刑務官も人の子
刑務官も人の子です。受刑者のひと言で傷つくことだってあります。その中の代表的なものが「たかが看守のくせに!」。これは「牢番野郎!」とともに刑務官が耳にしたくない言葉の双璧ですが、いずれも刑務官を下等公務員としてさげすむ言葉です。警察官を「権力の犬」などと呼ぶのと似ています。国家権力を背景に実力を行使する者に対する対抗心とか嫌悪感が背景にあるのでしょう。
私自身が直接受刑者からこのような言葉を浴びせられた経験はありませんが、これらの言葉に深く傷ついた同僚や部下をたくさん見てきました。そして義憤のようなものも感じてきました。
刑務官と受刑者の言い争い
確かに刑務官は高卒相当の試験に合格して採用されますので、大卒相当の難しい試験に合格して霞が関の省庁に採用されるような高級公務員ではありません。
しかし罪を犯した受刑者にこき下ろされるいわれはない。「たかが看守とは何事だ!」、「牢番野郎だって? 単に番をしているわけじゃない!」などと思いは巡りますが、今一つ彼らをギャフンと言わせてスッキリするような妙薬に巡り合うことはできませんでした。
「何を言うか。この懲役野郎!」と言ってやったと鼻息を荒くしていた刑務官もいましたが、目くそ鼻くその類のような気がして、これもどうかと思います。同じ土俵に上がってしまっていますし、「懲役野郎」と言われたと受刑者から不服申立てがなされたら叱られそうな気もします。
うまく言い返せないような「口撃」も
受刑者の中にはもっと高尚な(?)「口撃」をする人もいます。
「てめえら看守はよぉ、俺たちのような奴がいるからメシ食えるんだろうが。でかい顔すんじゃねえよ!」
「お前らは公僕っていうんだろ? 公僕ってぇのは奴隷のことじゃろうが。国民の奴隷だ。俺だって国民だ。ご主人様だ。奴隷がふんぞり返ってるんじゃねえよ!」
なかなかインテリな物言いです。
彼らが言うとおり、犯罪者がいてこそ刑務官がある。そのとおりです。これには反論が難しい。だからこそ、そうやって開き直られた刑務官の血圧は上がったままなかなか下がりません。面白くない。
一概に間違いだとも言えない辛さ
「公僕」説に至っては刑務官が奴隷で自分たち受刑者がご主人様だと言っています。幾らなんでも言い過ぎの感じがしますが、受刑者だって少なくとも消費税は払っていたでしょうから、一概に間違いだとも断定しにくい。だからそう思った刑務官はうまく言い返すことができません。
刑務官は「国民全体の奉仕者」
ともあれ、こうやってけちょんけちょんに言われまくる刑務官です。それが気になっていた私は、刑務所の幹部になった時、この種の言葉の洗礼を受けて落ち込んでいる刑務官に対して、我々は国民全体の奉仕者だということを繰り返し話しました。
「国民全体の奉仕者」とは、刑務官が採用された時の宣誓文にも書いてあるのですが、要は一部の国民ではなく、国民全体に奉仕するのだという所がポイントです。国民一人一人全員に奉仕するとなると、受刑者が言うように受刑者もご主人様になってしまいます。しかし違うのです。
守るべきご主人様は「健全な考えを持つ国民」
国民全体に奉仕する。言ってみれば圧倒的多数の健全な考えを持つ国民に奉仕するわけです。受刑者はこれらの人たちに危害を加えた人です。そのような人たちに刑務官は奉仕しない。むしろ受刑者たちに厳しく刑を執行してほしいという国民をご主人様として、それに仕える。そういったことを話したのです。そしてそれは私自身に対する言葉でもありました。この1点をしっかり意識していないと思考が混乱してしまいます。
刑務官の使命、誇りが見えてくる
そして、このような視座を持てるようになると刑務官の使命とか誇りといったものもくっきりと見えるようになるようです。つまり、刑務官は罪を犯した受刑者をしっかりと収容して、その間「国民全体」が犯罪被害に遭わないように守り、同時に、受刑者たちに再犯防止に向けた教育などをして、出所後も「国民全体」が彼らから危害を受けることのないようにする。それが刑務官の使命なのだということが浮かび上がってくるように思うのです。
刑務官の目の前には受刑者しかいませんが、その心の中には受刑者から守るべき「国民全体」がいる。それがはっきりと自覚できるようになると、その刑務官は、自分は受刑者から「国民全体」を守り、安全な暮らしを提供するために働いているのだということで仕事に誇りが持てるようになります。
そして、「たかが看守」とか「牢番」と言われても動じなくなります。できるだけ早く、一人でも多く、刑務官がそのような使命感と誇り・矜持を持てるようになってほしいと思っています。
(小柴龍太郎)
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