「公務員」なら押さえておきたい!日本の国歌『君が代』の基本知識

『君が代』は、国際的なスポーツの開幕式やオリンピックの表彰式、学校の式典などさまざまな場所で歌われる「日本の国歌」です。そんな『君が代』がどのようにして生まれ、どのような意味を持っているかご存じでしょうか?

今回は、公務員なら押さえておきたい日本の国歌『君が代』についてご紹介します。


『君が代』とは?

『君が代』は、日本の「国歌」です。国歌とは、国を象徴する歌のことで、国民のアイデンティティー(同一性)の証として重要な役割を果たしています。国歌は、主に国民的な祭典やオリンピックのような国際的行事を始め、学校の入学式や会社の式典などで歌われています。

日本の国歌である『君が代』は、世界一歌詞が短い国歌として知られていて、反対に世界一歌詞が長い国歌は、ギリシャの国歌だといわれています。ギリシャの国歌は、158節まであるそうで、フルバージョンで歌うとおよそ55分もかかります。そのため、サッカーの国際試合などの国歌斉唱では、ショートバージョンで歌われるそうです。

『君が代』の歌詞に込められた意味

『君が代』の歌詞は、「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」というものであることはほとんどの方がご存知かと思います。しかし、その意味までをご存じでしょうか?

ここでは、『君が代』に込められた歌詞の意味を紐解きます。

まず「千代に八千代」とは、「千年、そしてそのいく千年先も」という意味があり、「末永く栄えることを願う」という意味があります。「さざれ石」は、漢字で「細石」と書き、小さな石を意味します。このさざれ石は、岐阜県春日村にある「さざれ石公園」に天然記念物として実在します。

そして、「巌となりて」の「巌(いわお)」とは、ゴツゴツとした大きな岩石を意味し、「さざれ石」が長い年月を経て大きな岩=「巌」となることを意味します。最後に登場する「苔のむすまで」は、「さざれ石が巌となり、その巌に苔が生えてくるまで」を意味しています。さざれ石が巌となるまでは幾日もの年月を必要とし、そこに苔が生えるまで……となると、とてつもない年月が経つことが感じられますよね。

これらの「千代に八千代に」も感じられる長い年月は、すべて頭に登場する「君が代」という言葉にかけられています。「君が代」とは、所説ありますが私たちが暮らす「日本」を意味しているとされており、まとめると「日本が末永く栄えることを願う」という意味となります。

『君が代』には2番・3番の歌詞もある?

『君が代』は、上記でご紹介した1番の歌詞のみを歌うことがほとんどですが、実は2番・3番の歌詞も存在することをご存じでしたか?

正確には、現在の『君が代』には、2番・3番は存在しないのですが、明治時代までは存在していたのです。明治時代の文献や教科書には2番・3番の歌詞が掲載されていて、2番は「君が代は 千ひろの底の さざれ石の うの居(ゐ)る磯と 現はるるまで」、3番は「君が代は 千代ともささじ 天(あめ)の戸や いづる月日の 限りなければ」であったそうです。今では幻と化しており、国歌として認められていませんが、このような歌詞も存在していたのですね。

参照:レファレンス協同データベース
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000018235

『君が代』の歌詞は和歌から作成されている

『君が代』歌詞は、平安時代の詩集『古今和歌集』に掲載されていた和歌が原案だといわれています。作者は、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王に仕えていた木工職人と言われていますが、身分が低かったため「詠み人知らず」と記されていることが多いです。


『君が代』の原案となった和歌は、「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」というものです。この和歌の意味には、「女性が男性に送った恋の歌」や「身近な人の長寿を願う歌」など諸説があります。

ちなみに、和歌の頭にある「我が君」というのは、和歌が作成された平安時代では、「女性が男性を呼んでいる」ことを意味したそうです。もしかすると「女性が思い人である男性の末永い健康を祈る」というラブレターなのかもしれませんね。

その後、「わが君」という歌詞が国歌に合わせて「君が代」に変更されました。

『君が代』を作曲したのは「イギリス人」だった?

日本の国歌である『君が代』は、これまでに大きく分けると2度にわたって作曲されており、初代『君が代』の作曲を行ったのは、イギリス陸軍の軍楽隊長であるジョン.・ウィリアム・ フェントン氏だといわれています。

日本の国歌なのにイギリス人のフェントン氏が作曲するなんて不思議ですよね。なぜフェントン氏が作曲を行ったのかというと、明治2年にヴィクトリア女王の次男であるエディンバラ公アルフレッド氏の来日が決まった際、儀式式典にて国歌を披露しようという案が生まれました。そして、国歌を歌うことを提案したのがこのウィリアム氏だといわれています。その後、国歌を作成するために、イギリス陸軍軍楽隊長であり、薩摩藩の青年に吹奏楽を教えていた経験もあるフェントン氏に作曲を依頼します。

しかし、日本語が分からなかったフェントン氏が作成した初代『君が代』は、日本人の感性には合わずそう広くは伝わらなかったそうです。その後、明治9年に初代海軍軍楽隊長の長倉彦二氏が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂ノ儀」と題した上申書を提出したことをきっかけに初代『君が代』の改訂が検討されます。

そして、現在の『君が代』が明治13年に誕生します。現在の『君が代』は、宮内省雅楽課が作曲したものを、ドイツ人の音楽教師であるフランツ・エッケルト氏が編曲しています。

このように「日本の国歌」と言うと「日本人によって作られたもの」を想像してしまいますが、実はこれまでに外国人の方の手も加えられているのです。

『君が代』が歌われていない時代もあった

明治13年に現在の『君が代』として完成して以降、さまざまな場面で『君が代』は歌われてきました。第二次世界大戦までは「国歌平安の歌」として、「天皇陛下が統べる国はいつまでも栄えるように国民が祈っている」と教科書に記載されることもあるほど、親しまれていました。

しかし、第二次世界大戦が始まると、『君が代』は「天皇を称える歌」として「軍国主義」の象徴となっていました。戦後には、そのことをGHQ(連合国総司令部)が指摘し、日の丸の掲揚禁止とともに、『君が代』を歌うことを禁止しました。

『君が代』を歌うことを制限されている期間、日本国憲法の普及活動の一環として、憲法普及会が『われらの日本』を選定し、国歌として歌われることもありました。GHQによる制限は1年ほどで解除されますが、国民のなかでは「天皇を称える歌と解釈できる」として『君が代』に代わる新たな国歌の作成を求める意見も上がっていたそうです。

こうした意見に対して、当時の政府は、「天皇を称える歌」ではなく「我が国=日本の末永い繁栄を祈る歌」であるとの見解を述べています。

『君が代』が正式に国歌と定められたのは1999年?

『君が代』は、明治2年に作成されて以降、さまざまな式典などで国歌として歌われていました。

しかし、『君が代』が正式な国歌として定められたのは1999年になってからです。それまでは「事実上の国歌」として慣習的に斉唱されていましたが、1999年に「国旗及び国歌に関する法律」として法制化されたことで「正式な日本の国歌」として定められたのです。

まとめ

今回は、『君が代』についてご紹介しました。日本の国歌として、日本人ならば誰しも知っているであろう『君が代』が、実は外国人の手を借りて作成されたものであることを意外に思った方もいるかもしれませんね。


今後、さまざまな場面で『君が代』を斉唱する場面があるでしょう。その際に。ここでご紹介させていただいた豆知識が、あなたの役に立てば幸いです。

本記事は、2018年5月24日時点調査または公開された情報です。
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