フィレンツェの歴史はメディチの歴史 ―建物で巡るメディチの歴史―

世界の都市シリーズ、今回は「フィレンツェ」の歴史についてのコラムです。

「フィレンツェ」は、イタリアのトスカーナ州の州都で、ルネサンス時代の芸術の拠点としでした。その都市の歴史はメディチ家の歴史といっても過言ではありません。メディチ家を中心にこの都市の歴史をご紹介します。


メディチ・リッカルディ宮殿 メディチ家の住宅兼銀行本社

メディチ家が歴史に登場してくるのは、13世紀半ばです。その後、15世紀初めにジョヴァンニ・デ・ビッチ(1360年~1429年)がメディチ家の当主として、銀行業で成功を収めたことが、メディチ家の繁栄の始まりでした。

ジョバンニの跡を継いだのは、長男のコジモ(1389年~1464年)でした。銀行業をさらに発展させ、フィレンツェ共和国の政治にも大きな影響を与えます。

メディチ・リッカルディ宮殿は、このコジモが彫刻家、建築家であるミケロッツォに依頼して建設しました。当初は、フィレンツェの大聖堂の丸天井(クーポラ)を設計したブルネッレスキに設計を依頼しましたが、ブルネッレスキの設計があまりにも豪華極まるものだったため、ミケロッツォに設計を頼み直したということです。

これには理由がありました。コジモはこれに先立つこと10年前の1433年にフィレンツェ共和国を追放されたのでした。そこには、政治的に敵対する者たちから、メディチ家の独裁を批判する声がありました。

そのため、コジモはフィレンツェに帰還した後、政治の表舞台に出ることはなく、目立つことも避け、パトロンとして美術の発展に貢献しました。こうした流れは、コジモの甥ロレンツォに引き継がれ、フィレンツェのルネサンス美術が花開くことになるのです。

ヴェッキオ宮殿 フィレンツェ共和国の政治の中心

ヴェッキオ宮殿は、現在フィレンツェ市庁舎として使われています。宮殿の建設が始まったのは、1299年で1314年に完成しました。

当初、12世紀から16世紀まで続いたフィレンツェ共和国の政庁舎でした。その後、数回に渡り重要な改装が行われ、現在のような姿になっています。

メディチ家の繁栄を築いた先述のコジモ・デ・メディチもお気に入りの建築家ミケロッツォに改装をさせています。1440年から1460年にかけて、政治的中心であったヴェッキオ宮殿をルネサンス期の装飾を施し、快適に過ごせる場にしたということです。

共和国の後期、1495年から1498年にはメディチ家の当主ピエロ2世は追放され、修道僧のサヴォナローラがフィレンツェの指導者になります。この時代に、現在も残る大広間「500人広間」が建設されます。

その後、フィレンツェが1569年にトスカーナ大公国の首都になると、メディチ家の当主でトスカーナ大公のコジモ1世(1519年~1574年)は、ヴェッキオ宮殿を政庁舎から自身の住宅にします。

コジモ1世は、お気に入りの画家、建築家であるヴァザーリに改装を依頼し、「500人広間」の壁画には、フィレンツェがシエナとピサ、リヴォルノという周辺の都市を征服した様子が描かれています。また、天井には、コジモ1世が神としてあげめられている画が飾られています。


サン・ロレンツォ教会とメディチ家礼拝堂 メディチ家の教会

サン・ロレンツォ教会は、メディチ・リッカルディ宮殿の後ろに位置するメディチ家の教会です。

サン・ロレンツォ教会の始まりは、とても古く4世紀に遡ります。その後、1421年に拡張工事をする際にメディチ家のジョバンニ・デ・ビッチが資金を提供したのをきっかけに、メディチ家の介入が始まります。

その頃には、現在のメディチ家礼拝堂の旧聖具室がブルネッレスキにより建設されていました。旧聖具室はジョバンニのために造られた礼拝堂です。

ジョバンニの息子コジモに教会の再建計画が引き継がれ、建築家もコジモお抱えのミケロッツォに引き継がれます。ただ、工事は遅々として進みませんでした。1461年に主祭壇が出来上がり、コジモが亡くなった時にはこの主祭壇の真下の地下に埋葬されました。

それ以降、教会はメディチ家出身者の埋葬の場となったのです。メディチ家出身の教皇レオ10世は、1520年にメディチ家礼拝堂の新聖具室の建築をミケランジェロに依頼します。

新聖具室は、レオ10世の弟と甥の墓廟を設置するためのものでした。そこには、ルネサンス最盛期のメディチ家当主ロレンツォ(1449年~1492年)とその弟も埋葬されています。

サン・マルコ修道院 サヴォナローラの時代

サン・ロレンツォ教会がメディチ家の住宅であるリッカルディ宮殿の背後に位置する一方、サン・マルコ修道院は宮殿の前方に位置しており、この地域は「メディチ家の地域」と呼ばれています。

サン・マルコ修道院は、1437年にドメニコ会修道士の所有となります。その背景には、メディチ家のコジモがいました。同年、コジモは朽ち果てていた修道院を再建するようにミケロッツォに依頼します。

ここには、メディチ家によって繁栄したフィレンツェ住民の華美な生活を批判した修道士サヴォナローラ(1452年~1498年)の独房が残されています。1494年にフィレンツェがフランス軍の侵攻を受け、メディチ家はフィレンツェ共和国から追放されます。

その後、フィレンツェ共和国の指導者となったのが、サヴォナローラでした。しかし、サヴォナローラの時代は4年で幕を閉じます。メディチ家の独裁や贅沢を非難したサヴォナローラは、市民にも質素な生活を説きます。

工芸品や美術品を焼却するという行為にまでエスカレートしたサヴォナローラの教えにより、次第に市民の心は彼から離れていきました。さらに、教皇との対立も深め、サヴォナローラは1498年にっヴェッキオ宮殿のあるシニョーリア広場で火刑にされます。

ウフィツィ美術館 トスカーナ大公国の政庁舎

ウフィツィ美術館は、当初フィレンツェ公国の政庁舎でした。コジモ1世が1555年にシエナ公国(現在のシエナ市)を征服して、トスカーナ大公となりました。この頃に、メディチ家は再び最盛期を迎えます。

1560年にコジモ1世は建築家のヴァザーリに政庁舎の建設を依頼します。フィレンツェの重要な13の役職を一か所にまとめて、フィレンツェの行政機関の事務所を建設するという意図でした。

「ウフィツィ」は、イタリア語で「オフィス」「事務所」という意味ですが、それはここから由来しています。

1565年には、コジモ1世の息子フランチェスコ1世の結婚を機に、ウフィツィとピッティ宮殿(1555年に妻エレオノーラのために購入)をつなぐ、回廊をヴァザーリに建設するように頼みます。


これは、現在「ヴァザーリの回廊」と呼ばれており、回廊には700点以上の絵画が展示されています。

その後、コジモ1世とヴァザーリは1574年に亡くなり、建設は息子のフランチェスコ1世と建築家ブオンタレンティに引き継がれます。フランチェスコ1世は、1579年頃からメディチ家の美術品の収容と展示を始め、1591年に公開したのが美術館の始まりです。

ピッティ宮殿 16世紀以降のメディチ家住宅

ピッティ宮殿は、フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティがライバルであるメディチ家のコジモ・デ・メディチに対抗して建設を始めた宮殿でした。

ピッティが亡くなり、建設は中断されていましたが、1555年にメディチ家のコジモ1世が病気がちだった妻のために買い取り、建設が再開されます。

1580年にウフィツィが完成され、ウフィツィが政治機関として動き始めると、コジモ1世はピッティ宮殿で家族と過ごすことが多くなります。

コジモ・デ・メディチからその甥のロレンツォ、そしてコジモ1世へと引き継がれたメディチ家の芸術・文芸のパトロンとしての役割は、このピッティ宮殿でも見られます。

コジモ1世から後、時のメディチ家当主が支援した芸術家たちの作品や収集品などが現在のピッティ宮殿の美術館の収蔵品となっています。

また、ピッティ宮殿の背後に広がるボーボリ庭園も有名です。コジモ1世から孫の世代まで、この宮殿と庭の整備は続けられていたということで、いかにメディチ家の重要な住宅だったかが窺われます。

まとめ

フィレンツェの街を歩いていると、ふと13世紀や16世紀の時代に戻ったような気分になる時があります。

特に、ヴェッキオ宮殿があるシニョーリア広場にはサヴォナローラが処刑された場所を提示する碑があったり、コジモ1世の銅像があったり、ウフィツィ美術館の前にはダ・ヴィンチやダンテ、マキャベリなどの彫像が並んでいます。

こうした彫像の中を歩いていると、自分もその時代の一人になったような感覚になるのです。日本と違って、何世紀も前の建築物や彫像などがあちらこちらに残っているからなのでしょう。街全体が、歴史を感じる場なのです。

本記事は、2018年12月21日時点調査または公開された情報です。
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