犬養総理も共に軍縮の意見だったようです。特に犬養総理は満州侵攻に反対していました。

1936年には皇道派の陸軍将校たちがクーデターを起こし、高橋是清蔵相や斉藤実内大臣などを射殺しています。彼らは昭和維新を昭和天皇に訴えましたが拒否され、反乱軍として鎮圧されています。「二・二六事件」です。ここでも恐慌による不況の中で、政界と財界が癒着している利権をむさぼっていることを問題視しています。

二・二六事件後には岡田内閣は総辞職し、ここで政党政治は終焉を迎えます。替わった広田内閣は陸海軍の予算を増加させ、軍備拡張路線をとっています。このことで4億円以上の増税、8億円以上の公債が発行されることとなり、物価は上昇、さらに国民の生活は困窮していくこととなります。

第二次世界大戦への準備

国家総動員法とはどのようなものだったのか

日本としては第一次世界大戦に参加し、国力を総動員しなければ厳しいことを認識しました。有事の際には速やかにすべての人的・物的資源を政府が統制し、運用できなければならないのです。そのための法整備が必要となります。こうして制定されたのが1938年に成立した「国家総動員法」です。

企業も国家総動員法の下、国家の統制下に置かれ、国家の需要を優先して生産することとなります。政府は軍需物資の増産体制を作り上げたのです。軍需が最優先であり、民需はとことんまで切り詰められています。金属系(銅や鉛など)やゴムなどの民間での需要は禁じられることになりました。

大政翼賛会とはどのようなものだったのか

総動員体制が整ってきた段階で、政策を決断するスピード性も要求されるようになります。強力な指導体制を作りあげるためには民主主義では行き詰まるわけです。衆議は尽くすが、決断は総裁が下すという「一国一党」「衆議総裁」の政治体制を目指すことになりました。

ここで期待されたのが近衛文麿です。国家総動員法は第一次近衛内閣で成立しています。この社会主義的な法律に対し、経済界やそれに通じる立憲民政党や立憲政友会は反対の姿勢をとりましたが、政府や陸軍に押し切られています。第二次近衛内閣の1940年にほとんどの政党が解散して一つにまとまり「大政翼賛会」が結成されました。この年の1月には日米通商航海条約が破棄、失効しています。アメリカは、日本の中国領である海南島の占領、無人諸島の領有化に否定的でした。国際連盟を脱退し、さらにアメリカやイギリスとの国交も悪化していく中で、日本は有事のために万全の準備を整えていかなければならなかったのです。

昭和時代の近代はどのような時代だったのか

このように昭和前半、近代において軍部が活発に政治を先導していき、日本でもドイツ同様にファシズムが台頭してくるのです。


不況にあえぐ現状を打破するため、または腐敗した政治を排除して明治維新の精神を取り戻すべく、日本は戦争に国の総力を集める準備を進めていきました。自由な言論も規制されており、反政府思想は徹底的に弾圧されていましたから、この暴走を止めることができる人はいなかったのかもしれません。

こうして日本は、数々の悲劇を産んだ「第二次世界大戦」へ突入していくことになります。

著・ろひもと理穂

本記事は、2017年8月18日時点調査または公開された情報です。
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