【頻出歴史問題】人類最初の世界大戦「第一次世界大戦」とヴェルサイユ条約

公務員採用試験の頻出歴史問題「第一次世界大戦」についての解説ページです。1914年に始まり、1918年に終結したヨーロッパが主戦場となった人類史上最初の世界大戦「第一次世界大戦」。なぜこの国とこの国が衝突しなければならなかったのか、その背景を交えて第一次世界大戦とは何だったのかをお伝えしていきます。


第二次世界大戦は日本が積極的に戦ったことから有名な戦いや出来事が多くありますが、第一次世界大戦の主戦場がヨーロッパであったことと、日本はほとんどこの戦いに参加していないため、歴史の授業でも覚えることは少な目になっています。

この時期の代表的な年号の語呂合わせでは、「行くぞいよいよ(1914年)第一次世界大戦」「一句一語(1915年)に中国の怒り爆発、二十一か条の要求」「得意な(1917年)顔のレーニン、ロシア革命」「行く行く(1919年)先はヴェルサイユ条約」といったものでしょうか。

日清戦争が1894年、日露戦争1904年、第一次世界大戦1914年と、なんと日本はちょうど10年ごとに大きな戦争をしていることになるのです。日清戦争が日本VS清(中国)、日露戦争が日本VSロシアということで一カ国同士の戦争だったのに対し、第一次世界大戦は文字通り世界の国々を巻き込む大規模な戦争でした。この戦争の主役は「ドイツ帝国」です。

今回は人類史上最初の世界大戦である「第一次世界大戦」とは何のか、現代に照らし合せて考察していきます。

各国の思惑はどのようなものだったのか?

オーストリア=ハンガリー帝国

第一次戦争は民族紛争でもあります。ヨーロッパの中でも特に不安定だったのが「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた「バルカン半島」です。イスラム系民族のオスマン帝国が衰退していくなかで、スラヴ系民族とゲルマン系民族が衝突し始めます。スラヴ系のセルビアとゲルマン系のオーストリア=ハンガリーの対立です。

1914年6月、オーストリア=ハンガリーの皇位継承権をもつフランツ=フェルディナント大公が、ボスニア=ヘルツェゴビナのサラエボ訪問中に襲撃されて殺害される事件が起こりました。これが「サラエボ事件」です。ボスニア=ヘルツェゴビナは当時、オーストリア=ハンガリーに併合されていました。ここにはスラヴ系民族が多く暮らしており、ゲルマン系のオーストリア=ハンガリーに反発していたのです。直接関与したのはセルビア人でした。オーストリア=ハンガリーはこうしてセルビアに宣戦布告することになります。7月28日のことでした。4年間にも及ぶ第一次世界大戦はここから始まったのです。

ドイツ帝国

オーストリア=ハンガリーと「三国同盟」を結んでいたのがドイツとイタリアです。ドイツはオーストリア=ハンガリーを後押しします。イタリアはオーストリア=ハンガリーとの領土問題を抱えており中立を表明しました。セルビアの独立を支持していたロシアは総動員令を布告します。ロシアと同盟を結んでいたフランスも参戦を表明しました。

ドイツとしてはロシアとフランスを同時に相手にすることになります。しかも東にロシア、西にフランスがあり、ドイツは挟撃される形になるのです。この二正面戦争を想定して軍事作戦を立てたのが参謀総長のシュリーフェンです。先にフランスを叩き、領土が広く移動の厳しいロシアをその後で迎え撃つという作戦で、シュリーフェン・プランと呼ばれます。

ロシア帝国

ロシアの南下政策はバルカン半島に絞られていましたが、ドイツによるロシア南下阻止策・1878年のベルリン条約によって矛先を極東に転換していました。しかし日露戦争が勃発し、ポーツマス条約が結ばれると、極東進出を断念します。そして再びバルカン半島に注目することになるのです。

ロシアは日露戦争時にも反政府運動などが発生し、その弾圧のために血の日曜日事件などが起きていました。農村は頻繁に騒乱が起き、ストライキに参加した労働者は200万人を超えていました。革命運動で殺された民衆はおよそ2万人です。帝政の土台は確実に揺らいでいたのです。そして第一次世界大戦がロシア帝国に引導を渡すことになります。

フランス

フランスにとって宿敵はドイツでした。1870年から行われたフランスVSプロイセンの「普仏戦争」ではフランスは敗北し、自領であるアルザス=ロレーヌ地方を奪われ、多額の賠償金を支払うことになります。プロイセン首相のビスマルクはドイツ統一させドイツ帝国を建国、ドイツ帝国の首相となりました。その後ビスマルクはフランスの復讐を封じるためにフランスの孤立化を図る外交を行っています。


フランスはロシアのシベリア鉄道建設に資金援助し、ロシアと結びつきます。「露仏同盟」です。どちらかが三国同盟より攻撃を受けた場合、援軍を送るというものです。ロシアがセルビアに援軍を送り、オーストリアやドイツと戦争することとなり、フランスも宣戦布告することになります。フランスにしてみればまさに復讐戦です。

イギリス

世界の頂点にいたイギリスでしたが、ドイツがもの凄いスピードで国力高めっていることに懸念していました。イギリスとドイツは海上の覇権を巡って建艦競争を繰り広げていたのです。さらにイギリスはベルギーの独立を支援し、戦争に巻き込まれることになればベルギーを救うと表明していました。

ドイツのシュリーフェン・プランは、ベルギーを通過し、フランスを撃退した後にロシアと雌雄を決するという作戦です。ドイツはベルギーに無害通行券を要求しますが、ベルギーはこれを拒否しました。ベルギーの戦力は質・量で圧倒されており、ドイツ軍に蹂躙されることになります。これをもってイギリスの参戦も確実なものになったのです。

アメリカ合衆国

アメリカは1823年にジェームズ・モンロー大統領が、ヨーロッパ諸国に対して相互不干渉を提唱しました。「モンロー主義」と呼びます。つまりアメリカはヨーロッパが主戦場となる第一次世界大戦に対し中立を貫くつもりだったわけです。

アメリカの第一次世界大戦への姿勢が変わったのは、ドイツの「無制限潜水艦作戦」が開始されてからになります。ドイツはイギリスへの海上補給を封鎖するために、無差別にイギリスへ向かう船を沈めました。その中には客船ルシタニア号も含まれており、雷撃によって約1200人が犠牲になっています。この中には128名のアメリカ人もいたのです。これがアメリカの第一次世界大戦参加の理由となりました。

日本

日本は日英戦争を結んでいるためイギリス側(連合軍側)で戦争に参加しています。成果としては中華民国に攻め込み、ドイツの租借地を押さえました。ちなみにイギリスからの参戦要求に対し、当時の内閣総理大臣・大隈重信が独断で承諾しています。こちらは御前会議を通さなかったことや軍の統帥との折衝も行わなかったということで政府と軍部の間にしこりを残す結果になります。

なお日本は中華民国の袁世凱に二十一か条の要求をつきつけ、ドイツの山東省で保有していた利権を手に入れました。中国の国民もリーダーたちもこの要求に対して反対の意を示しましたが、日本に立ち向かう軍事力が整っていなかったために承諾せざるを得なかったのです。1915年に中華民国の政府はこの要求を受け入れました。日本人を憎む気持ちが高まったタイミングでもあります。

第一次世界大戦とはどのようなものだったのか

戦争の規模はどのくらい?

当初、ほとんどの民衆がこの戦争は早く終わると考えていたそうです。年内のクリスマスには終結しているだろうと危機感を感じていません。軍の上層部はそれに対し厳しい見方をしています。戦争の長期化を予想していたのです。

第一次世界大戦はおよそ4年間続けられています。長い長いとされていた日露戦争でも1年半です。4年間戦い抜くということは想像を絶する世界です。戦死者の数がそれを物語っています。およそ900万人が戦死しました。最も多かったのはドイツの177万人です。全国で兵士ではない非戦闘委員の死者が1000万人にのぼっています。迫撃砲、火炎放射器、毒ガス、戦車、戦闘機といった最新の兵器が登場し、被害者の数を増やすことになりました。

第一次世界大戦が長期化した理由

ドイツはシュリーフェン・プランに従いベルギーを攻め、フランス領に迫りました。一度はイギリス・フランス合併軍を破ったドイツ軍でしたが、ロシアの動きが予想以上に早く東部戦線への派兵も必要になったのです。ドイツ、オーストリアの合併軍はロシア軍を打ち破ります。二正面戦争を余儀なくされたドイツはやはり兵力が不足しています。第一次世界大戦はここから「塹壕戦」に移っていきます。守備側の機関銃の前に突撃を繰り返していたドイツでしたが、損害の大きさから同じく塹壕戦を選択します。塹壕は日々長く掘られ、これが4年間続けられることになります。

1918年3月、アメリカの増援を恐れたドイツは毒ガスを使用し、イギリスとフランスの間隙を縫って前進し、パリ東方100kmまで迫り183発の砲撃を浴びせました。イギリスとフランスは命令系統を一元化することを決め、フェルディナン・フォッシュが総司令官となります。フェルディナン・フォッシュは戦線を再構築し、守りを固めたためにまた長期戦の様相を呈してきました。

5月からついにアメリカ軍が前線に投入されます。その数なんと210万です。ロシアではレーニンによるロシア革命が成功し、ソヴィエト政権が誕生しています。ロシアは第一次世界大戦から離脱し、ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国に生まれ変わったのです。ドイツ帝国も同様に11月革命によってドイツ帝国は打倒されました。こうして長かった第一次世界大戦は終了したのです。

ヴェルサイユ条約とはどのようなものだったのか

ヴェルサイユ条約の内容とは?

敗戦国のドイツに対して宿敵であるフランスは特に厳しかったといいます。アルザス=ロレーヌは再びフランスの領土となりました。ザール地方は国際連盟の管理下になりました。1320億マルクという途方もない賠償金を支払うことになり、軍備の拡大も禁じられています。

このまま滅びてもおかしくはないところまで追い込まれたドイツですが、ヴェルサイユ条約の仕打ちがドイツ人の誇りを傷つけ、その激しい怒りや憤りが再興への力となっていきます。そしてあのナチス、ヒトラーの台頭を招くことになり、再び地獄のような戦争が幕を開けることになるのです。

国際連盟の誕生

ヴェルサイユ条約の講和に規定されており、1920年1月に正式に発足しています。ウッドロウ・ウィルソンアメリカ大統領の提唱した「十四か条の平和原則」を実行・維持する平和維持機関です。列強が常任理事国に選ばれており、イギリスやフランスと肩を並べて日本の名前もそこにはありました。


ちなみにアメリカはモンロー主義などからの反対によって参加しておらず、逆に1926年にはドイツ、1934年にはソビエト社会主義共和国連邦が加盟し、常任理事国となっています。

第一次世界大戦を現代と照らし合わせて考察してみよう

これが世界の列強諸国を巻き込んだ「第一次世界大戦」です。こうなるとどこに正義があるのか定かではありません。各国の思惑のもとそれぞれの敵に向っていきました。多くの犠牲を払ってヨーロッパの君主制はほぼ消滅し、旧世界の秩序は破壊されたのです。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国が解体されました。しかし新しい世界の秩序の構築とはならず、深い悲しみと憎しみがさらに大きな大戦を呼び込むことになってしまうのです。

(文:ろひもと 理穂)

本記事は、2017年8月1日時点調査または公開された情報です。
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