【頻出歴史問題】第二次世界大戦の勃発と拡大、各国の動きと思惑(後編)

公務員採用試験の頻出歴史問題「第二次世界大」解説の後編です。1939年に勃発した「第二次世界大戦」に日本も本格的に巻き込まれていきます。そして日本はついにアメリカやイギリスと戦うことになるのです。今回はこの悲劇的な戦争を、終戦までの経過と共にご紹介していきます。


前回お伝えしましたように、ドイツのポーランドへの侵攻から端を発した侵略戦争は瞬く間に世界に広がっていきます。第二次世界大戦の勃発です。枢軸国のドイツ・イタリア・日本は手を結び、それぞれが目標とする領地獲得に動き出すのです。対する連合国はイギリスやフランス、オランダ、さらにアメリカや中華民国、そしてソビエト連邦まで加わっていきます。

この時期で覚えるべき年号はとしては、「解く信号(1945年)ポツダム宣言」でしょうか。こちらは押さえおきましょう。「8月6日の広島への原子爆弾投下」、「8月9日の長崎への原子爆弾投下」については、語呂合わせなしでしっかり覚えておきたいところです。1945年8月15日に日本は無条件降伏を受け入れて、第二次世界大戦は終結します。

今回は日本が本格参戦することになる1941年から1945年の終戦までをお伝えしていきます。戦没者の数は正確にはわかっていませんので、伝わっている数字でお伝えし、戦争の悲惨さを感じていただけたらと思います。

> 第二次世界大戦の勃発と拡大、各国の動きと思惑(前編)

ドイツVSソ連

ドイツのソ連侵攻はどのようなものだったのか

1941年6月、イギリス本土侵攻を進めていたドイツでしたが、制空権争いに敗北、方針を一転します。「独ソ不可侵条約」を破棄してソビエト連邦に侵攻を開始したのです。その兵力は300万ともいわれています。予想外のドイツの裏切りによってソビエト連邦の前線は大混乱し、ドイツは首都モスクワを目指して快進撃を続けていきます。

極寒の中、11月にはモスクワまで23km地点まで侵攻しますが、ここからソビエト連邦の強烈な反撃に遭い、一時退却することになります。ドイツは兵站のラインが滞っていたことと、防寒装備をおろそかにしていたことで進撃の威力が弱っていたのです。ドイツ軍は150kmも後退することになります。しかし冬が終わり、春を迎えるとソビエト連邦の反撃の力もまた弱まります。ここから再びドイツの猛攻が始まりました。

スターリングラード攻防戦とはどのようなものだったのか

1942年8月、後退するソビエト連邦軍はスターリングラードに集結していきます。そしてこの地でドイツ軍とソビエト連邦軍による大激突、「スターリングラード攻防戦」が行われることになるのです。この戦いは翌1943年2月まで続けられることになります。序盤はドイツ軍が有利に戦いを進めていましたが、やがてその力が衰え、ソビエト連邦軍の反撃によって包囲され孤立していきます。ドイツは救出部隊を派遣しましたが失敗しました。

この半年に及ぶ市街戦で、ドイツ軍は15万人の戦死者を出しています。対してソビエト連邦の戦死者は48万人です。スターリングラードの住民は60万人から1万人まで減ったといわれています。1943年2月、スターリングラードで包囲されたドイツ軍は降伏しました。降伏した兵は9万6千人に及びます。捕虜となったドイツ兵は寒さの中の移動と仮収容所の過酷な生活のため、数週間で5万人が死亡しています。最終的に祖国に戻れたのは6千人でした。

日本VSアメリカ

真珠湾攻撃から始まった日本の参戦はどのようなものだったのか

1941年12月7日、日本はイギリスの植民地であるマレー半島に上陸、さらにハワイ真珠湾にあるアメリカの太平洋艦隊基地を攻撃します。これによりイギリス、アメリカ、オランダ、中華民国が続々と日本に宣戦布告しました。日本は先制攻撃に引き続き、ルソン島、グアム島、香港などを占領していきます。

1942年に入ってからも日本の快進撃は続き、シンガポールやジャワ島などを占領、アメリカ、イギリス、オランダの連合国艦隊を撃破していきます。この時点では、アジアにおける連合国艦隊は日本海軍によって壊滅的なダメージを受けていました。1853年にペリーの黒船が来航し、開国を江戸幕府に迫って以来、アメリカの指示に従ってきた日本でしたが、ついに軍事力で勝利する日が訪れたのです。

ミッドウェー海戦とはどのようなものだったのか

連合国を驚かすほどの強さを見せつけていた日本でしたが、1942年6月の「ミッドウェー海戦」の大敗から旗色が悪くなっていきます。日本海軍は有利な状態にありながら無線の暗号を解読されており、アメリカ海軍は防御を整えていたのです。さらに日本海軍は索敵に失敗し、航空機の兵装準備などに時間をかけ、その隙に敵艦隊の攻撃を受けて大きな損害を出しました。4隻の空母と300機の艦載機を一挙に失ったのです。大本営はこの敗戦を国民にひた隠しにしました。


ミッドウェー海戦の敗戦により致命傷を負った日本海軍には、正規空母が2隻だけとなっています。戦局は大きく変化しました。アメリカが空母の数をどんどん増やしていくのに対し、国力の劣る日本はその後ほとんど空母を増産できていません。こうしてアメリカ軍の大反撃が開始されていくのです。日本にとって第二次世界大戦のターニングポイントとなった戦いでした。

ソロモン諸島の戦いとはどのようなものだったのか

1942年8月よりアメリカ軍のソロモン諸島、ガダルカナル島への上陸が始まります。日本軍もガダルカナル島の奪還に戦力を注ぎ込みますが、ソロモン海戦で敗北し制海権をアメリカに握られ、補給を断たれます。ガダルカナル島での戦死した日本兵の数は2万人を超えていますが、その大半が餓死者だったようです。

12月の御前会議でガダルカナル島からの撤退が決まりましたが、それが実行に移されたのは翌1943年2月のことになります。日本海軍はガダルカナル島への補給のために駆逐艦を使用していましたが、アメリカ海軍に撃沈され、そのほとんどを消失することになりました。これにより日本海軍はさらに戦力を大きく減退させることとなったのです。

ドイツVS連合国軍

ノルマンディー上陸作戦とはどのようなものだったのか

1943年、イタリアは北アフリカ戦線において連合国軍に大敗し、15万人の兵士が降伏します。講和の動きが強まったイタリア国内では、ムッソリーニが戦争指導責任を追及され逮捕されました。こうしてイタリアは三国同盟の中で真っ先に連合国に降伏することになるのです。

1944年6月、連合国は17万人を超える兵力を投入して北フランスのノルマンディー地方に上陸します。「ノルマンディー上陸作戦」です。ドイツは海岸に防衛線を築いていましたが、連合国軍は多数の犠牲を払いながらも上陸に成功します。最終的に連合国軍は二百万人にものぼる兵力を上陸させ、西ヨーロッパを制圧していくのです。8月にはパリを解放することになるこの作戦全体を「オーバーロード作戦」と呼びます。こうしてドイツは占領した領地のほとんどを失うことになるのです。

ヒトラーの自害とドイツの降伏はどのようなものだったのか

ドイツは西からイギリスやアメリカ、東からはソビエト連邦に攻め込まれることとなり、フランスのパリに続きベルギーのブリュッセルを失います。1945年になるとポーランドのワルシャワをソビエト連邦に占領され、さらに連合国軍にオーストリアのザルツブルクも奪還されます。4月にはオーストリアのウィーンもソビエト連邦に占領され、ついにベルリンが攻撃されることになるのです。

主要な戦力を失ったヒトラーは降伏を認めず、ドイツ国内の生産施設をすべて破壊するように指示しました。しかし軍需相がこれを拒否。ヒトラーはラジオ放送の演説も止め、地下壕へと姿を隠します。そして4月30日に自害しました。その後、ベルリンはソビエト連邦に占領されます。5月になりドイツは連合国に無条件降伏をしました。こうして三国同盟では日本だけが戦争を続ける状況となったのです。

日本の敗戦

グアム・サイパン・フィリピン陥落とはどのようなものだったのか

1944年6月、マリアナ沖海戦が日本海軍とアメリカ海軍の間で行われます。空母の数が不足している日本は大敗を喫し、空母と3隻と多数の艦載機を失います。制空権、制海権を失った日本はサイパン島、グアム島と占領されていきます。サイパン島では兵士・民間人合せて4万人もの日本人の命が失われています。そしていよいよB‐29による日本本土の爆撃が開始されることになるのです。

10月にはアメリカ軍がフィリピンのレイテ島へ侵攻を開始します。日本海軍は戦艦大和や武蔵でレイテ島上陸部隊の輸送船隊を撃滅する作戦に出ますが、失敗に終わりました。1945年2月にはフィリピンを占領され、資源輸送のルートを断たれ、日本は戦争の継続が厳しい状況に追い込まれます。

沖縄戦とはどのようなものだったのか

1945年2月から硫黄島の戦いが始まり、3月末に陥落します。2万人近くの日本兵が戦死しました。3月10日には日本本土への爆撃となる東京大空襲があり、10万人もの命が失われました。4月になるとアメリカとイギリスが沖縄への上陸戦を開始します。日本海軍連合艦隊はここで戦艦大和も失い、事実上壊滅しました。6月には沖縄は陥落。民間人あわせて19万人の命が失われています。

7月にはドイツのポツダムで日本に無条件降伏を要求する「ポツダム宣言」が発表されましたが、鈴木内閣はこれを黙殺し、ソビエト連邦に講和の仲介役を期待します。このとき日本は表向きでは本土決戦、一億玉砕を掲げていました。

原爆投下とはどのようなものだったのか

沖縄戦で多くの死傷者を出したアメリカは、自国の損害をこれ以上出さないため、そして日本の降伏を急がせるために「原子爆弾」の使用に踏み切ります。アメリカのトルーマン大統領は1945年8月6日に広島への原爆投下を指示、続く8月9日には長崎に原爆を投下します。人類史上初めてとなる原子爆弾の使用により、20万人以上の命が失われています。

その間、8月8日にソビエト連邦は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告しました。そして8月9日には満州へ侵攻し、日本がポツダム宣言を受諾し降伏した後も南樺太、千島が攻撃され占領されます。ソビエト連邦の侵攻はさらに続き、9月までに北方領土も占領されました。

ポツダム宣言の受諾

1945年8月10日、御前会議において日本はポツダム宣言を受諾し、連合国への降伏を決めます。日本国民に発表されたのは8月15日のことでした。鈴木内閣は総辞職しています。8月30日には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサーが来日しました。9月2日にはアメリカの戦艦ミズーリにおいて降伏文書への調印がなされています。こうして1939年、ドイツのポーランド侵攻から始まった第二次世界大戦はようやく終結したのです。

戦争による被害の数は正確にはわかっていません。世界全体で死者は8千万人にものぼるともいわれています。人類史上最悪な戦争であったことは間違いないでしょう。


日本はGHQの管理下の中で民主主義を確立していくことになります。また、第二次世界大戦がきっかけとなり、アジアの多くの国が列強諸国の植民地支配から脱却し独立していくことになります。

戦争は終了しましたが、世界はアメリカとソビエト連邦が対立する「冷戦」の時代へと突入していきます。

文:ろひもと 理穂

> 第二次世界大戦の勃発と拡大、各国の動きと思惑(前編)

本記事は、2017年8月31日時点調査または公開された情報です。
記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。

気に入ったら是非フォローお願いします!
NO IMAGE

第一回 公務員川柳 2019

公務員総研が主催の、日本で働く「公務員」をテーマにした「川柳」を募集し、世に発信する企画です。

CTR IMG