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公務員の子供に生まれたけど、公務員にならなかった話

蛙の子は蛙、教師の子は教師、公務員の子供は公務員…?世の中には筋書き通りにいかない事もあります。私は公務員の両親の元に生まれながら公務員になりませんでした。そんな人生を歩んでいる自分自身の体験談です。

2017年10月07日更新

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目次
とある街の公務員の両親の元に生まれる
今でも私の中にある理想の女性像の元になった母
母の死を経験してから
結局、蛙の子は蛙?
公務員の子供に生まれたけど、公務員にならなかった話

とある街の公務員の両親の元に生まれる

父は郵便局の保険課勤務

私は、神奈川県のとある街に生まれました。家のすぐ裏は海という環境で、近所に住む人たちは地元出身者がほとんどで二世帯・三世帯で暮らしている家族も多くいました。自営業の家庭も多く、親の仕事を子が継ぎ、長く地元に密着した店舗を営んでいる人も多いです。

父は郵便局の保険課に勤務していました。まだ郵便局は民営化しておらず郵政省が存在していた時代ですので、当時の父は国家公務員でした。私が小さい時には自宅近くにある本局に勤務し、その後県内の色々な郵便局に転勤になりました。私が中学の時に関東地方の他の局へ転勤になり、3年間単身赴任になりました。その後神奈川県内の局に戻り、役職に就く頃になると、横浜や川崎といった、県内でも主要の都市の郵便局に勤務していました。

保険課に所属していましたが、年賀状の季節になると父自らが駅前などの街頭に立って年賀状を販売したり、年末年始の配達を手伝ったりしていました。ですので、我が家はお正月でも父は普通に出勤していました。

地元から離れない父

父はずっと地元で育った人です。結婚後も生まれた実家に母が嫁ぎ、父の両親と父と母の二世帯で暮らしていました。その後、祖父が亡くなり私が生まれ、中学生の時に祖母が亡くなるまで二世帯で暮らしていました。

ちなみに、祖父も郵便局の保険課で勤務している国家公務員でしたが、実は元々実家は戦前、魚屋を営んでいて、祖父も元は腕の良い料理人だったそうです。その後色々あって祖父は公務員になり、祖母と結婚して父が生まれたそうです。

父はまじめで優しく、仕事も懸命にする人でした。変化を好まず、頑固で一度決めたら譲らない事もありましたが、部下思いで、私が実家にいた時には、よく父の部下が家族を連れて遊びに来ていたのを覚えています。

父が定年を迎える1年後に郵政民営化が決まったので、父は1年早期退職をしました。その後は、民営化したかんぽ生命に関連した派遣会社の社員になり、後進の指導や現場の監査を行ってきました。数年勤め上げた後退職し、今も生まれ育った実家に住みつつ、家の裏の海で毎日釣りを楽しむ日々を送っているそうです。

アグレッシブな母

一方の母はとてもアグレッシブな人でした。地方出身で首都圏の大学に進学し、早くから一人暮らしをしていました。いつでも明るく、とにかくポジティブな人で、「疲れた」「辛い」などの愚痴も一切聞いたことがありませんでした。頭の回転も速く、冗談を言うのも上手で、いつでも面白くて楽しい母でした。

母は、小学校の特別支援学級の教師をしていました。大学卒業後から教師として勤め、結婚後も、私を出産後もずっと仕事を続けていました。職員の研修や県の会議は、県内でも横浜などの主要都市で行われる事が多かったので、私が起きる前に出かける事も多かったです。

私は家の近くにある保育園で日中過ごし、夕方同居していた祖母がいつもお迎えに来てくれました。近所の友達も、自営業の家庭の子ばかりで家業を手伝うお母さんが多かったので、近所の友達も一緒の保育園に通う子が多かったです。母は朝出かけ、市内の小学校に勤めていた時には夕方には帰ってきていました。毎日ジャージ姿で原付で通勤し、買い物をして帰って来て、そこから夕食づくりが始まります。手際が良くて料理上手だったので、忙しいのにめったに総菜などを買う事はありませんでした。

休日は父と一緒にスポーツを楽しんだり、家族で美味しい物を食べに行ったり、旅行にも行きました。また、母はとてもおしゃれな人でジャージ姿でもスーツでも、休日でもメイクはバッチリ、ファッションにも気を遣い、いつもきれいなお母さんと言うイメージでした。

とにかく毎日朝から晩まで、常に何でも完ぺきにこなす、かつ明るくて母親としてだけでなく、女性として見てもとても魅力のある人でした。

母が父を引っ張る事もある

父の様に、ずっと地元に住んでいる人の多い地域でしたので、とにかく近所の結束が強い所で育ちました。町内会や自治体の集まりや、お祭りなどの行事も多かったです。

父は自分から人の集まりに参加するタイプではありませんでしたが、そんな父を引っ張っていたのも母でした。母は人の輪に入るのがとても得意だったので、よそから嫁に来た母の方がすっかり地元に馴染んで近所の人とも仲良し、行事や集まりもこなしていました。そんな母が父を輪の中に入れて、近所づきあいも上手くやっていました。

今でも私の中にある理想の女性像の元になった母

結婚しても、子供を持っても働きたい!

私が多分、年長か小学校一年生くらいの時だと思うのですが、何かの機会に実際に小学校で母が働いている姿を見た事があります。その時に「お母さん、カッコいい!!」と思いました。

私も大きくなったら母の様にバリバリ働く女性になりたい、結婚しても子供ができても、かっこよく働ける女性になりたい、とずっと思っていました。この考えは、今でも私の根底にあります。

褒めて伸ばすタイプ

母は色々な事を褒めてくれました。幼少期、好き嫌いが多くかつ食の細い私は保育園の給食はいつも食べられずに泣いていました。それでも母は無理強いせずに見守ってくれました。

年長のある日、保育園で遠足があり、母もお弁当を持たせてくれました。広い公園で思い切り遊んだ後にとてもお腹が空いて、開いたお弁当は彩もきれいでとてもおいしそうで、夢中で食べて、初めて食事を完食しました。青空の下で食べたお弁当はとてもおいしかった事は、今でも覚えています。帰宅して、空になったお弁当箱を見て、とにかく母はいっぱい褒めてくれました。

また、小学校に入って日記をつける習慣ができた私の日記を母が読んだ所、私の書いた文章をとても褒めてくれました。私はそれで自信がついて、日記を書いたり、手紙を書いたり、本を読む事が大好きになりました。学校の勉強も、それで国語が得意になり、中学に入ってから国語が得意な事から英語もすんなり理解でき、英語も得意になりました。

大人になった私は、好き嫌いなく何でも食べられる様になりました。また、英語が得意になった事は、私が進路を選ぶ決め手にもなりましたし、今でも文章を書く事は大好きです。今思えば、思い切り母が褒めてくれた事柄が、その後の自信に繋がっていて、私自身の人生にとってプラスになっている気がします。

もちろん、悪い事をしたら叱られました。滅多に声を荒げて怒られる事はありませんでしたが、人に迷惑をかけるような事をしてしまった時には思い切り叱られました。

生徒さんが家に遊びに来ることもあった

特別支援学級の先生だった母を訪ねて、受け持っている生徒さんが親御さんと一緒に家に遊びに来る事もありました。母が受け持っていた生徒さんは、主に軽度の知的障害を持つ生徒さんや、発達障害があって普通学級と支援学級を通級で通っている生徒さんが多かったと記憶しています。ですので、色々な学年の色々な生徒さんがうちに遊びに来ていました。

生徒さんが遊びに来ても、私はひとりっ子だったからか、学年の違う子供が家にいる環境に違和感を覚えていた事、せっかく休日で母が家にいてくれるのに生徒さんにかかりっきりになってしまうので、母を取られたみたいな気分になってあまり嬉しくなかったのを覚えています。

これは、後から母の友人に聞いた話なのですが、当時は障害を持つお子さんとずっと関わっている保護者の方が、数時間でも良いから一人や夫婦での時間を持ってほしい、と母は思って少しの時間だけですが、生徒さんを遊ばせながら話を聞いたり、生徒さんだけうちで預かったりしていたそうです。

とにかく要領の良かった母

大人になってから母を思い出すと、特別支援学級の先生と言う大変な仕事をしながらも、いつでも完璧に家事もこなしていたイメージしかありません。そして、母はとても要領が良いといいますか、効率よく仕事や作業を進めたり、時間を使ったりするのがとても上手だったのだと思います。

料理もとても得意で、「定年退職後は自分の店を持とうかな」言っていた程でした。料理の手際も良くて、おいしいはもちろん作業も早かったです。また、伯母(母の姉)からは、「あんたのお母さんは全然勉強している所見たことなくていっつも遊んでたのに、そこそこ成績良かった」と聞いたので、要領や手際の良さは母が生まれ持った才能なのだと思います。

母の姿を見て、先生を目指すように

良く、教師の子供は教師を目指すようになる、と言いますが私の場合もそれに当てはまります。とはいえ、直接のきっかけが母と言うわけではなく、自然と憧れる先生に出会い、それが先生を目指すきっかけとなったのですが、すぐ近くに先輩教師である母親がいるので心強い事や、母の親族も教員が多かったので、何となく自分も教員の血が流れているから、教員になるのかな?と意識していた事はあります。

私は中学受験をして、大学が付属している中学に入学しました。中学3年生くらいで何となく、英語の先生になろうかな、と意識しだしたのですが、付属大学には英語関係の学科がなかったので、大学受験をする事になります。せっかく中学受験をしてまで入れて貰った学校でしたが、母に話すと応援してくれて、高校1年生と同時に大学受験の予備校にも通い出し、私は大学受験を目指すことになりました。

母の死を経験してから

高校1年生の時突然母が入院

高校1年生のある日、仕事から帰ってきた母が夜具合が悪そうにしていました。その後嘔吐してしまったので、翌日病院に行きました。すると、胃潰瘍と診断され、入院が必要になりました。

突然母が入院となってしまい、母はできるだけ私に負担をかけないようにと入院中は伯母の所に預けられました。もう高校1年生でしたので、自分の事も自分ではできるようになっていましたが、母としては心配だったのだと思います。入院は短期間で、春休みの間には退院予定でしたので、私も短い間ならと素直に伯母の所でお世話になる事にしました。

そのまま帰らぬ人に…

伯母の所でお世話になってから数日が経ち、母の容態が悪化したので至急来て欲しい、と父から連絡がありました。急いで伯母と駆け付けたのですが間に合わず、母は既に亡くなっていました。

「死ぬような病気じゃなかったのに、どうしてだろう」など、色々な事をいっぺんに考えました。当時の事は、あまりよく覚えていないのですが、とにかく悲しかった事だけは覚えています。

父が再婚し、大学進学を反対される

私が高校3年生の時に父が再婚しました。私は母が亡くなった後も、せめて立派な先生になろうと頑張っていたのですが、多感な時期だったこともあり、継母とどうしてもそりが合いませんでした。

そして、「女は大学に行って無駄に勉強するより、早く家庭に入った方が良い」「仕事ばっかりしている女は生意気で可愛げがない」と言われました。父もなぜか継母に同調しています。私は今まで頑張ってきたことを無駄にしたくなかったのと、教員になりたかったのでもちろん反発をしたら「じゃあ、代わりに学費は出さない」と言われました。当時の私は奨学金を利用するなどの考えも思いつかず、大学進学の道を閉ざされた事で、目の前が真っ暗になりました。

その後私を後目に高校卒業後に大学に進学して、着々と自分の夢を叶えていく同級生たちが羨ましくて仕方なかったことや、何よりもバリバリ仕事をしていた、かっこいい母を否定された事でちょっと荒れてしまいました。とにかく家にいたくなかったので必死でアルバイトをしてお金を貯めて、目標金額に達成すると家を飛び出し、しばらく伯母の所でお世話になりました。この一件から今でも実家とは疎遠のままです。

今でも思う、「もしも母が生きていたら」

もしも、母が元気に生きていたら私も普通に大学に進学し、多分採用試験を受けて合格して、教師になっていたのではないか、と思っています。それ以外にも、「もしも母が生きていてくれれば…」と思う事はたくさんありました。母親となった今でも度々思います。孫の顔を見せてあげたかったですし、出産の時には実家に頼る事ができませんでした。母が赤ちゃんの時の私をどんな風に育てたのかを聞く前に亡くなってしまったので、それも聞きたかったです。周りの自分の実家や母親と仲の良いお母さんたちを見ると、素直にうらやましく感じます。

おそらくですが、毎日忙しく働き、家事もしていたせいで早く亡くなってしまったのではないかと思います。本人は弱音も吐かない人でしたが、気が付かない内に体には負担がかかっていたのだと思います。「太く短く」生き過ぎたので、もしも時間が戻せれば、母をもっと手助けしてあげたり、無理しない様に気遣ってあげたりできたのに、と今でも後悔しています。

いくら願っても死んだ母は戻りませんので、教訓、という訳ではありませんが、私も母親になった今、できるだけ子供たちの為にも長生きできるように、毎日無理はしない様にしています。

結局、蛙の子は蛙?

結局教員免許は取得する

大学進学は諦めた私でしたが、結局社会人になって数年後、通信制の大学に通って大卒資格と教員免許は取得しました。いつか、時間がかかってしまうかもしれないけれど教員になれるチャンスが来た時に慌てない様に、せめて教員免許だけは取得しておこうと思ったからです。社会に出て、色々な事を自分で知るようになってから、通信制大学の存在を知って、通う事ができました。

将来は子供関係の仕事に就きたい

教員免許取得後に結婚し、子供が生まれたので、子育てがひと段落したら、教員免許を生かして働きたいと思っています。とはいえ、正規のルートでここまで生きてきたわけではないので、教員ではなく、せっかく(?)イレギュラーな経験をしたので、これを生かして複雑な環境の中にいる子供たちの力になりたい、という気持ちや、私の母の様に一生懸命働きながら育児をしているお母さんたちの力になりたい、という気持ちがあります。ですので、教員免許を生かして働ける、児童養護施設や学童保育所の児童指導員のお仕事に興味があります。

教員にはなりませんでしたが、頑張って教員免許は取得した事や、このイレギュラーな経験を子供関係の職種に生かして働きたいと考えるようになった事から、結局蛙の子は蛙、私も母の様に教員の血が流れているのかもしれません。

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