明治維新後、日本は近代化を加速させ、軍備も拡張、諸外国と戦争を行うようになります。その最初が「日清戦争」です。「人は苦しい(1894年)日清戦争」といった年号の語呂合わせもあります。19世紀も後半、いよいよ20世紀という時期から日本は列強諸国の仲間入りをしていくのです。
清というとなかなかイメージしにくいですが、現在の中国のことです。大国も大国ですね。それはこの当時も変わりません。そんな巨大な国・清に日本は戦争を仕掛けたわけです。そして勝利し、「下関条約」によって新たな領地を得、巨額の賠償金を得、日本国民は歓喜します。
なぜ日本は戦争をしなければならなかったのでしょうか。なぜ日本は勝てたのでしょうか。日本はこの戦争で何を得たのでしょうか。今回は世界が「帝国主義時代」にある中で必死に前に進もうともがいた日本の姿を「日清戦争」を通してご紹介していきます。
江戸幕府の負の遺産
安政の五カ国条約
明治の時代に入る前、日本は江戸幕府が政権を握り鎖国中でした。そんな日本に列強諸国は開国を迫ります。そして1858年、幕府の独断で「日米修好通商条約」が結ばれました。不平等条約でした。片務的な最恵国待遇を認め、領事裁判権を規定し、関税自主権は否定されました。それをアメリカだけではなく、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結ぶことになったのです。これを安政の五カ国条約と呼びます。
日本は近代化が大幅に遅れており、対等な国として認められていなかったのです。江戸時代には特別問題視されていなかったようですが、明治政府が成立してからはこの不平等条約の改正に奔走することになります。列強諸国を納得させるためには明確な立憲制と近代化を示す必要がありました。特に条約の改正に反対していたのはイギリスです。表向きには日本の司法整備の未熟さを懸念していたといいます。
不平等条約の改正
一度結んだ条約はそう簡単には改正できません。片務的な最恵国待遇を認めたのも条約改正の足を引っ張ります。どこかの国が反対すると条約の改正ができないからです。国民からも「ノルマントン号事件」によって領事裁判権の撤廃を求める声が大きくなりました。しかし外務大臣による外交交渉だけでは条約改正はできません。列強諸国を認めさせる力を示す必要があったのです。
1894年にイギリスは日本と「日英通商航海条約」を結びます。これは日清戦争と同じ年です。ちなみに日清戦争直前に結ばれています。当時のイギリスはロシアと覇権を争っており、ロシアの南下政策を食い止めるために日本を利用しようと考えていました。そこでイギリスが歩み寄ってきたわけです。この条約によって、領事裁判権は撤廃され、関税自主権も一部回復し、最恵国待遇は相互的なものとなりました。イギリスが認めたことで、その他の国とも条約改正ができるようになったのです。
しかし関税自主権はまだ回復していません。こちらは1911年小村寿太郎外相によって、日米通商航海条約改正時に回復しています。こちらは日露戦争で日本がロシアを破った末に勝ち取ったものです。条約の改正には軍事力を認めさせる必要もあったということでしょう。日本は不平等条約の改正のために約50年の月日を費やしたことになります。
朝鮮半島を巡る各国の思惑
ロシア帝国
ロシアは南下政策によって清の領地に進出しています。アロー戦争後に結んだ北京条約でロシアは外満州(現在の沿海州)まで勢力を拡大し、シベリア鉄道の短絡線の敷設権を得ました。これにはフランスも資本投資をして協力しています。
さらにロシアは朝鮮半島にまで介入し始めました。警戒感を強めたイギリスは、当初は朝鮮半島の清による支配を認めていましたが、日本に目を付けてロシア南下政策に対抗しました。日清戦争後の三国干渉によって日本に遼東半島の返却を要求し、ロシアはその後、清から租借地として遼東半島の旅順、大連を得ています。
大清帝国
昔ながらの冊封体制で朝鮮を属国としていましたが、1882年に朝鮮で発生した暴動「壬午事変」を機に軍を駐留し、朝鮮の内政に直接的に干渉するようになります。清は朝鮮国王を北洋通商大臣と同格とみなし、朝鮮においては清国人のみに領事裁判権を認めさせました。
しかし1884年、ベトナムを巡って清とフランスが揉めている隙を突いてクーデターが起きます。この事件の処理で清と日本の間が緊張状態となります。緊張緩和のため1885年に清と日本は「天津条約」を結び、朝鮮から軍を撤退させること、出兵するときには相互に連絡を取り合う約束をしました。
李氏朝鮮
頑なに鎖国を続けており、日本からの再三にわたる外交再開要求にも応じませんでした。業を煮やした日本は1875年に武力行使に出ます。軍艦を出港させ、首都を守る重要拠点である江華島に接近させました。朝鮮側からの攻撃を受けて戦闘を開始したのです。「江華島事件」と呼ばれます。ここで日本の軍事力を見せつけたことにより朝鮮内で開国派が台頭し、1876年に日朝修好条規を結びます。日本は列強諸国から突き付けられた不平等条約を、今度は朝鮮に突き付けたのです。
1882年、米朝修好通商条約を結ぶこととなり、朝鮮は開国します。しかし日本をはじめとする列強とは不平等条約を結ばされ、清には属国の扱いを受けるという厳しいものでした。その後は内紛と共に清や日本の影響を受けて政権が変わるという混迷の時代を歩むことになります。そして日清戦争の戦場となるのです。
日清戦争とは
甲午農民戦争
1894年に朝鮮で民生改善を訴える農民反乱「甲午農民戦争」が発生し、朝鮮から援軍の要請があった清は出兵します。日本も公使館や居留民の保護のために出兵します。このとき参謀本部内に初めて「大本営」が設置されるのです。
反乱軍と朝鮮王朝は停戦し、清と日本には撤兵要請が出されます。日本としては派兵する理由を失ったわけです。しかし日本は兵を戻すことはしませんでした。出兵の目的を「朝鮮の独立」の応援とします。そして清に朝鮮の独立を阻害するとして撤兵を求め、また清朝間の条約の撤廃を申し入れました。
日本軍は朝鮮王宮を直接占拠、親日派の大院君を摂政にし、新政権を樹立させます。そして牙山に布陣する清軍の掃討を日本に依頼させるのです。こうして日本と清の戦争が始まります。清は当初、日本との戦争は国を挙げてのものではなく、北洋通商大臣に任せていました。さらに朝廷内で対立などがあり、なかなか一枚岩になれない状況でもありました。
平壌を占拠
日本軍は連戦連勝の快進撃を続けます。混成第九旅団は牙山から成歓に移った清軍に夜襲を仕掛け撃破した後に牙山を占拠します。清と日本が宣戦布告をするのはその直後になります。
平壌に清兵一万が集結しているという報告を受け、大本営は第五師団を出動させます。第五師団は第三師団の到着前に早期決着を目指して平壌を攻撃。清が降伏したことによって入城しています。清が国力を総動員して日本に対抗してくるのは平壌平定後になります。
制海権を握る
戦争を長期化し、列強諸国の介入で終結を目論みていた清でしたが、黄海において清の北洋艦隊と日本の連合艦隊が激突し壊滅的な損害を受けます。日本が近代化を急ぎ水軍を増強していたのに対し、清の艦隊は後れをとっていました。黄海海戦の勝利により、日本は制海権を掌握します。
日本はさらに進軍し、旅順を攻略。そして遼東半島を平定します。イギリスやイタリアが講和仲裁に入っていましたが、日本はさらなる大きな成果が必要だと考え、威海衛の戦いで清の北洋艦隊の残存戦力を殲滅、台湾を占領すべく澎湖列島に上陸して占拠しました。台湾に関しては攻略前に講和交渉が始まっています。
下関条約
講和内容
1895年に清の全権大使・李鴻章との間で下関条約が成立します。講和条件として、①朝鮮と清との冊封関係の解消、②遼東半島、台湾、澎湖列島の領土割譲、③賠償金の支払い、④日本に最恵国待遇をあたえることが決まりました。
日本は朝鮮独立の後ろ盾になる予定でしたが、1年もたたずにロシアの協力を得たクーデターが勃発し、日本が擁立した総理大臣の金弘集は殺害されます。こうして朝鮮への日本の単独進出は後退していくのです。そして1897年に高宗が皇帝に即位し、「大韓帝国」が建国されました。
三国干渉
領土割譲についても他国からクレームが入ります。遼東半島の返還要求です。名目上は遼東半島を日本が支配することによって朝鮮の独立が損なわれるということと、清の首都・北京を脅かすことになるため、平和を乱すこの講和条件に反対するというものでした。反対したのはロシアを主導国として、他にドイツ、フランスの三国になります。日本の協力国だったイギリスは中立を保ちました。これを「三国干渉」と呼びます。
これらの列強に対抗できない日本はこの要求を受け入れます。国内ではロシアに対する敵愾心が高まりました。政府も臥薪嘗胆のスローガンにして国民の目をロシアに向けさせています。遼東半島は3000万両で清に返却されることになりました。朝鮮での反日クーデターが発生したのは、三国干渉により日本の権威が失墜したためでもありました。
さらに多額の賠償金を支払うことになった清は列強諸国に借款することになります。ここが列強諸国の狙い目でもありました。見返りを要求し、清の領土内に租借地を獲得していきます。日本として一番納得がいかなかったのはロシアが遼東半島の旅順、大連を租借地とすることに成功したことです。ロシアは極東支配に向けて着実に勢力を拡大させていきます。
挙国一致
日清戦争を通じての国内の大きな変化は、反政府層すらも政府の日清戦争を支持したということでしょう。第二次伊藤博文は解散するか、弾劾によって辞職するかの瀬戸際まで追い詰められていましたが、この日清戦争によって状況が一変します。
著名人としてはあの福沢諭吉もこの日清戦争に賛成しています。福沢諭吉は日本と清の戦いを「文明と野蛮の戦い」と称しています。内村鑑三や田中正造も賛成していたといいます。またこの戦争を通じて「国民」ということをそれぞれが意識するようになり、「国民国家」へ成長を遂げました。「国家」に尽くし、貢献するのが「国民」の義務であるという認識に目覚めるようになります。まさに日清戦争は「挙国一致」の戦争だったのです。
日清戦争を現代と照らし合わせて考察してみよう
戦争に突入しても恐れていたような不景気にはならず、むしろ特需で活性化した産業もありました。さらに巨額の賠償金を得たことが日本を活気づけました。このとき得た賠償金は日本の国家予算の二倍以上でした。日本はさらに軍備を拡張することになります。
日清戦争の背景に、帝国主義の価値観があったことを忘れてはいけません。日本はその力を誇示しなければ不平等条約を改正し、列強諸国と対等な関係を築けなかったのです。その一方で、戦争が効果的な政治手段であるという認識を国民に植えつけました。戦争が正当化されたともいえるでしょう。さらにロシアに対する警戒と憎しみの感情が、次なる戦争に日本を向かわせることになるのです。
(文:ろひもと 理穂)
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