日本が満州事変から引き続き日中戦争を始めた頃、ヨーロッパでも第一次世界大戦で敗北したドイツが危険な動きを見せ始めていました。ドイツがまたもや世界大戦勃発の火種となるのです。
第一次世界大戦と大きく異なる点は、第二次世界大戦には日本も積極的に参戦しているということと、アメリカやイギリスなどの連合国と対峙したということです。日本はこれまで日英同盟などを結び、ロシアの南下政策への防波堤となってきましたが、今回はじめてアメリカ、イギリスと敵対することになります。
戦争のやり方も戦闘機や爆撃機による制空権争いや空爆が激しくなっています。また、無線通信が使用されるようになったことから暗号解読も重要視されるようになりました。さらに最悪の兵器「原子爆弾」が人類の歴史上初めて実戦に投入され、広島、長崎で多くの死者が出ています。
1939年から1945年まで続いたこの第二次世界大戦では、ソビエト連邦で2,000万人以上、ドイツで700万人以上、日本では300万人以上の戦没者がおり、世界全体で8,000万人を超える犠牲者が出た最も悲惨な戦争となりました。
今回はそんな第二次世界大戦の勃発から中盤までについてお伝えしていきます。この時期の年号として試験に出題されるのは、「いくさ苦しい(1939年)第二次世界大戦勃発」「いくよ俺たち(1940年)日独伊三国同盟」「いくよ一気に(1941年)真珠湾攻撃」とあまり数は多くありませんので、ここは押さえておくべきですね。
第二次世界大戦前のヨーロッパの状況はどうだったのか
ドイツ
1919年、第一次世界大戦の敗戦国としてヴェルサイユ条約に調印したドイツは多くの領土を失いました。さらに天文学的な戦争賠償を背負うことになります。輸出製品にも大きな関税を課せられ、ドイツ国民は経済的にとても苦しい暮らしを強いられていました。賠償金の支払いが滞るとフランスはドイツのルールを占領し、工業地帯や炭鉱を押さえます。このことでドイツではインフレが強烈に加速し、マルク紙幣の価値は1兆分の1まで下落しています。
このような第一次世界大戦後のヨーロッパの情勢を「ヴェルサイユ体制」と呼びます。イギリスやフランスはこの体制を維持しようと試みますが、思わぬ邪魔が入ることになります。それが共産主義のソビエト連邦の台頭でした。対抗処置としてドイツは復興の道をたどることになります。1926年には国際連盟への加盟が認められてドイツは国際社会に復帰することになるのです。
ソビエト連邦
ロシア革命後、ロシア帝国は倒れ、ソビエト連邦共産党による一党制の社会主義国家が誕生します。共産主義を封じ込めるべく列強諸国も「シベリア出兵」などを行いロシア革命に干渉しますが失敗。ソビエト連邦の存在は、多くの民主主義国家にとっての脅威となっていきます。
ソビエト連邦は1921年には傀儡国家としてモンゴル人民共和国を設立、1929年には中華民国と満州の権益を巡って衝突をしています。さらに各地の国際紛争に介入し、その存在感を強めていきます。こうした共産主義の動きへの警戒感から「ファシズム」が生み出されることになったと考えられています。
世界恐慌の影響はどのようなものだったのか
ドイツはようやく平穏を取り戻していましたが、1929年にアメリカに端を発した「世界恐慌」によって大きなダメージを負うことになります。他の列強諸国は植民地を囲い込む「ブロック経済」を推し進めることになり、アメリカは打開策として「ニューディール政策」を打ち出しました。ドイツはヴェルサイユ体制により植民地を放棄していましたし、アメリカの資金で潤っていたのが一斉に引き上げられ、失業者が続出しました。
ドイツ国民は再び困窮するようになります。ここで庶民の指示を得て力を伸ばしてきたのが、1919年にドイツ労働者党として組織され、やがて国家社会主義ドイツ労働者党と改名する「アドルフ・ヒトラー」率いるナチスでした。1930年には国会議員選挙で第二党となり、1933年には政権を獲得するところまで急成長を遂げます。ヴェルサイユ体制の打破、反共産主義を掲げるヒトラーは、同年10月に国際連盟を脱退し、ドイツは侵略国としての道を歩み始めることになるのです。
ドイツの進撃はどのようなものだったのか
日本、イタリアとドイツの関係
世界恐慌の被害が大きかったのはドイツだけではありません。高収益の植民地を持たない日本も同じような境遇だったのです。日本は1932年に満州国を建国しますが、国際的な避難を受け、1933年に国際連盟を脱退しました。こうして1936年に日独防共協定が結ばれるのです。日本が中華民国との日中戦争を続けている最中、ムッソリーニのファシスト党が率いるイタリアはエチオピオに侵攻します。1937年には防共協定の輪が広がり、日独伊防共協定が結ばれることになります。
ドイツ、イタリア、日本の三国はより明確に援助し合う条約を結びます。それが1940年の「日独伊三国同盟」です。ドイツは侵攻していくヨーロッパの戦線にアメリカが参戦することを警戒していました。日本との同盟はその牽制であり、さらにソビエト連邦の戦力を東西に分断することもできます。日本としては日中戦争を有利に解決したく、併せてアジアにあるイギリスやフランスの植民地を占領するためにドイツとの結びつきを強くする必要があったのです。イタリアは植民地化で大きく出遅れており、その遅れを取り戻すためにドイツや日本と結びました。
ポーランドへの同時侵攻
イギリス、アメリカ、フランスなどは当初のドイツ・ナチス政権に一定の期待を抱いていたようです。共産主義、ソビエト連邦への防護壁といった役割で、ドイツの再軍備が容認されます。ヒトラーは軍事力を背景にして、1938年にオーストリアを併合します。さらにチェコスロバキアへ侵攻しました。イギリスやフランスは再び世界大戦が起こることを懸念して及び腰でした。戦争をするには莫大な費用がかかるからです。そのため極力、話し合いによる解決を望みます。それがミュンヘン会談です。イギリスとフランスは、チェコスロバキアのズデーテン、ポーランドの一部、ハンガリーの一部をドイツ領とすることを認めました。
ミュンヘン会談でイギリスやフランスが妥協したのには、ヒトラーがこれ以上の領土拡大を求めないという約束があったからです。しかしヒトラーには約束を守るつもりはなく、1939年にはチェコスロバキア全域を占領し、独立したスロバキアを保護国とします。こうしてドイツは次の標的であるポーランドに迫るのです。ドイツはポーランドに侵攻する直前にソビエト連邦と手を結びました。これが「独ソ不可侵条約」です。反共産主義を掲げるヒトラーが共産主義国と協力するというニュースに世界中が震撼しました。
ドイツはすぐに行動に移します。ドイツはポーランドに対し、第一次世界大戦の敗北によって割譲されたダンツィの返却などを要求していました。ポーランドはイギリス、フランスの協力を取り付けて強硬な姿勢を貫きました。アメリカ大統領ルーズベルトもまたイギリス、フランスにドイツに対して強硬な姿勢をとるように要求をしています。
ドイツ軍は150万の兵力でポーランドへ侵攻しました。守備するポーランドは100万の兵力がいたといわれています。そう簡単に征服されるような軍事力の差ではないのですが、ドイツ軍の侵攻と同時にソビエト連邦軍がポーランドに侵攻してきたのです。ドイツとソビエト連邦は密かにポーランドの割譲を約束していました。イギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告するも、二方面からの侵攻を支えきれずワルシャワは陥落、ポーランドは占領されます。このとき成果をあげたのがドイツ空軍の急降下爆撃機です。
ソビエト連邦の進撃はどのようなものだったのか
ソビエト連邦の思惑
ドイツと独ソ不可侵条約を結び、ポーランド東部に侵攻したソビエト連邦の目的は他にありました。それはバルト三国、フィンランド、ルーマニアへ領土を拡大することでした。ポーランドへの侵攻が集結すると、ソビエト連邦はフィンランドへ侵攻を始めます。これによりソビエト連邦は国際連盟から除名されることとなりました。それでも侵攻は続き、1940年にはフィンランドに領土割譲を認めさせ、さらにバルト三国を併合します。ルーマニアに対しても領土割譲を認めさせています。
イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告を行っていますが、実は同様にポーランドに侵攻したソビエト連邦には宣戦布告をしていないのです。ドイツとソビエト連邦の間で結ばれたものが同盟でなく不可侵条約であったということも理由の一つでしょう。互いを離間させることもイギリス・フランスは検討していたといわれています。ファシズムのドイツと手を結び、共産主義のソビエト連邦を撃退するという提案もあったそうです。どちらにせよイギリス・フランスはドイツとソビエト連邦の両方を敵にする余裕はなかったものと憶測されます。結果、優先されたのはイギリスとフランス本国を目指して進撃してくるドイツとなったのでしょう。これによりソビエト連邦はドイツと協力してポーランドに侵攻し第二次世界大戦を勃発させたにもかかわらず、最終的には連合国側として勝利することになります。
ドイツとの交戦
ソビエト連邦がバルト三国に侵攻している間、ドイツは破竹の勢いで進撃していきます。1940年の4月にデンマークとノルウェーを占領。5月にはベルギー、オランダを降伏させます。さらに地下要塞のマジノ線を迂回してフランスを攻撃。連合国側はイギリスに退却していきます。そして6月には宿敵フランスを降伏させ、パリを占拠しました。8月にはいよいよイギリス本土への空爆が始まります。
しかし、ここで思わぬことが起きます。イギリス空軍の反撃に遭い、ドイツの急降下爆撃機が甚大な被害を受けるのです。護衛役の戦闘機の航続距離が不足していたのも原因の一つでした。ドイツは制空権をイギリスから奪うことができず、戦略を見直すことになります。ヒトラーが決断したのは、方針を転換し、ソビエト連邦へ侵攻することでした。1941年6月、ドイツは一方的に不可侵条約を破棄し、ソビエト連邦の領地に侵攻していきます。さすがのソビエト連邦もドイツが攻めてくるとは考えておらず、連合国側の情報も偽りだとして真剣に受け止めていませんでした。そのためにドイツを筆頭とする枢軸国の侵攻を防ぎきれなかったのです。その後、ソビエト連邦は首都であるモスクワまで約20kmという地点まで侵攻されることになります。
日本、アメリカの本格参戦
日独伊三国同盟への対抗策としてアメリカは在米資産を凍結、石油の輸出も禁止します。アメリカ、イギリス、中華民国、オランダによる「ABCD包囲網」が敷かれたのです。1941年12月、日本はアメリカのハワイ基地を攻撃します。「真珠湾攻撃」です。これによりアメリカが日本へ宣戦布告。さらに中華民国も日本に宣戦布告しました。日本の同盟国であるドイツ、イタリアもアメリカに宣戦布告し、枢軸国と連合国に分かれた世界大戦がついに幕を開くことになります。日本では東條内閣の閣議決定により、日中戦争を含むこの一連の戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことになります。ついに日本は世界大戦に本格参戦することになったのです。
文:ろひもと 理穂
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