はじめに
1817年から1825年までアメリカ合衆国第5代大統領を務めたジェームズ・モンローは独立戦争を戦った最後の世代で、この時まで続いたバージニア植民地からの大統領経験者が誕生した最後の世代です。アメリカ史のなかではジェームズ・モンローはひとつの時代の区切りを作った大統領とされています。
ジェームズ・モンローは大統領就任前には国務長官や陸軍長官などを歴任し、1816年の大統領選では80パーセント以上の票を獲得したほどの人気を誇りました。ジェームズ・モンロー政権では対立派も少なく「好感情の時代」と呼ばれる穏やかな時代でした。今回はそのような時代に大統領を務めたジェームズ・モンローについて解説します。
「ジェームズ・モンロー」のプロフィール
ジェームズ・モンローは2期8年間にわたり大統領を務めました。ジェームズ・モンローが大統領だった時代はアメリカ史のなかでも珍しく目立った政党対立がなく、民主共和党が支配した「好感情の時代」と呼ばれています。
中流階級の家で育ったジェームズ・モンローは独立戦争の際には果敢な行動でジョージ・ワシントンに認められ、政治家としては外交特使としてイギリスやフランス、スペインなどとアメリカの橋渡し役を務めました。無知ゆえに無鉄砲な行動もあったとされていますが、外交を通じて視野を広げ、アメリカがヨーロッパに頼らない独立国として進むべき方向性を示した大統領だったとされています。
大統領としてはヨーロッパからの脱却、ミズーリの妥協、奴隷貿易の禁止などの功績を残し、なかでも「モンロー主義」と呼ばれる外交方針は、アメリカがイギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国からの干渉を避け、国内自立を始める基礎になったと言われています。
「ジェームズ・モンロー」の経歴
ジェームズ・モンローは1758年にバージニア植民地に生まれます。スコットランドからの移民を先祖に持ち家族は農園を経営していました。家系はバージニア植民地のなかでも中間層だったことから政治とは無縁の階級でしたが、16歳のときに父親が死に、土地や資産を引き継ぎます。その後は、政治家だった叔父のジョゼフ・ジョーンズが父親代わりになったことでバージニアの有力者たちと繋がりができていきました。
幼い頃は農業や狩猟に関心があったジェームズ・モンローでしたが、叔父の奨めもありウィリアム・アンド・メアリー大学に進学します。この当時の大学では勉学よりもイギリスからの独立に向けた戦闘訓練や政治論争などが学生間で流行し、ジェームズ・モンローもそのひとりでした。結局、ジェームズ・モンローは1776年に独立戦争を戦うために大学を中退します。
ジェームズ・モンローは身長183センチで、屈強な体格をしていたため陸軍に入隊し、独立戦争の際にはジョージ・ワシントンの大陸軍本隊に一員として戦闘に加わります。戦闘で重傷を負いながらも活躍を続けたジェームズ・モンローはジョージ・ワシントンから高く評価され大陸軍を退役します。このことは後の政治世界で一目置かれる存在になったことを意味しました。
1782年にはバージニア下院議員に選出されて政治の道へ進みます。翌年には連合会議のメンバーとしてバージニア代表に選出され、インディアンとの交渉立会人や、後に本格化することになる西部開拓の重要性や活用法などを進言しました。実際に、西部における準州の設立はジェームズ・モンローの功績が大きいとされています。
連合会議のメンバーとしての任期を終えたジェームズ・モンローはバージニア議会議員になり、バージニア憲法批准会議において代表を務めます。後の第4代大統領ジェームズ・マディソンが連合規約の批准に賛成する一方、ジェームズ・モンローは終始反対します。なぜなら、連合規約には市民の基本的権利を保障する内容がなかったためで、これを受けたジェームズ・マディソンは後に市民の基本的人権を「権利章典」で実現します。
意見が対立したこの一件でジェームズ・モンローとジェームズ・マディソンの関係は分裂してしまいますが、ジェームズ・モンローは反対を続けることでアメリカの憲法を理想的なものにしようとしたのです。アメリカの最も基本と言える市民の自由の権利はジェームズ・モンローが大きく影響しています。
1790年にはバージニア上院議員に選出され、1794年から1797年までは駐仏大使を務めました。この頃、アメリカは険悪だった英仏の両国に対しては中立を維持していました。ジェームズ・モンローは米仏の関係を取り持つことに尽力しますが、英米の関係を安定させるために締結したジェイ条約をフランスが問題視し、それを丸く収められなかったことを理由にジョージ・ワシントンから帰国命令が出されてしまいます。
ジェームズ・モンローは帰国後、ワシントンやアダムズ政権を批判する活動に力を入れ、後の大統領となるジェファーソンやマディソンなどの民主共和党メンバーと共に活動します。ジェファーソンが大統領に就任してからは駐仏特使としてルイジアナ買収を水面下で交渉し、スペイン特使やイギリス特使として外交に携わりました。
バージニア州知事、国務長官、陸軍長官、財務長官などを務めた後の1816年の大統領選で217人中183人から票を集め次期大統領に就任します。この頃には連邦党の勢力はなくなっており、反対派がいない「好感情の時代」になっていました。事実、ジェームズ・モンローは1817年には3ヶ月かけてアメリカ各地をまわる巡行で演説や反対派の緊張緩和などをおこなっています。
大統領の任期を終えてからはバージニア大学などの理事を務めたものの、ほとんど政治の場面には出てこないまま1831年に次女が住むニューヨークで息を引き取りました。最期は同郷で政治的盟友だったジェームズ・マディソンのことを気にかけながら亡くなったとされています。
ポイント1:ヨーロッパとの相互不干渉を説いた「モンロー主義」
ジェームズ・モンローはアメリカがイギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国に干渉せず、干渉させないことを提唱しました。その内容は、双方の紛争に干渉せず、現存の植民地に干渉せず、アメリカ大陸での植民地化を望まない、そしてアメリカに対するいかなる干渉も敵対行為とみなすというものでした。これはモンロー主義と呼ばれ次期大統領のジョン・クィンシー・アダムズによって起草されました。
ポイント2:ミズーリの妥協
1820年、アメリカ国内は奴隷制度廃止派の自由州と支持派の奴隷州がそれぞれ11州ずつに分かれていました。そんななか、ミズーリ準州が奴隷州として州への昇格を申請したためバランスが崩れる恐れが生じます。そこでジェームズ・モンローはマサチューセッツ州の一部だったメイン地区を自由州としてメイン州に昇格させて均衡を保ちました。
ポイント3:奴隷貿易禁止および送還の実施
ジェームズ・モンローはイギリスと共に奴隷貿易を厳しく罰する協定に署名し、奴隷貿易は海賊とみなされ死刑で罰せられることになりました。また、1816年に設立された黒人奴隷をアフリカへ帰還させるためのアメリカ植民協会へ資金援助もおこない、その資金を元にリベリアが作られました。1847年、アメリカから独立したリベリア共和国の首都はジェームズ・モンローから名前をとってモロンビアと付けられました。
まとめ
ジェームズ・モンローは大統領になる以前から独立戦争や外交特使として活躍をした一方で、出身が中流階級だったことで名誉に執着する気持ちが強かった人物とされています。このような性格は辛辣に評価されることがあるものの、アメリカがイギリスやフランスとの関係を清算し、独立した国として歩みを進める転換期を築いた人物と言えるでしょう。
ジェームズ・モンローに関する豆知識
・ホワイトハウスで仕事をしている時に貧相な格好をしていたため事務員に間違われたことがある。
・馬に乗って出かけては市民と会話することを趣味にしていたとされています。
コメント