歴史が好きな方に「何時代が好きですか?」と尋ねると、「戦国時代」や「安土・桃山時代」と答えられるケースが多いですね。もちろん、そんな殺伐とした時代の何が楽しいの?と感じられる方もいるでしょう。この時代は小説や映画、大河ドラマやゲームなどの題材に取り上げられることが多く、興味関心が他の時代よりも強いのだと思います。個性豊かな武将たちが多く登場し、ドラマチックな展開をしていくのも魅力の一つなのでしょう。
しかしそんな好き嫌いに反して、この時代から学校の社会の授業や歴史の授業で取り上げられる内容は意外と少ないです。有名なところでは「楽市・楽座」「刀狩り」「太閤検地」でしょうか。戦国大名同士の戦いでは1575年の「長篠の戦い」はよく登場します。1600年の「関ヶ原の戦い」もメジャーですね。高校の歴史では戦国大名の「分国法」なども勉強します。
今回は「戦国大名」が登場する室町時代後期から、「織田信長」「豊臣秀吉」が活躍するまでの時期についてご紹介していきます。皆さんの勉強の参考になれば幸いです。
戦国大名とは何なのか
戦国大名と守護大名の違い
「守護」(鎌倉幕府)→「守護大名」(室町幕府前半)→「戦国大名」(室町時代後半)という使い分けが一般的です。守護と守護大名の相違については以前にご紹介していますので、今回は守護大名と戦国大名の違いについてご紹介します。
室町時代に守護大名の権益は増し、国司や国人を被官として領国の支配体制は強まりました。守護は幕府が任命し、数年ごとに替わるものでしたが、やがて世襲されるようになっていきます。そして守護大名は独立性を強めていくのです。
1467年に「応仁の乱」が起こり、厳しい戦乱の世を迎えることになります。ここから先は実力がものをいう時代です。才覚と軍事力をもった勢力が主家を押しのけていきます。これが「下剋上」です。力を持った者が国を支配できるようになったのです。つまり戦国大名は幕府から守護に任命されているとは限りません。中には守護の補佐役だった守護代もいます。地元の豪族である国人もいるのです。これが戦国大名というわけです。さらに守護大名と異なる点は、支配する領国に決まりがないことです。戦国大名は力によって他国を吸収し、どんどん勢力を伸ばしていけるのです。
戦国大名が生まれた背景
戦国大名が誕生したのは、一般的には1493年の「明応の政変」以降となっています。ここで管領の細川政元が将軍に変わり実権を握ることになります。細川政元に擁立された第11代将軍・足利義澄は、仇である伊豆堀越公方の茶々丸を攻めるように北条早雲に指示し、「伊豆討ち入り」が行われます。こうして伊豆は北条早雲によって支配されていき、その後は相模まで勢力を伸ばしていきます。歴史上最初の戦国大名は北条早雲とされています。
室町幕府で実権を握った細川氏も後継者問題で揺れ、家臣の三好長慶に取って代わられます。第13代将軍・足利義輝は三好長慶の傀儡将軍となりました。もはや実力があれば将軍も管領も関係ない下剋上の時代に突入しています。三好長慶死後、親政を試みた足利義輝は、松永久秀らに殺されました。管領の家臣のそのまた家臣がそこまでの権勢を誇るようになっているのです。室町幕府の権威は完全に失墜しています。権力者の大義名分のための飾りとなっていくのです。
実力主義の時代背景が戦国大名を生んだわけですが、この時期は小氷期であったとも考えられています。日本全体が寒冷化によって不作となりました。特に東日本の被害は大きく、飢饉となっています。少なくなった食料を巡って争いが激化したようです。自分たちが生き残るためにも能力に秀でたリーダーが必要だったわけです。血統や家柄だけの守護大名は淘汰されていくことになります。
織田政権とは何のか
織田信長について
織田信長を知らない方はいないのではないでしょうか。最も有名な戦国大名かもしれません。織田信長の出自は、尾張国の守護・斯波氏の家臣である守護代・織田氏の庶流です。守護代の家臣で三奉行の一人が織田信長の父親の織田信秀ということになります。織田信長は1551年に父親の病死により家督を継ぎますが、尾張を統一したのは1559年になるのです。その間に主家の織田氏を滅ぼし、弟の信勝を誅殺しています。
そして1560年に駿河の大勢力・今川義元を「桶狭間の戦い」で破ると、そこからは破竹の勢いで勢力を伸ばしていくのです。1567年には美濃を支配し、岐阜に改名。足利義昭を奉じて上洛し、六角氏や三好氏などの戦国大名を打ち破ります。しかし足利義昭は織田信長の傀儡将軍であることに嫌気し、武田信玄や浅井長政らの協力を得て「信長包囲網」を画策します。1573年に足利義昭を京都から追放し、ここで室町幕府は事実上滅びたことになっています。さらに織田信長は修羅の如く周囲の敵をことごとく滅ぼし、天下統一に近づいていきました。
織田信長の政策
商業の活性化のために規制を緩和し、自由な取引ができるような金融政策をとっています。これが「楽市・楽座」です。金銀による貨幣経済を促進させ、悪銭と優れた貨幣との価値比率を定めました。これが「撰銭令」です。不必要な関所も廃止し、流通の面でも改善化を図っています。
新しいものへの興味や理解もあり、キリスト教の布教も認めています。1576年に琵琶湖近郊に「安土城」の建設を開始し、1579年に完成させていますが、地下1階地上6階という類を見ない絢爛豪華な城であったとされています。本格的な天守はこの安土城が最初です。
「天下布武」の朱印を1567年より用いており、武力による天下統一の志があったことを示しています。1571年の「比叡山焼き討ち」など敵対勢力には容赦がなく、その苛烈すぎる政策を拒絶し離反や反乱も相次いでいます。織田信長と最後まで同盟を結んでいたのは三河の徳川家康のみです。
織田政権はなぜ終了したのか
1582年3月、甲州征伐で武田勝頼を滅ぼした織田信長でしたが、6月に重臣である明智光秀に裏切られ、「本能寺の変」で自害します。天下統一は目前に迫っていました。明智光秀の謀叛はそれを防いだわけです。謀叛の理由は謎とされています。
甲州征伐と本能寺の変の間の期間に「三職推任問題」があります。これは正親町天皇が織田信長に官職を与えようと働きかけたものですが、織田信長がどのような返答をしようとしていたのかは謎のままです。朝廷は織田信長に、太政大臣か関白か征夷大将軍のいずれか望む官職に就ける予定だったようです。このとき織田信長はそれ以上の位を目論んでいたという説もあります。つまり天皇制を廃止し日本の王となるということです。それが勤王派の明智光秀の謀叛に繋がったというものですが、あくまでも推測の域の話になります。
豊臣政権とは何のか
豊臣秀吉について
こちらも織田信長に負けず劣らずの有名人です。織田信長の家柄が守護代の家臣だったのに対し、豊臣秀吉はさらに下の身分である足軽または農民の出自とされています。そこから知恵と武功で出世を続け、天下を統一するまでになるのです。その働きと活躍ぶりは、現代のビジネスマンにとっても見本とされていますね。
1554年に織田信長の傍に仕えるようになり、1566年には墨俣一夜城で美濃攻略に貢献、1570年には金ヶ崎で同盟国の浅井長政の裏切りによって背後を突かれることになりますが、その殿を必死で務めあげました。数々の功績が認められて1573年に長浜城の城主となり、木下の姓から羽柴の姓に改めます。1582年の本能寺の変に際しては、いち早く戦を切り上げて帰京し、明智光秀を討ちました。
その後の権力争いでは巧みに他勢力を味方に付け、1583年に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒します。1584年には小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れるものの、織田信雄との単独講和を結び、徳川家康と休戦。豊臣秀吉は自らの母を人質に差し出して徳川家康を味方に付けました。1585年に関白に就任。1586年には豊臣姓を朝廷から授かります。1587年に九州征伐、1590年に小田原征伐を行い、天下を統一しました。
豊臣秀吉の政策
豊臣秀吉の施政は戦国時代の終焉を告げるものでした。「惣無事令」では戦国大名同士の私闘を禁じています。これにより戦国大名は勝手な勢力拡大ができなくなりました。「喧嘩停止令」は私的な武力行使を禁じました。「刀狩令」では農民や僧侶から武器を取り上げて一揆を予防しようとしています。暴力による問題解決をすべて封じ込めようとしているのです。惣無事令が制定された1587年を戦国時代の終わりとする見方もあるほどです。
さらに豊臣秀吉は「尺」を統一し、全国一斉に検地を行います。これが「太閤検地」です。その上で税システムを「石高制」に統一しています。こちらは以前までの「貫高制」と異なり、実際の土地面積に経済的事情や政治的事情を加味して算出されています。豊臣政権以降の江戸幕府にも活用され、支配システム確立に貢献しています。
外交的には織田信長同様に諸外国との交易は盛んでしたが、日本人を奴隷として海外に売っている実情やキリシタンによる寺社の破壊などの問題を考慮し、1587年に「バテレン追放令」を出しました。また、1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけにキリスト教の布教活動が国を征服する手段だという報告を聞き、対応が硬化します。1597年には京都・大坂に住む信徒26人が捕縛され、長崎まで徒歩で連行された後に処刑されています。
天下統一後は明国の征服のために朝鮮半島に出兵させています。1592年の文禄の役と1597年の慶長の役です。1598年の豊臣秀吉の死去に伴い兵は撤退しました。豊臣秀吉配下の武断派と文治派の対立のきっかけにもなっています。
豊臣政権はなぜ終了したのか
血縁関係者、一門衆が圧倒的に少ないのが原因でした。豊臣秀吉は五大老・五奉行に実子・豊臣秀頼の後見を託します。しかし文治派の石田三成と武断派の加藤清正らが対立。内部抗争の隙をみて徳川家康は着々と勢力を広げていきます。五大老の前田利家の死去に伴い石田三成は武断派の七将に襲撃され、五奉行を退きました。このままだと豊臣家が滅ぶと危ぶんだ石田三成は徳川家康打倒のために挙兵し、1600年に「関ヶ原の戦い」が起きます。石田三成は敗北し、豊臣家220万石は65万石まで減らされることになりました。
1603年に征夷大将軍に就任した徳川家康は、後顧の憂いを断つべく豊臣秀頼を追い詰め、1614年には大坂冬の陣で激突、1615年には大坂夏の陣で豊臣秀頼を自害させます。これにより豊臣家は滅び、徳川家が将軍を世襲していく江戸幕府に完全に政権を譲り渡すことになるのです。
戦国大名・織豊政権を現代と照らし合せて考察
戦国大名から突出した織田信長が既成の価値観やルールを徹底的に破壊し、その中で豊臣秀吉が天下をまとめました。さらにそれを土台として盤石な長期政権を徳川家康が創りあげます。三人の活躍により、日本は長い混迷の時代を抜けて平和な社会を築くことに成功したわけです。こうして近世封建制の基礎は確立しました。
民主国家にはまだ遠く及ばないものの、能力を持った者が活躍し、地方がそれぞれの特性を活かして発展したことは大きなポイントです。もちろん、そこには多くの犠牲があり、様々な試みがあったことを忘れてはいけません。
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