【頻出歴史問題】大正時代における民主主義の発展と日本の近代化について

公務員採用試験の頻出歴史問題「日本の大正時代」についての解説ページです。短い期間ながら日本にとってとても重要な転換期となる「大正時代」。はたして「大正デモクラシー」とは何を指すのか、「米騒動」はなぜ起こったのか、大正時代の重要項目について、その背景を踏まえてご紹介いたします。


1912年7月20日から1926年12月25日までという短い期間ながら、政党勢力が進出し、これまでの藩閥政治に取って代わる大事な機会となった「大正時代」。この時期は、世界が第一次世界大戦という混迷の中にあった時代でもありました。

第一次世界大戦については以前にお伝えしましたので、今回はそれ以外の重要事項についてご紹介します。

ポイントの一つはやはり「米騒動」でしょう。大正時代はこの米騒動の前と後に大きく分けられることになるからです。

何点か年号暗記の語呂あわせをご紹介します。「ひどく嫌がる(1918年)米騒動」「遠くに見える火の柱(1923年)関東大震災」「選挙に行く(1925年)25歳の男子、普通選挙法」「特にごめんだ(1925年)治安維持法」以上の四点は大正時代の重要事項なので要チェックになります。

日本の政治を主導してきた層について振り返ってみましょう。聖徳太子の時代には天皇中心の中央集権国家でした。それから藤原氏が権力を握る摂関政治となります。そして上皇が院政を行いました。やがて武士が力を持ちはじめ、平氏政権、鎌倉幕府、室町幕府、戦国時代、江戸幕府とずっと武家政権が日本の政治を引っ張っていくことになります。これが明治維新で大きく変わります。武士が消滅し、天皇が中心の中央集権国家に戻るわけです。このとき実際に政治の舵取りをしていたのはもと薩摩藩士、長州藩士らでした。これを「藩閥政治」と呼びます。大正時代にも明治維新の英雄は健在で、伊藤博文、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、桂太郎、黒田清隆らは元老と呼ばれています。これに西園寺公望を加えた9人は首相を決める権限を有していました。日本の政治を主導してきたメンバーです。

大正時代はそんな藩閥政治が終焉を迎え、より民主的な政治が行われるようになる時代です。政党により組閣された「政党内閣」が日本の政治を行いました。また、政治運動が盛んになり、資本主義を批判する社会主義や共産主義も勢いを持ち始めています。こちらはロシア革命の影響を大きく受けていました。大正時代は近代化に成功した日本が、今後の方針を巡っていろいろな主義・主張がぶつかり合った民主主義の黎明期なのです。

護憲運動とはどのようなものだったのか

第1次護憲運動とはどのようなものだったのか

日露戦争後、緊縮財政を進めてきた第2次西園寺内閣に対して、陸軍は朝鮮駐屯の軍の増強を要請します。それを拒否する西園寺内閣に対し、当時の陸相が辞任。後任の陸相を立てることができなかった西園寺内閣は総辞職に追い込まれます。

続く内閣総理大臣には陸軍大将の桂太郎が就任しました。これには強引に陸軍増強を推し進めようとする山縣有朋の意向があるとして、藩閥政治への反発が強まることになります。そして「閥族打破、憲政擁護」を掲げた「第一次護憲運動」が巻き起こるのです。

1913年、「立憲政友会」の尾崎行雄と「立憲国民党」の犬養毅が協力し、桂内閣の不信任案を提案しますが、桂内閣は議会の停止や詔勅による圧力によってこれを回避しようと試みます。これに対し護憲派が徹底抗議を行い、呼応して藩閥政治に反発した民衆が一部暴徒化して新聞社や警察を襲撃。これによって桂内閣もまた総辞職することになります。この「大正の政変」により藩閥政治は衰退、民主化が進むことになりました。

第2次護憲運動とはどのようなものだったのか

第2次護憲運動と第1次護憲運動の大きな違いは、第1次護憲運動が国民を巻き込み暴動にまで発展する大掛かりなものであったのに対し、第2次護憲運動はあくまでも政党による小規模なものだったことです。

1923年、枢密院議長の清浦圭吾が内閣総理大臣となり、ほとんどの閣僚を貴族院議員から選びました。政党政治の排除を行ったのです。これに敢然と立ち向かったのが「憲政会」の加藤高明と「革新倶楽部」の犬養毅です。さらにこれに立憲政友会の高橋是清も加わり、「護憲三派」が清浦内閣打倒を目指すことになります。清浦内閣は議会を解散し、総選挙を実施しましたが、護憲三派への選挙運動の妨害などが明るみとなり国民の反発を受けました。結果、護憲三派が大勝し、第一党となった加藤高明が総理大臣となり、政党内閣が復活することになるのです。これを第2次護憲運動と呼びます。


米騒動とはどのようなものだったのか

米騒動が発生した寺内内閣

1916年に組閣した寺内内閣は、中国における権益強化を目指します。そのためにロシアやイギリスとの連携の力を注ぎました。1917年にロシア革命によってロシアが混乱している隙をついて、中国での支配領域を北満州、沿海州まで広げることを画策します。そして1918年、革命軍に囚われているチェコ軍の救出を名目に「シベリア出兵」が宣言されるのです。このロシアへの干渉戦争には日本兵が7万人以上投入されることとなります。

第一次世界大戦の特需で潤った日本は、急激なインフレーションを引き起こしていました。1918年の1月に1石15円ほどだった米価は、7月には倍以上の1石30円を突破する価格に跳ね上がっています。米を扱う商人らが買占め、売り惜しみをしたために米価はどんどん釣り上げられていました。そこにシベリア出兵の話が持ち上がります。商人は米をさらに売り惜しみ、米価は1石40円を突破するまでになります。単純に食費が倍以上になるわけですから一般庶民にとっては耐えられない負担となっていました。

「米騒動」は約50日間とされていますが、その発端は7月の富山県における女性たちによる抗議からです。当初は安売りの嘆願でしたが、やがて強要して米を安く手に入れる手段として全国に波及していきます。8月には米価は1石50円を超えていたのです。ですから全国で米騒動に参加した民衆は数百万人にのぼるとされています。鎮圧のために投入された兵は10万人、逮捕者は2万人を超えました。この影響を受けて寺内内閣は退陣しています。

原敬が行った政治とはどのようなものだったのか

1918年、寺内内閣の後、組閣されたのが原内閣になります。「平民宰相」と呼ばれることになる原敬が内閣総理大臣となったのです。原敬は立憲政友会の総裁であり、閣僚も外相、陸相、海相以外はすべて立憲政友会のメンバーが務めています。これが日本初の「政党内閣」の誕生でした。

原敬の政治手腕は元老である山縣有朋から高い評価を受けています。外交においては諸国との融和策へと方針転換しました。中国との関係改善も図っています。国際連盟が設置された際には日本は常任理事国となっています。しかし派兵していたシベリア出兵についてはなかなか撤退を完了できていません。

教育の改革にも着手しています。高等教育の拡張において大きな成果を出しています。慶應義塾大学や早稲田大学など多くの私立大学が昇格を果たしています。さらに鉄道などの交通機関の整備や産業の振興、軍事力の増強にも熱心でした。しかし民衆が期待していた「普通選挙法」の施行については否定的だったようです。一方で「小選挙区制」を取り入れ、選挙人の資格を直接国税10円以上から3円以上に引き下げています。

1919年になると満州で日本軍と中国軍が衝突、1920年にはニコラエフスク(尼港)で在留日本人が虐殺される事件が発生し、原内閣は責任を問われることとなります。そして1921年には原敬を排除しようと画策した民間人によって暗殺されてしまうのです。

関東大震災とはどのようなものだったのか

大正時代に起こった災害で最も大きなものが、1923年9月に発生した「関東大地震」です。190万人が被災しました。折からの強風によって火災による被害が大きかったようです。およそ10万人が死亡したとされています。内閣総理大臣であった加藤友三郎はこの震災の8日前に急死しており、山本権兵衛が震災の翌日から内閣総理大臣に就任しています。この震災では流言による人的二次被害も問題視されました。

東京は壊滅的な被害を受け、江戸時代から続いてきた街並みは一新することになります。内務相の後藤新平が大掛かりな大都市計画を構想し、インフラ整備に着手しました。これを機会に、東京は近代都市として変貌を遂げることになるのです。

普通選挙法と治安維持法とはどのようなものだったのか

普通選挙法の内容とは

「普通選挙法」は、政党内閣を復活させた加藤高明内閣によって1925年に制定されました。原敬によって選挙人の制限は引き下げられていましたが、普通選挙法では納税要件が撤廃されています。さらに満25歳以上のすべての成年男子に選挙権が与えられることになったのです。有権者はこのことで4倍以上に膨れ上がったことになります。しかし女性に対して選挙権を与えることはありませんでした。

女性に選挙権が与えられなかったことを不服として、「婦人参政権」の獲得を目指した運動が激しさを増すこととなります。主要メンバーには「平塚らいてう」や「市川房枝」らがいます。しかし女性に選挙権が認められるためには第二次世界大戦の敗戦後、1945年まで待つことになります。一方で「大正モダン」と呼ばれるように、女性の就労が増えて華やかさを増したのが大正時代の特徴でもあります。事務員や百貨店店員、女優など女性が活躍できる場が広がりました。

治安維持法はなぜ制定されたのか

1917年のロシア革命では、強大なロシア帝国が共産主義思想によって倒されることになります。それを見た日本は共産主義革命運動が日本でも激化することを恐れました。そのために宗教、思想、主義などで反政府的なものをすべて弾圧していくことになります。それが1925年に制定された「治安維持法」です。普通選挙法と同時期に制定されており、過熱化するであろう政治運動を抑制するためだとされています。

普通選挙法が1945年に改正されるのと同じく、治安維持法もまた第二次世界大戦敗戦後、GHQによって廃止されます。戦時中どれだけの数の国民が国民主権と戦争反対を訴えて捕らえられたのか定かではありませんが、この治安維持法が施行されている期間には数十万人の逮捕者が出ているそうです。

大正デモクラシーとはどのようなものなのか

大正時代の有名な言葉に「大正デモクラシー」というものがあります。ここまでご紹介してきたものを総じて大正デモクラシーと呼びます。その主たるものは、民主主義の発展と自由主義の主張です。具体的な行動としては、普通選挙を求める運動や護憲運動を指します。このことで、これまで日本の歴史上脈々と受け継がれてきた特権階級による独占的な政治が終焉を迎えることになります。そう考えてみると短い期間ではありながら、大正時代は日本にとってとても大切な転換期といえます。

1926年、大正時代もまた終わりを告げることになり、日本は昭和の時代に突入します。そして数々の悲劇を生む第二次世界大戦が始まるのです。日本が本当の民主主義国家となるにはまだ時間が必要でした。


著・ろひもと理穂

本記事は、2017年8月13日時点調査または公開された情報です。
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