音楽のブルースが生まれた場所としても知られているミシシッピ州ですが、アメリカの歴史上、黒人奴隷制度や人種差別などが激しかった場所でもあります。アメリカ南部独特の文化が根強く、アメリカではミシシッピ州は「ディープサウス(Deep South)」と呼ばれています。
今回は、アメリカ南部の歴史を知るうえで欠かせないミシシッピ州について特徴や歴史を交えてご紹介します。
ミシシッピ州の特徴
2018年時点でのミシシッピ州の総人口は約298万人です。2000年以降、わずかに15万人程度しか人口は増えておらず、他州の人口増加と比較して緩やかと言えます。同じ南部に該当するテキサス州は800万人ほど増えているので差は歴然です。
州名のミシシッピはインディアンのオジブワ族の言葉で「大きな川」を意味しており、名前の通りミシシッピ川に由来しています。もともと奴隷制度の中心地だったため、現在でも白人が60パーセント以下で、黒人が40パーセントほど占めているとされています。
奴隷制度が与えた文化の影響は多岐に渡り、奴隷たちによって独自に作られた音楽の文化は現代にまで続いています。なかでも「ブルース」と「ゴスペル」はミシシッピが発祥の地と言われており、奴隷として働いていた人たちが母国を思い歌ったことが始まりとされています。
近年ではメキシコ湾に沿うようにしてホテル、ゴルフ場、カジノなどの複合施設が建設されており「南のラスベガス」として賑わっています。とくに1994年のギャンブル解禁後はカジノなどを目的に訪れる人が増えています。
一方でメキシコ湾で発生するハリケーンやミシシッピ川の氾濫など自然災害が多い場所としても知られています。なかでも、2005年のハリケーンカトリーナは死者238名、15億ドルという記録的な被害が出ました。また、アメリカの歴史上最も大きな竜巻5つのうち2つがミシシッピ州で発生しています。年間を通して穏やかな四季があるものの、ひとたび自然災害が起こると大きな影響を受ける場所でもあります。
ミシシッピ州の不名誉な称号として「アメリカで最も肥満体系が多い州」というものがあります。アメリカの健康管理調査の結果、州民の30パーセントが肥満体型で、子供の23パーセントが肥満と判定されました。
この背景には、アフリカ系アメリカ人が多く、健康に関する知識が不足していることや運動の重要性を理解していない人が多いことが挙げられています。また、州民の60パーセントは貧困層に該当するため健康的な食生活を送れていないことがあります。
このようにミシシッピ州は、アメリカ南部の代表的な場所であり、奴隷制度の中心地だったためアフリカ系人種が多く、潜在的に差別や貧困などの問題を抱えている州でもあります。
ミシシッピ州の歴史
ミシシッピ州は、1817年に20番目の州として認められました。ミシシッピがあるアメリカ大陸南東部では紀元前1万年前頃にインディアンの祖先となるパレオ・インディアンが生活していたとされています。そこでは大型動物の狩りや、農作物の栽培などが行われ、余った物は川や海を通じて交易に使われていました。この頃から現代にまで続くミシシッピ州の交易の基礎ができていたのです。
1504年、スペイン人探検家のエルナンド・デ・ソトが初めてこの地を訪れたことが初の白人の上陸とされています。1699年にはフランス人開拓者がオーシャンスプリングスという場所に初めての開拓地を築きました。
1716年にはミシシッピ川を使い毛皮や武器などの交易が本格化し、フランスから多くの開拓者がやってくるようになります。フランスが中心になって開拓や交易が広まったため、このエリアは「ヌーベルフランス(新しいフランス)」と呼ばれるようになりました。しかし、ミシシッピの土地はスペインやイギリスも自国のものと主張していたため複雑な関係のまま時代は流れます。
フランス人開拓者によって綿花、タバコなど大規模農園の経営も始まり徐々に人手が不足し始めます。それを解消するためにアフリカから多くの人が連れてこられました。単なる労働力として扱われたアフリカの人達と白人開拓者の間で「自由有色人階級」が発達し、後に奴隷制度や人種差別へと繋がっていきます。
一部の白人開拓者と、奴隷として連れてこられたアフリカ系女性の間に出来た子供は、黒人種であっても高い教育や資産分与、奉公、奴隷開放などの機会が与えられ「有色自由人」として第三の階級として生活をしていました。この人たちが現在のルイジアナ州ニューオーリンズなどで独自の文化を築き、黒人であってもアメリカで活躍できる社会や身分を築いたのです。
1783年、アメリカ独立戦争終結のパリ条約をもってミシシッピの地はイギリスからアメリカのものになりました。1798年には、ジョージア州とサウスカロライナ州から分離した土地をミシシッピ準州とします。2度に渡るスペインの領土への拡張、インディアンとの不平等買収などを通じて現在のミシシッピ州の原形ができました。
1850年、ミシシッピ州では綿花の栽培が最盛期を迎えていました。別名で「キング・コットン」と呼ばれるほど、農園経営者の収入や州の経済に大きく影響を与えたことから大規模化を続けていました。それに比例するように奴隷の数も増え、1860年の州民総数が約80万人に対し、奴隷の人口は43万人だったとされています。このような背景があるため現代でも南部には黒人種が多いのです。
1861年、ミシシッピ州は奴隷制度を保持しようとするためにアメリカ合衆国から離脱を表明します。ミシシッピ州と同じように綿花で収益をあげていた南部の7州が同盟を組んで「アメリカ連合国」を作り、南北戦争の際に「南軍」として戦いました。
奴隷制度を撤廃すべきとする北軍の勝利に終わった南北戦争ですが、アメリカ南部では黒人に対する根強い差別や蔑視の風潮は消えませんでした。しかし、1865年にアメリカ上院議員として選出されることになるミシシッピ州知事のジェイムズ・アルコーンは、白人から猛烈な反発を受けながらも、奴隷制度の文化を払拭するために尽力し、黒人のための公立学校や大学を設立しました。
州知事を辞めて上院議員になったジェイムズ・アルコーンは、州知事の座をハイラム・レベルズに譲ります。このハイラム・レベルズこそ、アメリカ初のアフリカ系アメリカ人の上院議員です。このふたりの尽力があったからこそ今日の社会が築かれたと言えるでしょう。
1890年には実質的に黒人や貧困層から選挙権を剥奪する州法が成立し、多くの黒人はアメリカ北部のイリノイ州、アイオワ州などの工業地帯へ移動しました。1920年から1940年頃にかけて黒人の4人に3人がミシシッピ州から離れたとされています。
ミシシッピ州の歴史には奴隷制度や黒人差別がある一方で、それを食い止めようとしたジェイムズ・アルコーンやハイラム・レベルズがいたことを知っておくといいでしょう。
ミシシッピ州の政治情勢
ミシシッピ州では2012年、2016年の大統領選で共和党を支持しています。もともと南部らしく保守的な共和党が強い傾向があります。2004年には同性婚を州民投票で禁止したり、州の憲法には「神の存在を信じない者は州の役職に就けない」と明記してあるなど、他州からは疑問視されることが多く存在しています。
アメリカ初の黒人上院議員になったハイラム・レベルズはノースカロライナ州の出身ですが、ミシシッピ州の黒人差別のために尽力した人物ですので覚えておくといいでしょう。
ミシシッピ州の経済
2018年時点、ミシシッピ州の失業率は4.6パーセントです。アメリカの平均4.1パーセントよりもやや高い数値です。ミシシッピ州の失業率は常にアメリカの平均よりも高い傾向があり、州民の多くを占める貧困層や教育を受けられない人の存在が影響しているとされています。
南北戦争以前までは綿花の栽培のお陰で国内5番目の裕福さを誇っていましたが、現在では一人当たりの収入がアメリカで一番低い州とされています。また、生活費の低さでもアメリカ1位のため、職や経済は州の大きな課題です。
ミシシッピ州の税金
2018年時点で、ミシシッピ州の消費税は7.07パーセントです。連邦税が7パーセントに対して、地方税の平均が0.07パーセントです。個人所得税は3パーセントから5パーセントの3段階累進課税制です。アメリカの国勢調査ではミシシッピ州は国内最貧州という結果になっています。
ミシシッピ州の銃や薬物問題
ミシシッピ州では医療目的でも娯楽目的でもマリファナは違法です。南部らしく保守的な傾向と言えます。ミシシッピ州は銃に対する取り組み格付けは最低ランクの「F」とされており、州民10万人に対して犠牲者は20名と最悪の数値です。2017年には警察官など8人が犠牲になる銃乱射事件が起きています。
ミシシッピ州の教育または宗教事情
ミシシッピ州の教育水準は最低レベルです。南北戦争の頃まで一部の黒人のための学校がわずかにある程度で、教育制度が整ったのは1862年です。1960年までは白人と黒人が別々の学校に通うことが義務づけられていました。他州と比較して教育の遅れは州の課題です。
ミシシッピ州民の半数以上は自ら「非常に信仰心が強い」と回答するほどで、キリスト教、カトリック、ユダヤなど多くの宗派で熱心な教徒がいるとされています。また、無宗教と回答する人は5パーセント以下で、他州よりも遥かに低い数値です。
まとめ
このようにミシシッピ州は、奴隷制度や黒人差別が教育や経済にまで影響し、その影は現代でも続いていると言えます。残念ながらミシシッピ州は教育、健康、職、治安などあらゆる面で課題を抱えています。
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