アメリカ東部の大西洋沿岸にあるバージニア州は、イギリスからやってきた開拓者が最初に築いた植民地であるジェームズタウンが有名で、アメリカが始まった原点ともされています。他にもアメリカ国防総省のペンタゴンがあることでも知られています。
バージニア州はアメリカ建国期に数多くの大統領を輩出したことから「大統領の母」とも呼ばれています。今回はアメリカ建国の際に重要な役割を果たしたバージニア州について特徴や歴史を交えてご紹介します。
バージニア州の特徴
2018年現在、バージニア州の総人口は約847万人です。第二次世界大戦以降、人口は右肩上がりで増加しており、全米で12番目に人口が多い州です。アメリカの首都であるワシントンD.C.に隣接していることから政府関係者や軍関係者が多く生活しており、首都のベッドタウンとしても知られています。
バージニア州は現在では国防総省などアメリカの中枢機能を担っていますが、もともとはタバコ栽培などの農業が盛んな場所でした。これらのプランテーションを運営するためにたくさんの奴隷がこの土地で生活していました。そのため州民の60パーセントが白人、20パーセントは黒人とされており黒人の比率が高いことが特徴です。
バージニア州東部のバージニア半島を流れるジェームズ川の川岸にアメリカで最初の恒久的な植民地が築かれました。この植民地は「ジェームズタウン」と呼ばれ、バージニア植民地の首都として機能しましたが、後に北東に隣接する「ウィリアムズバーグ」が首都になりました。
さらに、アメリカ独立戦争の際に アメリカの勝利を決定的にしたとされる戦いがあった「ヨークタウン」が東に隣接しており、これら3つの都市を結び「Historic Triangle(歴史的三角形)」と呼ばれています。現在ではコロニアルパークウェイという道路で結ばれており、アメリカの原点を知るための観光地になっています。
バージニア州はアメリカの原点ということもあり、イギリスからの独立や合衆国建国の際にも中心的な場所になりました。同時にそれらの中心人物も多く輩出しており、初代大統領のジョージ・ワシントンや第3代大統領のトーマス・ジェファーソン、第5代大統領ジェームズ・モンローなどがいます。バージニア出身の大統領経験者は、南北戦争が終結した時代までに7名もいます。
アメリカ建国の中心となり、大統領経験者も多く輩出してきたバージニア州ですが、実は南北戦争の際には奴隷制度を支持する南軍(アメリカ連合国)に加盟するため1861年に合衆国を離脱している過去があります。自由と平等を目指したアメリカ建国の中心でありながら、一方では奴隷制度を支持した側面があることも特徴と言えるでしょう。
このようにバージニア州はアメリカが始まった場所であり建国の中心地でした。また、建国期には数多くの大統領を輩出したことも特徴と言えます。
バージニア州の歴史
バージニア州は、1788年にアメリカ合衆国10番目の州になりました。1607年にイギリス人105名が3隻の船に乗ってこの地にやってきました。実は、これに先立ち1585年にもイギリス移民団がアメリカ大陸にやってきていましたが、3年の間に集落を含め全員が姿を消しています。この植民地消滅は「失われた植民地」として現在も原因は特定されていません。
1607年の移民団はバージニアに植民地を築き「ジェームズタウン」と名付けました。ジェームズタウンは先に消滅した植民地のようなものではなく永続的な植民地となりました。ここではインディアンの支援を受けてタバコ栽培などが行われ、徐々に規模が大きくなっていきました。しかし、相次ぐ食糧難や厳しい寒さで1608年には移民団は38名まで数を減らしていました。
1614年、イギリス人商人でタバコ栽培で成功したジョン・ロルフがインディアンのポウハタン族長の娘であるポカホンタスと結婚します。これにより白人とインディアンの共同体してバージニアでは「Commonwealth(良好な共同体)」がモットーになりました。バージニア州の正式名称である「The Commonwealth of Virginia」はここに由来しています。
ただし、この「Commonwealthの関係」は現在でも建前だけの話です。実際には入植者が土地を巡る交渉材料としてポカホンタスを誘拐し1年以上監禁していました。ポウハタン族の酋長は娘を助けるために白人に土地を譲り、タバコ栽培の拡充を許可しました。1616年、ポカホンタスはジョン・ロルフと一緒に訪れたイギリスで病気のため命を落としますが、ジョン・ロルフに毒殺されたと考えられています。
1622年、インディアンが白人347人を殺害する「ジェームズタウンの虐殺」が起こります。この背景には白人が自ら契約を結びながら、それを破ることを繰り返したことにインディアンが激高したことがあります。この事件を受け、正式に交渉の場が設けられましたが白人は祝いの酒に毒を持ってインディアンを300名近く殺害しました。この一件は、白人とインディアンの対立関係を決定付けたとされています。
インディアンとの対立を続けながらもタバコ栽培を拡大していった白人たちは、大規模なプランテーションを運営するために黒人奴隷を連れてきました。1676年時点で、バージニアの人口の約80パーセントは奴隷だったとされています。1699年、バージニアの首都機能がジェームズタウンからウィリアムズバーグへ移行し、他地域との交易が活発化していきました。
1755年、バージニアを含む一帯の領有権を主張していたフランスとイギリスが争った「フレンチ・インディアン戦争」が起こり、これに勝利したイギリスは植民地に税を課すようになりました。イギリス本国の干渉に耐えられなくなった13植民地は独立を目指しアメリカ独立戦争を始め、1776年7月4日に正式に独立を宣言しました。このときにアメリカ軍(大陸軍)を率いていたのが後の大統領になるジョージ・ワシントンです。
ジョージ・ワシントンはバージニアのヨークタウンでイギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍を降伏させ、1783年に講和条約(パリ条約)が締結しアメリカの独立は確かなものになりました。この後、バージニア出身のジェームズ・マディソンはジョン・ジェイやアレクサンダー・ハミルトンと一緒に合衆国憲法の解釈を論文化した「The Federalist」を完成させました。このことからジェームズ・マディソンは「アメリカ合衆国憲法の父」と呼ばれています。
1788年、合衆国に10番目の州として昇格したバージニア州ですが、1861年には奴隷制度を維持するために合衆国を離脱し、南軍として南北戦争を戦いました。南北戦争が終わった1870年に合衆国に再加盟し、同時に合衆国離脱について意見が分かれていた地域がウエストバージニア州になりました。
バージニア州の歴史はアメリカの原点、合衆国憲法の原点など建国に強い結びつきがあります。
バージニア州の政治情勢
バージニア州では2012年、2016年の大統領選の際には民主党を支持しています。州内で保守派とリベラルが明確に分かれており、都市部が多い北部は民主党が強く、南部では共和党が強いことが特徴です。公民権運動が盛んだった1960年代後半までは白人とアフリカ系アメリカ人を分離し、選挙権を実質的に剥奪していた州のひとつでした。
バージニア州の経済
2018年時点、バージニア州の失業率は3.4パーセントです。ワシントンD.C.にも近く、政府や軍の施設で働く人が多いため、どの時代でも失業率は国内でも最低レベルです。同州北部のグレートフォールズエリアはアメリカで最も収入が多い人が暮らす街に選ばれています。実際にバージニア北部は裕福なエリア国内トップ20のうち6つのエリアを占めています。
タバコや酪農などの産業だけでなくコンピューター産業も盛んで、全米のインターネットデータの50パーセントはバージニア北部のデータセンターで管理されています。
バージニア州の税金
2018年時点、バージニア州の消費税は5.63パーセントです。連邦税が5.3パーセントで、地方消費税の平均が0.33パーセントです。アメリカ東海岸や南部エリアで最も低い消費税率です。ただし、食品に対しても税がかかり、平均して2.5パーセント徴収されます。
バージニア州の銃や薬物問題
バージニア州では医療用も娯楽用もマリファナは禁止されています。南部に共通する傾向と言えますが、バージニア州のトーマス・ギャレット議員がマリファナを禁止している連邦法そのものを無効にし、州法で自由に決められるようにしようと活動し注目されています。
バージニア州の銃に対する取り組み格付けは「D」グレードとされています。都市部よりも南部エリアでの銃犯罪が多く、州民10万人に対して銃の犠牲者は11人とやや多いことが特徴です。
バージニア州の教育または宗教事情
バージニア州の教育水準は幼児教育においても全米で12番目に高いとされています。第3代大統領のトーマス・ジェファーソンによって創立されたバージニア大学は世界遺産で、バージニア士官学校は全米最古の士官学校です。教育においても歴史があることが特徴です。
バージニア州の宗教はキリスト教が約80パーセントを占めていますが、18パーセントは無宗教とされています。少数ながら仏教、ユダヤ教、イスラム教など多宗教な州と言えるでしょう。
まとめ
バージニア州はアメリカの原点と言える歴史的なことが起きた場所です。一方で、奴隷制度や人種差別などもあったことから、北部と南部の特徴が混ざっている州と言えます。
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