「敗北感」「葛藤」…隊員があの日目にした光景 東日本大震災当日の体験談

地方公務員の仕事特集、今回は、特別機動救助隊「スーパーレスキュー仙台」の災害活動についてです。

東北地方太平洋沖地震による東日本大災害は2011年(平成23年)3月11日に発生しました。観測史上最大規模の地震や津波を襲った仙台市で、当時、救助活動に当たった隊員の体験について、うかがいました。


八乙女分署で勤務している、スーパーレスキュー仙台の隊員4名は、当時、それぞれ異なる消防署に勤務されていました。震災当日、実際に体験した貴重なお話をうかがってきました。

岩佐司令補 体験談

岩佐司令補

私は当時、機動救助隊が配備されているもうひとつの消防署であった、若林区河原町にある河原町分署(※)に所属していました。

当日は非番で息子の卒園式に出席した後、震災に遭いました。幸いにも、家族の無事を確認してから出勤できましたが、震災後の状況下で家を出なければいけない事に、「父親として家族のそばにいることができない無力感」を痛切に感じました。

出勤途中、停電のため信号がついていない、建物などが崩れ変わってしまった街の姿は、今まで自分が体験してきた状況とは、全く異なっていました。

職場に出勤した時点では、私は発生する災害として、がけ崩れや建物崩落などを想像し、津波到来は予想していませんでした。実際に最初に行った災害現場は、がけ崩れの現場で、活動を終えて署に帰る途中、渋滞で動けないでいた消防車内で津波が来ているという情報を得ました。その時は「本当に津波?」と半信半疑でした。今泉インター(※)まで水が来ていると聞いても、想像がつきませんでした。

その後、津波の被災現場に入り、仙台東部道路(※)上から見た辺り一面の風景は、水しかありませんでした。普段から見慣れていた田園風景がすべて消えていました。この光景を目の当たりにして、自分ができる事の想像がつかず、強い敗北感を感じましたが「自分たちができる事、可能なことをやろう」と気持ちを切り替え、活動に当たりました。振り返った今でもそう思っています。

救助のための進入場所は東部道路上からに限定され、あの状況で私たちができる事は微々たる事でした。

日暮れとともに見通しが悪化する中、遠くから懐中電灯で照らしてくる人、車のクラクションを鳴らしている人、ずっと叫んでいる人…色々な所で助けを求めている人がいましたが、がれきに阻まれ、思うように救助活動ができず、もどかしさを感じました。

同時に、沿岸部に居住している自分の両親の安否を危惧し、精神的にも心が折れそうな状況下にありました。しかし、特異な状況にも関わらず、通常通りに職務を全うしている先輩方の姿を見ました。

豊富な経験と多くの災害を経験している隊員で構成されている、特別機動救助隊だからこそ、普段通りの活動ができるのだと感じ、自身を奮い立たせ活動に従事しました。その様な非常に厳しい経験や震災の現場で感じた後悔の念が、今日までこの仕事を続ける原動力となっています。

<注釈>
※河原町分署…仙台市若林区にある。若林区は仙台市の南東にあり津波被害を受けた地域。現在は若林区にある六郷分署と八乙女分署にスーパーレスキュー仙台が配備されている。


※今泉インター…仙台市若林区にある、仙台南部道路のインターチェンジ。六郷小学校・中学校にも近く市街地にある。

※仙台東部道路…宮城県亘理郡亘理町から岩沼市、名取市、仙台市(太白区、若林区、宮城野区)をつなぐ高速道路。仙台市の沿岸地域にまたがる道路の為、地震や津波により陥没や浸水など、東日本大震災でも多大な被害を受けた。特に若林JCTの誘導路は、津波によるがれきで埋め尽くされていた。

高橋司令補 体験談

高橋司令補

私は当時、仙台市の中心を管轄している青葉消防署(※)の特別消防隊に所属していました。震災当日は、休日で自宅にいたところ、震災に遭いました。

その後、職場に出勤するため、泉中央(※)から街に南下する道路を通ったのですが、途中車も渋滞し、壊れている建物もありました。「これはしばらく帰ってこれないな、ついに来たな」と思いながら職場につきました。

職場のテレビで津波第一波の映像を見て、唖然としました。管轄が市街地だったので、沿岸部にはすぐに駆け付ける事ができませんでした。

市街地ではエレベーターの閉じ込め、ガス漏れが多発しており、当日は市街地での災害対応に追われたため、私を含めた他の隊員は翌朝に沿岸部の救助活動を行うこととなりました(水難救助隊員は沿岸部での救出活動の為、夜間に出場した。)

翌朝4時半ごろ青葉消防署を出発、沿岸部に向かいました。東部道路上から私の目に映った風景は、津波によって一面が海となっていた状況でした。

通常、出場要請が入ると向かうべき場所の指定がありますが、この時は津波によって海になってしまったすべての場所が活動範囲でした。範囲の広さにためらい、「どう活動を展開すればよいのか」途方に暮れましたが、一歩ずつ前進することを念頭に活動しました。

東部道路上からアプローチして家を一軒ずつ回る事になり、最初に捜索した家は、大型貨物トラックが、家の入口を塞ぐように、斜めに停まっていました。運転席に人は確認できませんでしたが、家の2階から助けを求める声がしました。

トラックの運転手がこの家の2階部分に避難し、一晩過ごしていたのです。早速、東部道路上に設置している救護室まで救出し、次の場所に転戦しました。

その後は、先程と同様な事案、なんとか自宅の2階まで避難した、90歳代女性などの救出活動にあたりました。命からがら一晩過ごされている人が多く、「生きていてよかった」との思いが強くこみ上げました。

当日は、活動範囲や使用できる資機材も限られた状況であっため、「自分ができることを精いっぱいするしかない」と実感しました。

<注釈>
※青葉消防署…仙台市青葉区にある消防署。仙台駅に近くオフィス街や商業区の中にあり、同じ消防署の上層階には仙台市消防局も設置されている。

※泉中央…仙台市北部にある泉区の都市。地下鉄南北線の北側の終点駅でもある。富谷市と隣接している。

鈴木士長 体験談

鈴木士長

私は、宮城野消防署(※)の特別救助隊に所属していました。その日は非番で、外出中に地震に遭遇し、そのまま車で出勤しました。道路はすでに渋滞していたので、消防署に到着したのは夕方で、すでに暗くなっていました。


消防署の事務所に入ると、救助指令が多数流れていました。管轄内の救助要請は消防力を大きく上まわり、その日の夜から明け方まで、夜通し活動を行っていました。

沿岸部では、今まで見たことのない光景を目の当りにして、言葉を失いましたが「やらなければならない」という強い思いに駆られました。

沿岸部での活動が何日か続いて、心身共に疲弊した状態になりましたが、同じ消防の仲間である全国各地からの緊急援助隊が来てくれたことで、勇気と活力を与えてもらい、彼らの存在に助けられました。仲間が全国にいる消防の組織の素晴らしさを、震災の時に痛感しました。

<注釈>
※宮城野消防署…仙台市宮城野区にある消防署。宮城野区は仙台市の北東部にあり、沿岸地域では津波の被害も受けた。

若生隊長 体験談

若生隊長

私は当時、消防局警防課に勤務していました。当日は、自宅で被災しましたが、けたたましい緊急地震速報メールの鳴動と、長時間の大きな揺れに、懸念されていた「宮城県沖地震」の再来を疑いませんでした。

参集途上、市街中心部は雪がちらつき、停電のため信号は機能しておらず、車の渋滞と徒歩で行きかう人があふれている異様な光景の中、スクーターで職場まで向かいました。

職場ではすでに震災対応が始まっており、大規模な災害のため、全国各地の消防隊が緊急援助隊として宮城、岩手、福島県に続々と向かっている状態でした。

私は「緊急消防援助隊」に関する業務を担当していたことから、宮城県内の消防本部や全国から仙台市に参集する活動隊(島根、三重、神奈川、熊本の各県隊)に対する受援対応に従事しました。

当時、職員の中には自分の家族さえ安否が不明の中、活動に従事する者もおり、厳しい精神状況下に置かれ、対応しておりました。大規模な災害になれば、職員自身も被災者となりうる可能性があり、職務とはいえ、家族に寄り添うことができない、それでも、やるしかないのです。

まとめ

未曽有の大災害となった東日本大震災は、救助のプロである隊員の方々でも絶望を感じるほどの光景が広がっていました。

仙台市内の沿岸部での活動の舞台となった東部道路も、盛り土の構造が功を奏して、内部への津波の侵入を食い止めました。今では、災害時の避難場所として、指定されるようになりました。

近年、日本には、また大規模な地震が起きると予想されています。自然災害に立ち向かうために、私たちひとりひとりも、日頃から災害に備えて、できる事をやる事が大切なのだと感じました。

(著:千谷 麻理子)

本記事は、2018年3月8日時点調査または公開された情報です。
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