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【日本の政策史その1】イヌは殺してはダメ?「生類憐みの令」

日本の歴史に残る「政策」について取り上げて考察するシリーズです。第1回目は、江戸時代の江戸幕府、5代将軍の徳川綱吉による「生類憐れみの令」についてです。徳川綱吉ってどんな人?から「生類憐みの令」とはについて解説します。

2017年05月15日更新

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目次
戦乱を終えが江戸時代の政策
5代将軍の徳川綱吉ってどんな人?
お犬様を殺してはいけない!「生類憐みの令」とは何でしょうか?
なぜ綱吉は「生類憐みの令」を発布したのか?その背景にせまる!
「生類憐みの令」について現代と照らし合わせて考えてみよう
まとめ 何のための、だれのための政治か?
イヌは殺してはダメ?「生類憐みの令」のお話です。

戦乱を終えが江戸時代の政策

江戸時代は長き太平の時代です。265年間もの間、徳川家将軍を中心とした江戸幕府が日本の政治を行ってきました。江戸時代の前は、戦国、安土桃山時代であり戦の絶えぬ戦乱の中です。江戸時代が終焉を迎えた頃もまた、日本は明治維新、開国という混乱と戦乱の中に突入していくことになります。そう考えると江戸時代は特殊な時代なのかもしれません。長きに渡る鎖国と平和の中で日本は独自の文化を発展させていくのです。

江戸幕府は初代の徳川家康から数えて15代続くことになります。有名な将軍といえば、生まれながらに将軍であると公言した3代将軍の徳川家光、享保の改革を行った8代将軍の徳川吉宗、大政奉還を行った15代将軍の徳川慶喜などがいます。教科書に掲載され、入試問題にも出題されるほどメジャーな存在です。皆さんもご存知なのではないでしょうか。

同じくらい知名度の高い将軍がもうひとりいます。元禄文化の幕開けの時期に将軍だった5代将軍の徳川綱吉です。こちらもよく学校の定期試験や入試問題に登場しますね。皆さんは徳川綱吉といわれて何を思い出すでしょうか。「湯島聖堂」と答えた方は江戸時代に精通していますね。「儒学」と答えた方も同様です。だいたいは「生類憐みの令」とか「犬公方」と答えるのではないでしょうか。「忠臣蔵」や「水戸黄門」と答えた方はかなりマニアックな方だと思います。

徳川綱吉の治世で一番有名なのはやはり「生類憐みの令」なのです。しかし学校の授業ではその内容について詳しく勉強することはありません。「悪政」のひとつとして記憶するくらいのことです。実際はどのようなものだったのでしょうか。今回はこの「生類憐みの令」について掘り下げていきましょう。

5代将軍の徳川綱吉ってどんな人?

まずは法令「生類憐みの令」を発布した徳川綱吉について詳しく紹介していきます。

基本的に江戸幕府の将軍の名前には「家」の一文字が含まれています。3代将軍の家光や4代将軍の家綱、6代将軍の家宣などです。しかし、将軍になった人たちの中には「家」の一文字を含まないケースもあります。もともと将軍になる予定がなかったからです。2代将軍の秀忠は家康の嫡男ではありません。8代将軍の吉宗も紀州藩藩主であり、将軍になる予定はまったくありませんでした。15代将軍の慶喜ももとの姓は一橋です。

この綱吉も同じような境遇で育ち将軍になっています。綱吉は3代将軍家光の4男です。4男が家督を継ぐというのはかなり稀なケースでしょう。一番上の兄は4代将軍家綱ですが、子に恵まれず病死しています。もうひとりの兄の綱重も病死。綱吉は上野館林藩主を務めていましたが老中・堀田正俊の強い推薦もあって将軍となりました。

父親である家光が4男である綱吉に強制したのが「儒学」の勉強です。その理由は綱吉に弟としての分をわきまえさせるためでした。そして兄である将軍家綱を支える存在になって欲しいと願っていたのです。

儒教の学問的側面である「儒学」ですが、柱は五常という徳性を高めて五倫関係を強化するものです。五常とは、仁・義・礼・智・信を指します。五倫とは、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の関係を指します。幼いころから「儒学」を学んできた綱吉は、この五常へのこだわりがとても強かったといわれています。

例えば天皇や朝廷に対して最も尊皇心が強かった将軍が綱吉です。また母親・桂昌院への孝行心から従一位という高位を朝廷から賜り、これが前代未聞のことで問題視されたりもしているのです。

綱吉は林信篤を招いて「経書」の討論を行い、武芸よりも学問を好んでいた様子がうかがえます。それがやがて学問の中心となる「湯島聖堂」の建立に繋がっていくのです。

儒学の思想を重んじ、五常の実践を奨励した綱吉でしたが、世間とのギャップは大きかったようです。そのギャップがやがて「生類憐みの令」を誕生させることになります。

お犬様を殺してはいけない!「生類憐みの令」とは何でしょうか?

こちらは皆さんもよくご存じだと思います。簡単にいうと「殺生を慎む」という法令です。
対象は人間の他に犬や猫、鳥や魚、貝や虫にまで至ります。無益な殺生を禁じただけでなく、食用とすることも禁じました。やがて傷つけることも処罰の対象となっていきます。

この法令は綱吉が将軍位にあった24年間続けられています。その間に内容が改定されていき、135回も御触れが出ているのです。少し詳しく内容を紹介していきます。

▼1685年、将軍御成りの道では、犬・猫をつながなくてもよい。要するにリードなしでフリーの状態にしろということです。

▼1687年、魚・鳥・亀・鶏・貝を食用にすることを禁止します。もちろん犬も猫もダメです。

▼1691年、これらを見世物としてすることも禁止します。動物の権利尊重ですね。

▼1693年、釣りも禁止されます。

▼1695年、大久保・四谷・中野に犬小屋を作ります。住民は強制退去。費用については、20万両は、少なくともかかったそうです。中野に作られた御囲は東京ドーム20個分の広さだったそうです。保護された犬の数だけで10万頭にも達しています。

▼1696年、犬虐待した人を密告すると賞金が出ることになりました。その後、30両と決まります。

▼1700年、鰻やドジョウの売買も禁止となります。
とにかく徹底した動物保護政策です。例外もあり、田畑を荒らす猪や鹿、狼などには銃を使って威嚇射撃し、追い払うことは許されていました。
それでは実際にこの法令によって処罰された人はいたのでしょうか。

▼1687年、病気の馬を遺棄したとして村民10人が遠流の刑に処されています。さらに鳩に投石した者も遠流になりました。家綱の命日に吹き矢で燕を撃った武士が死罪になっています。

▼1688年、ついに旗本の武士も処罰されています。また、鳥が巣を作っていた木を切り倒したということで村民が処罰されました。

▼1689年、病気の馬を遺棄したとして、陪臣14名、農民が25人も流罪になりました。

▼1695年、鉄砲で鳥を殺し10人が切腹、1人が死罪になっています。
このように24年間で69件の処罰が行われました。

ここで多くの疑問が生まれてきます。

▼なぜ綱吉は「生類憐みの令」を発布したのか?

▼なぜ135回も追加で御触れを出さねばならなかったのか?
▼なぜ処罰者が絶えないのか?
この点についてさらに掘り下げていきましょう。

なぜ綱吉は「生類憐みの令」を発布したのか?その背景にせまる!

ここからは学校の授業では学習しない内容かもしれません。

当時の日本国民にはまだ戦乱の時代から受け継いだ荒々しさが残っていました。武士だけではなく、町民や農民なども喧嘩をすれば相手を殺すこともあり、放火や辻斬りなども横行していました。かぶきものと呼ばれるさらに荒っぽい連中は暴力だけでなく、犬を殺して食べたりしていたのです。かなり人心が荒んでいたといえるでしょう。

病気の牛や馬を平気で遺棄するだけでなく、病気の人間や生まれたばかりの赤ん坊を捨てることも多々あったそうです。

儒学の思想を柱にした文治国家目指す綱吉にとって、この状況は耐えられないものだったのではないでしょうか。学問を普及させ、モラルを向上させようとも考えましたが、なかなか状況は改善されなかったようです。

そこで綱吉は強制的に人の心を変える方策を採ります。それが「生類憐みの令」です。
しかし世間の抵抗は予想以上でした。将軍の権威もやや失墜しているような状態でしたから、綱吉の「生類憐みの令」に逆らったり、揶揄したりする者も多かったそうです。

犬を痛めつけたりしてわざわざ法令を犯す者も出てきます。その都度、法令の内容は厳しく
なり、綱吉は断固とした決意で処罰していきます。

しかし実際には、地方における「生類憐みの令」の徹底はかなり弱かったようです。尾張の武士が法令を破って、76回も釣りに通い詰めたという記録も残されています。さらに唐人やオランダ人が渡来する長崎では、豚や鶏の料理が普通に提供されていました。

綱吉としては、まずは江戸に住む人たちの心の改革を行っていきたかったのでしょう。

「生類憐みの令」が誕生した経緯は諸説あります。

綱吉が丙戌年の生まれで、愛犬家だったからだとか、母親の桂昌院が寵愛する僧正・隆光の強い勧めがあったからだとかです。どれが真実なのかははっきりとわかっていませんが、悪政といわれ続けてきた綱吉の「生類憐みの令」が最近になって見直されつつあるのは確かです。理由はこの法令の施行によって、確かに江戸時代の人の心は優しさを取り戻したからです。

「生類憐みの令」について現代と照らし合わせて考えてみよう

戦乱の時代は血で血を洗うような狂気の世界です。他人を殺すことばかりか、身内にまで手にかけるのは日常茶飯事でした。その風潮が江戸時代になってもしばらく続くのですが、綱吉の「生類憐みの令」を境に価値観が変化します。「人を殺すなどとんでもないこと」だという認識が定着したのがこの頃だとされているのです。

綱吉はこの法令を百年先まで継続することを望んで病死しましたが、後継者たる6代将軍の家宣や政権の大黒柱となる新井白石らは綱吉死後わずか1週間でこの法令を廃止します。巨大な犬小屋も撤去されました。しかしその後も継続された内容もあるのです。例えば牛馬の遺棄は禁止され続けています。綱吉の時代に問題視していた捨て子についても引き続き禁止、病人を捨てることも禁止、これを保護する政策は継続されたのです。

「生類憐みの令」によって日本は超安全国家へと変貌を遂げました。ちなみに江戸時代265年で発生した事件よりも、現代の東京で1年間に発生する犯罪の方が多いそうです。
つまり現代人の方が、モラルが低下していることを示しています。確かに殺人事件は後を絶ちません。連日のように報道されています。学校では道徳の教育が実施されていますが、いじめの数はまったく減少せず、自殺者も出ています。また、乱獲によって多くの動物が絶滅の憂き目にあったり、その数が減少したり、こちらも大きな社会問題になっています。

「生類憐みの令」は天下の悪法と呼ばれ続けてきましたが、まさにそれぐらいの強制力をかけない限り日本の治安は改善されないのかもしれません。新しい社会問題が次々と発生する現代だからこそ、綱吉の「生類憐みの令」を見返し、そこから何かを学び取らねばならないのかもしれません。

まとめ 何のための、だれのための政治か?

学校では単に将軍様が馬鹿げた法令を作ったということで知名度の高い「生類憐みの令」ですが、見方を変え、掘り下げて調べてみると意外な効果があったことがわかりました。新井白石が故意に前政権の綱吉を否定し、自己肯定するために誇大に悪政であることをアピールしていたとも考えられてきています。

もう一度この5代将軍綱吉と「生類憐みの令」についてしっかり考察していく必要があるのではないでしょうか。

水戸黄門として名高い徳川光圀が、綱吉のこの法令に抗議するために犬の皮で作ったものを送り付けたといった話も有名ですが、実はフィクションのようですね。とかく悪役になることの多い綱吉ですが、もしかすると優れた政治を行った名将軍かもしれません。

綱吉の政治は「天治の治」と呼ばれ、8代将軍吉宗もこれを模範にしたそうです。

皆さんもぜひ先入観を捨てて、この「生類憐みの令」について考えみてはいかがでしょうか。

(文:ろひもと理穂)

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