アメリカ大陸のほぼ中心にあるネブラスカ州は平坦な大地と静かな川が流れる穏やかな土地です。開拓時代にはアメリカンドリーマーと呼ばれる人が初めて誕生した場所としても知られています。その背景にもネブラスカ州の平坦で広大な土地が関係しています。
近年では日本との結びつきも強く、ニューヨークなどの都市圏を走る地下鉄の車両を製造している川崎重工業や、キューピーなどがネブラスカ州に拠点を構えており、日本はネブラスカ州への最大の投資国です。今回は日本とも結びつきが強いネブラスカ州について歴史や経済なども含めてご紹介します。
ネブラスカ州の特徴
2018年時点でのネブラスカ州の総人口は約192万人です。1990年以降、一年間で2万人程度の割合で人口が増え続けていますが、他州と比較して伸び率は緩やかと言えます。この地で開拓が始まった1840年頃は交通網の発達、治安の良さ、広大な土地などが話題を呼び、爆発的に人口が増えた場所でした。
ネブラスカ州の大半は「グレートプレーンズ(Great Plains)」と呼ばれる台地上の大平原になっています。グレートプレーンズはロッキー山脈を源流とする河川によって形作られ、1万年以上前に五大湖周辺の土壌が風で運ばれ堆積し肥沃化しました。これにより、農作物の栽培や放牧に適した場所になったのです。
この農作物に適したグレートプレーンズは、後にアメリカ政府の政策と開拓者達によって大きな成功を生むことになります。恵まれた土壌は現代においても州の主産業であり続けアメリカの農業の根幹になっていると言えるでしょう。
ネブラスカ州の東側にはアイオワ州とミズーリ州が面しており、これらの地から多くの開拓者が西を目指しました。また、東の土地を追われたインディアンたちも西へ逃げる際にネブラスカにやってきました。一見は平坦に見えるネブラスカの土地ですが、突如として断崖絶壁が現れる場所でもあります。
なかでも「スコッツ断崖」は西を目指す人たちをすべて返り討ちにしたとされるほどの絶壁で、開拓者もインディアンもネブラスカを突破することは難しく、大変な労力をかけて遠回りせざるを得なかったとされています。いまでこそ観光地化されている多くのネブラスカの断崖は多くの人を苦しめた場所でもあったのです。
ちなみに、ネブラスカ州の東側に面しているミズーリ州は開拓者たちにとって西を目指す際の出発地だったことから「西への玄関口」や「西への出口」というニックネームがあります。しかし、ネブラスカ州の断崖で行く手を遮られるため、ネブラスカ州こそが本当の「西への出口」とする声もあり、同州の観光標語にも採用されています。
ネブラスカ州を代表する有名人のひとりが第38代大統領のジェラルド・フォードです。1974年にリチャード・ニクソン大統領が民主党本部への不法侵入と盗聴に関与していた(ウォーターゲート事件)責任をとって辞任した際に、ジェラルド・フォードが副大統領から昇格するかたちで大統領に就任しました。
このことは「大統領選を戦わずして大統領に就任した」ことを意味しており、アメリカの歴史のなかでも唯一のケースです。1976年、ジェラルド・フォードは現職大統領として次期大統領選に挑みますが、民主党のジミー・カーターに敗れます。これにより、一層「偶然に大統領になった人物」と揶揄されるようになりました。
ただし、人物像や人柄は極めて誠実で実直な人物だったとされています。ニクソンのスキャンダルの火消しに奔走し、中国や当時のソ連との関係正常化に尽力し、1974年には現職の大統領として初めて日本を公式訪問し昭和天皇と面会したほどです。翌年には昭和天皇をアメリカに招くなどして各国との連携を強めた功績があります。
このようにネブラスカ州は農業に最適な土地に恵まれ、多くの開拓者によって繁栄してきた場所です。また、ネブラスカ州出身のジェラルド・フォードは日本とも親交を深めた人物として知っておくといいでしょう。
ネブラスカ州の歴史
ネブラスカ州は、1867年に37番目の州として準州から昇格しました。1541年にスペイン探検家のフランシスコ・ヴァスクエズ・コロナドがネブラスカを含む中西部を訪れたことが白人と先住民族との初めての交流とされています。彼らはこの土地をスペインの領土であることを主張しますが、スペイン政府は植民地を作る気がなかったため、フランス領土(ルイジアナ)になりました。
1803年にはアメリカ政府がフランス政府からルイジアナ(現在の15州分の土地)を買収し、ネブラスカはアメリカのものになりました。その後は、街道の整備や鉄道が作られ次々と開拓者がネブラスカにやってきます。1700年代後半には既にフランスやスペインが交易を始めており、その拠点が街の基礎になっていきました。
ネブラスカでは1822年に毛皮の交易会社が設立され、ベルヴューと呼ばれたその場所がネブラスカ最初の街とされています。そこは州を代表するプラット川の河口に近く、物流の拠点として急激に栄えていきました。プラット川の流域は西部開拓の拠点となり「西への玄関口」となったのです。
1862年、アメリカ政府は「ホームステッド法」を成立させます。この法律は21歳以上の市民で、公有地を5年間耕作すればその土地を払い下げするというものでした。つまり、5年間農業を行えば土地が手に入るということから、広大な土地があったネブラスカには多くの人が詰めかけました。
この法律を活用してアメリカンドリームを叶えた人物こそダニエル・フリーマンです。ダニエル・フリーマンはホームステッド法が有効になってすぐにネブラスカで農業を始め、広大な土地を自らのものにしました。現在でも最初に手がけた農場が現存しており、ホームステッド法はダニエル・フリーマンに限らず多くのアメリカンドリーマーを生み出しました。
ホームステッド法によってネブラスカでは農業以外にも牛の放牧もおこなわれ、開拓者が生活を送りやすい環境が整っていきました。穏やかな気候も手伝って人口が増えていくなか、アメリカ南部の奴隷制度や差別を嫌った黒人が同州最大都市のオマハに集まり始めます。オマハではふるくから公民権運動が実施されていましたが、職を奪われるわけにはいかなかった白人は黒人を排除しようとしました。
1912年、黒人たちはオマハやネブラスカでの自分たちの境遇を改善するために「全米黒人地位向上協会オマハ支部」を設立します。この活動は現在でも続いており、農業やアメリカ中西部における黒人差別をなくすことを目標にしています。
このようにネブラスカの繁栄は開拓時代の「ホームステッド法」が大きく起因していると言えます。また、歴史が長い農業がが現代でもネブラスカを支えているのです。
ネブラスカ州の政治情勢
ネブラスカ州では2012年、2016年の大統領選でいずれも共和党を支持しています。歴史的にも共和党を支持し続けている背景があり、1964年に一度だけ民主党候補を選んだ以外は常に共和党が勝利しています。
アメリカ50州のなかで唯一の「一院制」を採用しており、上院と下院が存在しない議会であることが特徴です。また、州議員はどの政党にも属さないことが建前として存在します。
ネブラスカ州の経済
2018年時点、ネブラスカ州の失業率は2.7パーセントです。リーマンショック以降ですら4パーセント代だったため社会情勢に影響を受けない職が多いことが特徴と言えます。失業率の低さでは全米でトップクラスで、その背景には多くの州民が安定した農業に従事していることが関係しています。
州内には日系企業も多く進出しており、バイクなどの製造を手がけるカワサキの工場があります。カワサキは1974年に同州に初めて車両組み立て工場を開設した外資系企業として注目され、現在でも1,200名以上を雇用し経済に貢献しています。
ネブラスカ州の税金
2018年時点、ネブラスカ州の消費税は6.89パーセントです。連邦税が5.50パーセントで、地方消費税の平均が1.39パーセントです。また、所得税は4段階の累進課税制を採用しており、固定資産税は原則すべての対象物が課税対象になります。
ネブラスカ州の銃や薬物問題
ネブラスカ州では医療目的でも娯楽目的でもマリファナは禁止されています。しかしながら、西に隣接するコロラド州では全面的に解禁されているため、マリファナを楽しむために同州を訪れる人が多いとされています。
ネブラスカ州では銃の購入時にはバックグラウンドチェックが義務付けられていますが、州民10万人に対する銃事件の犠牲者は9名とやや高い数値です。そのため銃への取り組み格付けでは「D」グレードとされています。
ネブラスカ州の教育または宗教事情
ネブラスカ州の教育水準は国内で9番目に高いとされています。その理由に高校卒業率が高いことや、識字率、貧困層の学力の高さなどが影響しています。また、インディアンの子孫が通える学校や、それをサポートする制度も充実しており、州民に平等に教育が行き届いています。
ネブラスカ州ではキリスト教が最も多く、次いでカトリックが30パーセントほどを占めています。無宗教と回答する人は9パーセントと他州よりも低い数値です。ドイツやアイルランド系の白人が多いためカトリックの文化が根強いことも特徴です。
まとめ
ネブラスカ州は、開拓時代には実質的な「西への玄関口」だったことや、ホームステッド法により多くのアメリカンドリーマーが誕生した場所です。ネブラスカ州にとってホームステッド法が大きな転機になったことは間違いないでしょう。
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