アメリカ北東部のペンシルベニア州は数多くの「全米初」の事実があるアメリカ発祥の地でもあります。アメリカが国として成立する以前からアメリカの政治や経済の中心だったことから別名で「Keystone State(礎石の州)」とも呼ばれています。
数々の全米初となる記録を残したのペンシルベニア州ですが、いったいどのようなものが含まれているのか、ペンシルベニア州の歴史や特徴などを交えてご紹介します。
ペンシルベニア州の特徴
2018年現在、ペンシルベニア州の総人口は約1,281万人です。1970年代から人口はほぼ横ばい状態が続いており、面積は全米33番目の大きさでありながら、人口は6番目に多い州です。州民は80パーセントが白人、10パーセントは黒人、その他にヒスパニックやアジア系で構成されています。
ペンシルベニア州の州都はハリスバーグですが、広く知られているのは州の最大都市であり北米有数の世界都市でもあるフィラデルフィアでしょう。アメリカで5番目に大きな市であるフィラデルフィアにはペンシルベニア大学やドレクセル大学など名門校が多くあり、学術都市としても有名です。
ペンシルベニア州はアメリカ合衆国が建国される前身の「13植民地」時代の中心地でした。なかでもフィラデルフィアは1790年から1800年まではアメリカの暫定首都として機能していたほどです。独立について話合われた「大陸会議」が初めて開催されたのもペンシルベニアです。
1751年にはアメリカ初となる病院が設立、1780年にはアメリカで初めて奴隷制度を正式に廃止、1781年にはアメリカ初となる銀行が創業しました。その他にも同州は溶鉱炉操業や油田操業などをアメリカで最初に始め、政治だけでなく経済においても多くの「全米初」を実現しました。このようなことから州のニックネームである「Keystone State(礎石の州)」と呼ばれるようになったのです。
ペンシルベニア州の最大の特徴のひとつが「アメリカ独立の中心地」ということでしょう。アメリカ独立期には、後にアメリカ建国の父と呼ばれる政治家たちがフィラデルフィアに集い、アメリカ独立に向けて大陸会議を行い、独立宣言の起草がなされました。その際に使用されていた当時の州議事堂(現在の独立記念館)は現存しており、1979年に世界文化遺産に認定されました。
1776年7月4日には州議事堂において独立宣言がされアメリカ合衆国が誕生しました。さらに、1787年には同じ場所でアメリカ合衆国憲法が制定されました。1790年からの10年間はアメリカ合衆国議会議事堂としても使われ、1階と2階が使用されたことから現在の「上院」と「下院」という言葉が誕生しました。
このようにペンシルベニア州はアメリカ合衆国が独立をした中心地でもあり、政治や経済が発展する際の原点だった場所と言えます。なかでもフィラデルフィアはアメリカ史のなかでも重要な役割を果たした都市として覚えておくといいでしょう。
ペンシルベニア州の歴史
ペンシルベニア州は、1787年にアメリカ合衆国2番目の州になりました。アメリカ独立宣言をした場所こそ同州のフィラデルフィアですが、州として認められた順番は合衆国憲法に批准した順番で決められたためデラウェア州に次いで2番目の扱いになりました。ちなみに、デラウェア州はアメリカで最初の州として知られていますが、ペンシルベニア州よりも5日早く憲法に批准しています。(1787年12月7日)
ペンシルベニアの地はヨーロッパ系の白人が入植してくる以前まではデラウェア族やイロコイ族などのインディアンが生活していました。1497年にイタリア系イギリス人のジョン・カボットが北アメリカ大陸を発見し、1600年以降はオランダやスウェーデンから入植者がやってきて交易を始めました。
この時に作られた植民地が「ニューネーデルラント」や「ニュースウェーデン」です。交易が順調だったオランダはペンシルベニアの領有権を主張し続けましたが、1681年にはそもそも領有権を所有していた(先に発見した)イギリスの領土として決着します。
ペンシルベニア設立の中心人物となったのが「ウィリアム・ペン」です。イギリスの貴族だったウィリアム・ペンは、父親が当時のイギリス王だったチャールズ2世に16,000ポンドを貸していた立場ということもあり、王からペンシルベニア周辺一帯の土地の全権を許されました。
ウィリアム・ペンはこの周辺をラテン語で森を意味する「シルベニア」と自身の名前から「ペン」をとってペンシルベニアと名付けました。また、この土地では信仰の自由を保障したことからドイツ、アイルランドなど多くの移民が集まるようになりました。さらに郡政府委員会も採用し、当時としては民主主義の先駆けとなるような政府を築いたのです。
1682年、理想とする国を作ろうと尽力していたウィリアム・ペンはインディアンとも友好的な関係を結びました。この土地の先住民族であるインディアンに対しては土地と引き換えに1,200ポンドを支払い、白人とインディアンで争いが生じた際には双方が同じ数だけ代表者をたてて公平に審理を行うことなど平等な扱いに努めました。また、通訳を介さず直接交渉ができるように自身も先住民族の言葉を勉強したほどでした。
ウィリアム・ペンがインディアンとの間で取り決めたことは「大協定」と呼ばれ、アメリカ史における白人とインディアンの契約のなかで唯一破られなかったものとして知られています。しかし、時代が進むにつれ大協定は形骸化し、新たに結ばれた協定はインディアンの無知につけ込んだ不平等なものばかりとなり、インディアンを追いつめていきました。
ウィリアム・ペンがこの世を去ってからもフィラデルフィアはアメリカの中心でした。18世紀後半には独立期を迎え、独立に向けた大陸会議や合衆国憲法の起草が同地で行われました。独立宣言後の1777年、独立戦争の際にフィラデルフィアはイギリス軍に支配されてしまいますが、フランスがアメリカに加勢したことでイギリス軍は撤退します。これによりアメリカは政治の中枢を手放さずに済みました。
1863年、ペンシルベニア州において南北戦争の転換点となる「ゲティスバーグの戦い」が起こります。北軍と南軍合わせて5万人近くが死傷する最大の激戦となりましたが、同州を含む北軍が勝利し、奴隷制度撤廃を支持した北軍が優勢になったと言われています。
ペンシルベニア州の歴史を知る上で、アメリカ合衆国の基礎とも言えるフィラデルフィアを作ったウィリアム・ペンの存在は知っておくといいでしょう。
ペンシルベニア州の政治情勢
ペンシルベニア州では2012年の大統領選では民主党、2016年には共和党を支持しています。1988年を最後にずっと民主党が勝利してきましたが、2016年には24年振りに共和党のトランプ氏が勝利しました。
州内の政治色は東西で分かれているとされ、東にある自由のフィラデルフィアに対し、西には歴史的に保守派のピッツバーグがあります。しかし、政党支持率は毎度のごとく変わるため「ペンシルベニア州のなかにアラバマ州がある」と揶揄されています。ちなみにアラバマ州も支持政党がすぐに変わることで有名です。
ペンシルベニア州の経済
2018年時点、ペンシルベニア州の失業率は4.8パーセントで、アメリカの平均値よりもわずかに高い数値です。1800年代から工業化が進められた同州では鉄鋼業などが栄えてきました。1859年にはペンシルベニア州西部で石油産業が始まり、アメリカ国内の石油消費の半分を担うほどでした。
現在では金融業やサービス業が主流ですが、ニューヨーク州との境で天然ガスが産出されているためエネルギー産業の成長が見込まれています。
ペンシルベニア州の税金
2018年時点、ペンシルベニア州の消費税は6.34パーセントです。連邦税が6パーセントに対し、地方消費税の平均が0.34パーセントです。アメリカ国内で10番目に税負担が大きい州とされており、州の税収入の76パーセントは州民が負担しています。州外からも税収を増やそうとしており、高速道路の有料化や天然ガスの採掘などにも課税する動きが見られます。
ペンシルベニア州の銃や薬物問題
ペンシルベニア州では医療用に限りマリファナは合法です。アメリカ北東部の州は全域で医療目的のマリファナが解禁されており、娯楽用の使用も解禁される傾向があります。アメリカの西海岸と東海岸はマリファナに関しては寛容な考え方を持っていると言えます。
ペンシルベニア州の銃に関する取り組みグレードは「C」とされています。州内に流れるデラウェア川を挟んだ対岸にあるニュージャージー州のカムデンは国内で治安が非常に悪いエリアとされており、銃犯罪などと背中合わせの一面もあります。
ペンシルベニア州の教育または宗教事情
ペンシルベニア州にはアイビーリーグのひとつでもあるペンシルベニア大学を始め数多くの名門私立校がありますが、教育水準の平均値は高くありません。ちなみに、ペンシルベニア大学はアメリカ初の医学校でもあり、ペンシルベニア芸術アカデミーは国内初、国内最古の芸術大学として有名です。
ペンシルベニア州の宗教はキリスト教が多いものの、ウィリアム・ペンが志したように信仰の自由が根強く、現在でも様々な宗教が混在しています。州民の30パーセントは無宗教、またはとくに関心がないとしていることも特徴でしょう。
まとめ
ペンシルベニア州はアメリカ建国の中心であったフィラデルフィアがある州で、その中心的人物がウィリアム・ペンであったことを知っておくといいでしょう。アメリカのなかでも歴史がある州のひとつです。
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