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【日本の政策史その5】江戸時代の「鎖国」と今の「日本」を考える

日本の歴史に残る「政策」について取り上げて考察するシリーズです。第5回目は江戸時代に行われた対外政策「鎖国」ついてです。「鎖国」は何のために行われたのか、「鎖国」が現代の日本に及ぼした影響はどのようなものなのか、現代と照らし合わせて考察していきます。

2017年06月01日更新

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目次
江戸時代の外交政策「鎖国」とは?
鎖国が生まれた背景 ー キリスト教が一つのキーワードです。
鎖国について現代と照らし合わせて考察
まとめ
【日本の政策史その5】江戸時代の「鎖国」と今の「日本」を考える

皆様は、鎖国(さこく)という言葉にどのようなイメージをお持ちでしょうか?

最近、「鎖国」という言葉が持つイメージが強いために、「鎖国」という言葉を学校の教科書には掲載しないほうがいいとのではないかと議論になったことがあります。

実際には、江戸時代に行われていた対外政策は「鎖国」と言うほど完全に閉ざされたものではなく、一部の国とは国交がありました。鎖国なんてものはなかったと主張されている方もいます。歴史の見解は様々です。

私は江戸時代を含め、キリスト教徒が弾圧された300年間こそが日本の鎖国の時代だと考えています。日本が自らの価値観に必死にしがみついていた300年間です。これは日本が長らく培ってきた価値観でもあります。それを壊すことを恐れたのです。よりたくましく成長するという道も選べたはずですが、この時の日本はおびえて自分の家と部屋にこもりました。

そして国民の信仰の自由を重々しい鎖で縛ったのです。そして外から誰にも見られないようにカーテンを下ろしました。これが鎖国です。こうしなければ江戸幕府は260年にも及ぶ政権を維持できていなかったでしょう。

今回は鎖国とは何なのか、現代と照らし合せて考察してみます。

江戸時代の外交政策「鎖国」とは?

鎖国というのは国の対外政策が閉ざされていて、世界規模で見た時に孤立している状態です。そのため外国から輸入品が持ち込まれることはなく、その他、学問や科学技術、医療などから武器、宗教、海外情報に至るまで完全にシャットダウンできます。

国民は自国内でのみ活動をするわけです。これが本来の鎖国の意味でしょう。

しかし江戸時代に行われたとされる鎖国はここまで徹底されていません。対外政策は閉ざされておらず、日本は完全に孤立しているわけではないのです。

こっそり外国との貿易も続けられており、あらゆるものが日本に入ってきています。ただし窓口が圧倒的に狭いのが特徴です。

国民の多くは貿易が行われている実情を知らなかったのではないでしょうか。つまり海外の情報や輸入品は一部の人間の手にしか渡らなかったと思われます。

ただし宗教に関しては徹底しています。標的はキリスト教です。他国から宣教師が来日し布教するのも当然禁止ですが、国民がキリスト教を信仰するのも禁止しています。

貿易に関しては特別扱いされていた松前藩、対馬藩、薩摩藩すらも密貿易を行っていたようで緩いですが、キリスト教の信仰に関しては世界に類を見ないほど徹底的に禁止されており、わずかな隠れキリシタンが地下活動をしていたような状態です。

一般的には日本が鎖国をしていた時期は、1639年のポルトガルとの国交を断絶した年から1854年に日米和親条約が締結されるまでの約200年間を指します。

日本はずいぶん長い期間鎖国をしていたことになりますが、この期間に国交していた国は中国とオランダです。これに朝鮮王朝、琉球王国、蝦夷地を加えたのが当時の貿易相手国となります。

貿易港は江戸幕府の直轄地である長崎です。当初は平戸に商館がありましたが、後に出島が建設され、そちらに移っています。「長崎口(ながさきくち)」ともいいます。ここで中国、オランダと貿易をしていました。中国は当初は明王朝でしたが1644年より清王朝に変わっています。

朝鮮半島との貿易や外交は「対馬口(つちまくち)」といって対馬藩が中継を行っています。

琉球王国との貿易は「薩摩口(さつまくち)」といって薩摩藩が認められていました。蝦夷地に住むアイヌとの貿易は「松前口(まつまえくち)」といって松前藩が行ってきました。

対外的な貿易については「しなかった」のではなく一部の国に「独占されていた」という表現が適しています。特にイギリスやスペイン、ポルトガルとの貿易は固く禁じられており、1640年にポルトガルの使者が日本に訪れた際には61名を処刑しています。

なぜヨーロッパ諸国の中でオランダは貿易が可能で、スペインやポルトガルは貿易が禁止されていたのでしょうか。

それはオランダがプロテスタント国家であり、かつキリスト教布教を伴わない貿易が可能であると日本に提示したからです。同じキリスト教であってもカトリックはヨーロッパにおいてプロテスタントの勢力に押されており、布教の先を海外に求める必要がありました。

当時の日本人にプロテスタントとカトリックの区別がついたかどうかは疑問ですが、オランダ人だけが優遇されていたのは確かです。

1643年、オランダ船の乗組員が日本に上陸し盛岡藩に捕まった際にも、オランダ人であることが判明すると待遇は良くなり、ポルトガル人と敵対し戦闘した経験を語ることで歓迎されたという記述もあります。これが「ブレスケンス号事件」です。

こうして見ると鎖国の理由は貿易の独占以上にキリスト教を禁止するために行われていたことがわかります。貿易の管理や統制はキリスト教の問題を解決するために必要だったのです。

鎖国が生まれた背景 ー キリスト教が一つのキーワードです。

織田信長はキリスト教の布教を奨励しましたが、豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を発令しています。なぜ豊臣秀吉はこのような追放令を発令したのでしょうか。

ひとつはキリスト教がこれ以上広がってコントロールできなくなることを恐れたためです。もうひとつにキリスト教徒が強制的に民衆を改宗させたり、寺社を破壊したためだといわれています。

しかし、1587年の発令自体は布教活動の禁止だけのものであり、宣教師たちは未だに日本に残っています。豊臣秀吉は南蛮貿易の利益も計算していたため強い締め出しはしていないのです。

それが1596年のサン=フェリペ号事件で一変します。土佐に漂着したスペイン船の乗組員から衝撃の発言を聞いたからです。

スペインがなぜこうも植民地を広げているのか、そのやり方はまず宣教師を派遣して布教し、信徒を増やして兵力とし、そして併呑しているというものでした。それを聞いて豊臣秀吉は激怒し再び禁教令を出し、26人の信徒を捕らえて処刑しました。

江戸幕府が開かれてからはしばらくの間、イギリスやスペイン、ポルトガルとの国交はありました。1616年に長崎の平戸に限定しましたが、貿易も続けられていたのです。

江戸幕府がキリシタンへの不信感を募らせた事件が二つあります。

一つは幕府に対して詐欺事件を起こした1612年のキリシタンの岡本大八事件です。翌年にキリスト教信仰の禁止令が発令されています。さらにもう一つ、1620年にイギリス・オランダが日本の朱印船を拿捕した平山常陳事件です。入国許可の出ていないスペイン宣教師が乗船していたためですが、船長の平山常陳をはじめ宣教師も、宣教師ではなく商人であると訴えて逃れようとしました。最終的に偽証が発覚し火あぶりの刑になっています。

こうして1622年の元和の大殉教につながっていきます。長崎で55人の信徒が処刑された事件です。幕府による徹底的なキリスト教弾圧が始まったのです。

1624年にスペインとの国交を断絶。1636年にはポルトガル人をマカオに追放しました。幕府はキリスト教を抑えるためには根本的に貿易から止める必要があると判断したからです。

そして1637年に日本史上最大の一揆が発生するのです。それが島原天草の乱です。総大将はキリシタンの青年・天草四郎でしたが、陣容は旧有馬氏家臣の浪人たちです。これに圧政に苦しむ百姓らが加わりました。領主である松倉重政の検地による石高の勘定が誤っていたようで、実際の倍の石高で計算されていたため生活できないほどの年貢を徴収されていたといいます。

そのためこの一揆にはキリシタンではない百姓も多く参加していました。これらの理由からこの一揆で亡くなった信徒は殉教者として未だに認めらえていません。

最終的に島原半島の廃城に籠城した一揆衆は3万7千人。幕府軍は12万の兵力で城を囲い兵糧攻めを行って滅ぼします。

この一揆においてキリシタンが信仰のためならば死もいとわないということがはっきりとしました。さらにキリシタンは神にのみ忠誠を捧げており、幕府の思い通りにいかない障害であることも明確になりました。

16世紀後半、キリシタンの割合は日本人口の10%を占めていました。これらが一致団結して幕府に逆らうことになると島原天草の乱の二の舞です。幕府を頂点にした秩序のある国造りを目指す徳川家は、この後さらに過酷な弾圧を続けていきます。とことんキリシタンを見つけ出し改宗させるのです。

そのために五人組制度や寺請制度、さらに密告者に賞金を渡す訴人報償制を定めました。宣教師を見つけ出したら銀30枚だったものが、江戸後期になると銀500枚に値上がりしています。

江戸幕府の統治のためにはキリスト教は障害である。だから信徒は改宗させ、キリスト教を布教しようとする国とは断絶する。

これが鎖国が生まれた実態ではないでしょうか。

鎖国について現代と照らし合わせて考察

戦国時代、江戸時代、明治時代いつの時代でもヨーロッパの列強諸国は日本にとって脅威です。武器も最新式であり、様々な物を発明し、高い文明を誇っています。信仰心から奪っていくという戦略もまたとてつもない脅威に感じていたことでしょう。

だからといって鎖国という保護主義は決断として正しかったのでしょうか。鎖国は自分の殻の中に籠ったにすぎません。キリスト教を積極的に学んでコントロールしようとするチャレンジを諦めました。

もし江戸時代の人たちが宗教の垣根を超えて理解し合い、協力し合えるようになっていれば、現在の世界中で発生している宗教絡みのテロ活動は、日本が先頭に立って解決できていたかもしれません。

長きに渡る鎖国によって、日本人は科学や医療、技術など様々な分野で世界から大きく遅れることにもなりました。政治や法令などの面でもいえることです。そんな状況を危ぶんで志士たちが幕末を駆けまわることになり、早足で明治維新を迎えることになります。

これらの特殊な経験は現代で鎖国状態にある国にアドバイスできるものではないでしょうか。

鎖国は古い秩序を何百年間も維持するために国民を無知にします。国民主権、そのような素晴らしい発想は開国したからこそ手にできたものです。

現代の鎖国状態の国の国民に何か伝えられるものはないでしょうか。

鎖国をし、狭い範囲で生活していくことによって発展していくものもあるでしょう。団結していくものもあるでしょう。国のアイディンティティーも生まれてくるでしょう。

しかしあまりにも視野が狭くなっています。世界のために何ができるのか、何が必要なのかを考えたときに、自国を保護するだけの鎖国はやはり足かせにすぎません。

まとめ

鎖国をしていたからこそ日本は植民地化されなかったという話を聞いたことがあります。要はキリスト教徒の数を増やさなかったからということです。

1854年に日米和親条約が結ばれ、下田と函館が開港しました。それ自体に大きな問題があったとは思えません。

1858年に日米修好通商条約を締結し、その後長きに渡って日本を苦しめることになる不平等条約が結ばれます。キリスト教を認め、他国の文化を学び、軍備力を増強していればこのような不利な条約を結ばされることもなかったでしょう。

それでもまだ、キリスト教の禁教は解かれていません。解かれたのは1873年のことになります。バテレン追放令からおよそ300年間。日本のキリスト教信者は苦しんできました。

同じような出来事が現在でも起こっています。現代でも鎖国の状態にある国では、国民主権を奪われ、飢えと絶望に苦しんでいる人たちが大勢います。

鎖国にあった私たち日本人の目を覚ましてくれたのはペリーの黒船です。強制的な力が働かないと、おそらくあと100年、200年は日本は鎖国を続けていたかもしれません。

それでは現代の鎖国状態にある国の目を覚ますのは誰の役目なのでしょうか。やはりアメリカですか。ロシア、中国でしょうか。私は日本だと信じています。

同じ経験をし、苦しみを味わっているのです。日本が手を差し伸べずに誰が手を差し伸べますか。

今回、江戸時代の鎖国をとおして現代と照らし合わせて考えたとき、私たちの使命も見えてきた気がします。それは日本がリーダーシップをとって鎖国状態の中で苦しむ人たちを救うことです。そのための努力と工夫をすべきなのではないでしょうか。

(文:ろひもと理穂)

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