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アメリカの大統領 第4代 ジェームズ・マディソンについて

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目次

はじめに

1809年から1817年までアメリカ合衆国第4代大統領を務めたジェームズ・マディソンは「アメリカ合衆国憲法の父」として広く知られている人物です。ジェームズ・マディソンは、合衆国憲法の批准を推進するために書かれた論文の「The Federalist Papers(ザ・フェデラリスト)」の著者でもあります。

一方でイギリスに宣戦布告をした大統領としても知られ、その評価は二分されていることが特徴です。今回はアメリカ憲法制定の中心人物でありながら厳しい目も向けられているアメリカ合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンについて解説します。

「ジェームズ・マディソン」のプロフィール

ジェームズ・マディソンは合計8年間大統領職を務めた以外にアメリカ合衆国憲法の3分の2以上を、さらにその憲法を批准させるために85編にもわたる連作の論文を書き、現在にも続くアメリカ合衆国憲法の基礎を築いた人物です。このような功績から「アメリカ憲法の父」や「アメリカの父」などのニックネームがあります。

ジェームズ・マディソンは初代大統領のジョージ・ワシントンや第3代大統領のトーマス・ジェファーソンらと密接な関係を築いて政治活動に携わりますが、イギリスから独立した後のアメリカ政府には権力を集中させることなく、均衡や平等、そして抑制が必要であるという信条を持ち続けていました。この信条こそが後のアメリカの「連邦政府と州政府」という仕組みに繋がります。

ジェームズ・マディソンは先代の大統領トーマス・ジェファーソンの右腕としても働き、フランスに駐在していたジェームズ・マディソンに頻繁に手紙を送りアメリカの情勢を伝えていたとされています。また、トーマス・ジェファーソンからは「弟子」のように可愛がられ、連邦政府に集中しつつあった権力を阻止するために民主共和党を設立しました。

トーマス・ジェファーソンとジェームズ・マディソンらの政治思想と行動によってアメリカは連邦政府と州政府による均衡を保ち、市民の自由を守る仕組みが築かれました。当時のアメリカ政府は近代ヨーロッパのように貴族制度を維持した強力な連邦政府を目指していましたが、ジェームズ・マディソンの信条の通り、均衡と抑制がある政府が作られたのです。

ジェームズ・マディソンは自らの信条を合衆国憲法にも込め、さらにアレクサンダー・ハミルトン、ジョン・ジェイらと共に「ザ・フェデラリスト」を執筆し、アメリカ政府の仕組みや憲法の解説をしました。

「ジェームズ・マディソン」の経歴

ジェームズ・マディソンは1751年にバージニア植民地で生まれます。12人兄弟の長男で、両親はタバコ農園を経営しその地域では一番の土地と資産を保有していた裕福な家庭でした。幼い頃のジェームズ・マディソンは病弱ながら勉強家で、ラテン語、古代ギリシア語、哲学、数学などを学び1769年に現在のプリンストン大学へ進学します。

1776年から1779年にかけてバージニア邦議会議員を務め、トーマス・ジェファーソンと出会います。この頃にバージニア信教の自由法を起草し、次第に名声を得るようになりました。1780年には大陸会議のバージニア代表の一員になり、独立に向けて議会の均衡役として貢献します。この時の活躍が評判を呼び、1784年には再びバージニア邦議会議員に選出されました。

アメリカが独立を果たした後、13植民地それぞれの不和やそれぞれをまとめる連合規約の脆弱性を指摘し、新しい憲法を作ることを訴えるようになります。1787年、各植民地の代表者が集まったフィラデルフィア憲法制定会議では連合規約の改定だけが想定されていましたが、ジェームズ・マディソンが起草した三権分立やバージニアプランが基礎となり、新たにアメリカ合衆国憲法を制定することで決着しました。

1787年のフィラデルフィア憲法制定会議は現代でもアメリカ史で最も重要な出来事と考える歴史家は多く、なかでもジェームズ・マディソンが起草したものが基礎となったことは特筆されるべきことでしょう。後に連邦政府と州政府それぞれが均衡を保ち、州政府の誤りはアメリカ合衆国最高裁判所が裁くという形が築かれたのはジェームズ・マディソンの信条に基づいているのです。


1803年、国務長官を務めていたジェームズ・マディソンは、トーマス・ジェファーソン大統領と共にフランスから広大な土地を買収したルイジアナ買収を成功させます。1808年の大統領選ではトーマス・ジェファーソンの片腕としても評判だったことや、これまでの功績が評価され次期大統領に就任します。

1812年、イギリスとフランスの争いが絶えないなか両国に対して中立を保っていたアメリカでしたが、イギリス軍がアメリカ商船を拿捕したり攻撃するような事態になっていました。また、アメリカ国内では土地を巡ってインディアンによる武力行使が続き、これを煽動しているのがイギリスという噂が流れ始めます。

海と陸で起こった非常事態を重くみたジェームズ・マディソンはイギリスに宣戦布告し、米英戦争(1812年戦争)が始まります。アメリカ商船を守ることと中立を維持すること、そしてインディアンを操らないことを理由に始めた戦争でしたが、この戦争の際にはイギリス軍から追われたジェームズ・マディソンは命からがらワシントンD.C.から逃げ出す事態になりました。

この戦争によって貿易の道が閉ざされたアメリカでしたが、結果的に自国生産が盛んになり、経済的な自立だけでなく文化や精神もイギリスから独立を成し遂げたと言われています。1817年に大統領を辞めてからはバージニア大学の2代目学長、代議員などを務め1836年にこの世を去りました。

ポイント1:アメリカ合衆国憲法の父

生涯にわたって「偉大なる立法者」と呼ばれたほどアメリカ合衆国憲法の基礎を作ったことは大きな功績とされています。またジェームズ・マディソンらが書いた「ザ・フェデラリスト」はシンプルで明確な文面で現在でもアメリカの憲法を理解するうえで使われている名作です。

ポイント2:イギリスに宣戦布告した大統領

「不要な戦争だった」と言われる米英戦争ですが、後にアメリカが経済と精神の面でイギリスから独立を果たした機会とされ、第二次独立戦争とも呼ばれています。ジェームズ・マディソンの決断は賛否両論あるものの「本当の独立」を作った決断だったという見方が多いのも事実です。

ポイント3:トーマス・ジェファーソンと築いた民主共和党

ジェームズ・マディソンが他者よりも長けていたことは政治への信条とされています。連邦政府の権力集中を阻止し、市民の自由を保障したことは現代にも続くアメリカの政治基盤です。トーマス・ジェファーソンと共に築いた民主共和党は後のアメリカ政府に大きな影響を与えることになります。

まとめ

ジェームズ・マディソンはアメリカ合衆国憲法を作った主要人物とされている一方で、国務長官時代からトーマス・ジェファーソンを支え様々な功績を残した人物です。また、大統領としてはイギリスから本当の独立を果たしたきっかけを作った人物として評価されています。

ジェームズ・マディソンに関する豆知識

・ジェームズ・マディソンの肖像画は5,000ドル紙幣に採用されていました。(現在は廃止)
・大統領夫人を指す「ファーストレディー」はジェームズ・マディソンの妻であったドリー・マディソンが「第1級のような素晴らしい人」と評されたことが始まりとされています。

本記事は、2019年1月9日時点調査または公開された情報です。
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公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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