【日本の災害を考える】首都圏で起きた大規模災害「関東大震災」について

世界の中でも自然災害が多いと言われている日本ですが、首都圏の人口密集地で起き、多くの犠牲者を出した最初の大規模災害とも言われるのが1923年に発生した「関東大震災」です。

「関東大震災」がどのような災害だったのか、そしてその後の復旧で政府や地方自治体がどのような動きをしたのかを振り返ります。


はじめに

日本の災害を考える、第一回のテーマは「関東大震災」です。

「関東大震災発生時」の状況

「関東大震災」が発生する1923年頃の東京はまだ「都」ではなく「東京府」でした。「東京府」の当時の人口は約398万人でしたが、1923年の統計では約12万人減の約386万人にまで減ることとなります。

この東京府の人口のうち、現在の「東京23区」にあたる「東京市」の人口は、「関東大震災」の3年前である1920年度(大正9年)当時、約217万人と、東京府の3分の2程度が東京市内に住んでいたことがわかります。

1923年時点では、電話も一般家庭には普及しておらず、新聞や電報といった活字メディアが中心だったため、当時東京にあった新聞社16社のうち13社が焼失してしまったことにより、メディア全体が麻痺し、首都機能の麻痺にもつながりました。

情報が錯綜し、デマが原因となった事件が起こるなど、震災後も混乱は続いたようです。震災後には防災や被害や避難に関する情報周知の観点から、震災前に試験運用されていたラジオが実用化し、普及しました。

そして「関東大震災後」の1930~40年代にはラジオがメディアの中心的な役割を担い、戦時下の国威掲揚にも利用されることにつながっていったと言われています。

「関東大震災」の被害状況

「関東大震災」は、1923年(大正12)年9月1日午前11時58分に相模湾一帯を震源として発生したマグニチュード7.9の巨大地震でした。

被災したのは現在の東京都、神奈川県を中心に、茨城県や千葉県、静岡県東部までと広範囲にわたっていたと言われています。

死者・行方不明者は約10万5千人と言われており、建物の全半壊・焼失は約37万棟でした。

二次災害として、当時、日本海側にあった台風の影響で強風が吹き荒れ、東京や横浜の市街地で大火災が発生しました。

特に、隅田川近くにあった「旧陸軍被服廠(ひふくしょう)跡」の広い空き地では、「関東大震災」によって避難してきた人々が持ち寄ったの家財道具などが焼けて、その場に集まっていた約4万人のうち、約3万8千人が亡くなったようです。


火災は東京市の約43%を焼失し、完全に鎮火したのは火災発生から40時間経過した9月3日の午前10時頃だったと記録されています。

「関東大震災」での公務員の仕事は?

「関東大震災当時」の公務員の仕事はどのようなものだったのか、国の対応と地方の対応に分けてご紹介します。

「関東大震災」での国の対応について

「関東大震災」は首都圏で発生した災害ということもあり、政府としても大きい被害を受け、対応に追われたと言われています。

さらに「関東大震災」が発生した8日前に、前の内閣総理大臣・加藤友三郎が急死しており、「関東大震災発生当時」は外務大臣の内田康哉が総理大臣も臨時兼務していた状態でした。

そして震災発生後の9月2日になって、山本権兵衛が内閣総理大臣に就任しました。山本氏の就任は8月28日の「大命降下」によって決定していましたが、実際の就任は9月2日であり、ここから本格的に国家公務員のリーダーとしての役目が始まったと言えます。

山本総理下では、「帝都復興審議会」が創設され、道路の拡張や区画整理など、国主導ならではの大規模インフラの整備が進められました。

警察と軍の動き

「関東大震災」の被災者救護と治安維持の第一の担い手であった警察は奮闘していましたが、庁舎の焼失や、電話が途絶えたこと、そしてあまりに大きな被害に対する人手不足のために力及ばず、被災者の批判を浴びることが多かったようです。

当時は警察に機動隊がなかったため、9月3日以降に他の府県からの応援を得るまで人的余裕がなかったため、警察組織のトップである警視総監は早い段階から戒厳令を適用し、「軍」を対応の中心とすることを求めました。

一方、その軍は各部隊の判断で発災直後から救護活動を開始していました。9月2日には周辺からの招致部隊も含めて東京の被災地に部隊を展開したようです。しかし、十分な情報収集や発信ができなかったため、一部で治安悪化など混乱も生じていたようです。

3日以降は他地方の部隊も関東地方招致することができ、戒厳司令部の統制の下で、治安維持のほか、被災者の救護や応急、そして復旧活動に活躍し、存在感を示したと言われています。

海軍については、横須賀方面での救護のほか、艦船を利用した救護者や救援物資の輸送を中心に貢献しました。

「関東大震災」での地域(東京市など)の対応について

「関東大震災」の発生時、被災地の府県や市町村は9月1日の夜から、避難者へ向けた食料の確保と炊き出し、避難所の整備などを進めました。

震災発生当初は区や町村ごとの対応の格差が大きく、また救援物資等の量的に被災者全体に行き渡る対応はできなかったため、住民のボランティア的な活動が果たした役割が大きかったようです。

町内会の役割

「関東大震災」の発生後、東京では9月6日頃から救援物資の配給が組織化され、陸軍が郡区役所まで運搬した物資を郡区役所が配給していました。しかし実際の地域レベルでの被害調査や、物資の運搬、配給の担い手は町内会単位で行われることとなり、町内会が従来設けられていなかった町でも、災害対応のため急遽結成されました。

東京市の動きと、地方からの応援

「関東大震災当時」の東京市の動きについて一部ご紹介します。


東京市の対応としては9月2日から遺体の収容を開始しました。その後、4日には道路橋梁の復旧に着手して、5日から給水をはじめ、7日頃には山手の非焼失地区で水道を復旧したようです。また、し尿や塵芥の処理も7日頃には開始したと記録されています。

東京市によるこれらの作業では地方から来た青年団や、在郷軍人会などの応援団体が果たした役割も大きかったようです。

神奈川県(横浜市)の動き

「関東大震災当時」の神奈川県横浜市の動きについて一部ご紹介します。

神奈川県の横浜市では、在泊した汽船が救護で重要な役割を果たしました。9月5日以降は外国からの救援物資も到着しましたが、地域内の被害状況がより深刻であり、遺体収容が開始されたのは6日、給水や道路橋梁復旧は8日からと、東京よりも時間がかかる厳しい状況だったことがうかがえます。

千葉県の動き

「関東大震災当時」の千葉県の動きについて一部ご紹介します。

千葉県が県南部の房総半島に広がる安房郡の深刻な被害を把握したのは、2日の午後以降だったようです。食料を配給した安房郡役所では食料が底をつき、9日以降は汽船での緊急輸送が行われました。

その他の地方の動き

「関東大震災」では、東京・横浜・千葉県以外の地方でも、郡町村が救護の主体となりました。しかし実際には住民の助け合いによるところが大きかったと言われています。

それでも震災による津波や土砂災害による被害を受けた地域や、深刻な被害を受けた大規模工場では、自治体や住民による十分な対応ができず、軍隊など外部からの救援を待って、対応が本格化した被災地もあるようです。

▼内閣府:防災情報のページ「報告書(1923 関東大震災第2編)」
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html

まとめ

このページでは、日本史上、最も広範囲に大規模な被害をもたらした震災の1つである、1923年発生の「関東大震災」についてまとめました。

「関東大震災発生当時」は、通信手段が現在ほど普及しておらず、政府や自治体の情報収集の困難さも、復旧に多大な影響を与えました。

その中でも、政府や国の組織、地方自治体や住民組織など、それぞれの公務員や住民が奮闘し、深刻な被害の対応にあたった様子がうかがえます。

災害の多い国日本ですが、「関東大震災」は最も多くの死者や行方不明者が出てしまった、広域的で火災や津波、土砂崩れなども併発した、最も大きく恐ろしい災害だったようです。

大正時代に発生した「関東大震災」での被害、教訓は、令和時代の公務員や住民にとっても活かされるべき重要なものだと思います。

災害に備える為に何ができるのか、実際に災害に巻き込まれたらどのように対応するのか、日頃から意識することが必要だと言えます。

本記事は、2019年11月4日時点調査または公開された情報です。
記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。

関東大震災
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