アメリカの大統領 第20代 ジェームズ・ガーフィールドについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第20回目は、第20代大統領を務めたジェームズ・ガーフィールドです。ジェームズ・ガーフィールドは、大統領就任後わずか6ヶ月で暗殺されてしまった人物として知られています。

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はじめに

アメリカ第20代大統領を務めたジェームズ・ガーフィールドは大統領就任後わずか6ヶ月で暗殺されてしまった人物として知られています。エイブラハム・リンカーンに次いで暗殺された二人目の大統領であり、仮に存命していれば議会によって奪われた大統領の権限を取り戻すことに大きく貢献していたとされる有望な人物でした。

今回は1881年3月から同年9月まで大統領を務めたジェームズ・ガーフィールドについて解説します。

「ジェームズ・ガーフィールド」のプロフィール

ジェームズ・ガーフィールドはオハイオ州で生まれ、極めて貧しい家庭環境で育ちました。生まれた時から大柄で、母親は「赤いアイルランド人」と表現するほど特徴的な子どもだったとされています。

ジェームズ・ガーフィールドは生後9ヶ月で歩き始め、3歳のときにはすでに読書を始めていたとされるほど早熟な子どもでした。1歳5ヶ月の時に地元ではレスラーとしても知られていた父親が他界し、家族は借金返済のために家を売却したため一層貧しい生活を強いられるようになりました。

16歳になるまで夏は農場で働き、冬は学校へ通う生活を続けて自らの学費を工面しました。その後は学校を退学して船員になるも、体が弱いことを理由に数ヶ月で退職します。再び教育の場に戻ったジェームズ・ガーフィールドは教育を受けることと、教えることの重要さを悟り、生涯にわたって教育に携わる決意を持ちました。

20歳の時、現在のハイラム大学に進学したジェームズ・ガーフィールドはギリシャ語やラテン語を学びながら、自らが教鞭をとることもあったとされています。さらに、校舎の隣りにあった教会で説教をする活動も始めました。1858年にはルクレティア・ルドルフと結婚し、後に5人の子どもに恵まれます。

結婚の翌年にはオハイオ州議員に選出され、さらに翌年には弁護士として活動を始めるようになります。南北戦争では北軍に従軍しますが、1863年に下院議員に選ばれて政界へ復帰します。1880年の大統領選には共和党候補として出馬し、資金力に勝る民主党のウィンフィールド・スコット・ハンコックに勝利します。

大統領にまで昇りつめたジェームズ・ガーフィールドを待ち受けていたのは、大統領よりも議会が幅を利かし、汚職まみれの腐敗した政界でした。

「ジェームズ・ガーフィールド」の経歴

1831年にオハイオ州で生まれたジェームズ・ガーフィールドは自身の生い立ちを、生まれてから17歳まではどのような刺激的な出来事からも影響を受けることがなかったほど混沌とした環境だったと振り返っており、周囲の人たちの17年間とはかけ離れたものだったとしています。それほどまでに貧困で過酷な家庭環境だったとされています。

教育を受けることと教えることの重要性を知ったジェームズ・ガーフィールドは、19歳のときに洗礼を受け、使徒教会が設立した研究所(後のハイラム大学)で本格的な教育を受けるようになります。

ここでは学ぶ傍らで教鞭や説教活動に尽力し、次第に多くの人に雄弁さや弁舌な人物として知れ渡っていくようになります。1857年から1860年までは同研究所の所長を務めるまでになり、教育活動に専念しました。この時の活動が後の弁護士、そして政治家としての道を切り開くことに繋がります。


1859年にはオハイオ州議会議員に選出され、1860年には弁護士としての活動を開始します。共和党議員として非常に熱心だったことから多くの人から慕われるようになります。議員そして弁護士として活躍し始めるとすぐに南北戦争が始まり、ジェームズ・ガーフィールドはオハイオ義勇軍(北軍)に従軍し、ミドル・クリークの戦いなどの勝利に貢献します。

ジェームズ・ガーフィールドは南北戦争終結前に退役し、1863年に連邦下院議員として政界に復帰します。復帰してからは1878年まで地元からの厚い支援を受けて2年ごとに当選し続けました。

1872年にはユリシーズ・グラント政権を揺るがした鉄道利権を巡る汚職事件(クレディ・モビリエ事件)の容疑者のひとりとして名が上がりますが、議員辞職するまでには至りませんでした。ジェームズ・ガーフィールドが連邦下院議員だった時代にはすでに政府は腐敗しつつあり、大統領よりも議会の方が強い構造が出来上がっていました。この背景には様々な産業発展による独占主義と政治の繋がりがあったのです。

1880年、ジェームズ・ガーフィールドは共和党から大統領候補として指名されます。民主党は南北戦争の将軍だったウィンフィールド・スコット・ハンコックを指名しますが、一般投票では僅差ながら選挙人投票においてジェームズ・ガーフィールドが圧倒的に優位となり、勝利しました。

1881年3月に大統領に就任したジェームズ・ガーフィールドですが、党内の派閥争い、汚職事件のスキャンダル、そして上院議会優位の政治体制に直面することになります。なかでも、エイブラハム・リンカーンが暗殺されて以降続いていた上院議会優位の政治体制を正すことは、先代大統領のラザフォード・ヘイズから続く重要事項でした。

上院議会は自分達の息がかかった銀行家のリーヴァイ・モートンを財務長官に任命するようにジェームズ・ガーフィールドに圧力をかけますが、ジェームズ・ガーフィールドはこれを拒絶し、議会に対して公職人事には介入させないという姿勢で挑みます。

さらにジェームズ・ガーフィールドは、当時の議会の中心人物だったロスコー・コンクリングの政敵だったウィリアム・ロバートソンをニューヨーク徴税官に指名し、上院議員たちに挑戦的な対応に出ます。ロスコー・コンクリング一派は副大統領だったチェスター・アーサーを使ってこの人選を阻止しようとしますが、ジェームズ・ガーフィールドはこれをも拒絶し、公職人事の決定権は大統領にあるのか、それとも議会にあるのかを明確にするまでは指名を実施しないことを主張しました。

ジェームズ・ガーフィールドのこの主張により、介入を企てたロスコー・コンクリングやトマス・プラットは次の選挙で再選させてもらうことを希望条件として辞職します。しかし、このふたりは再選することはなく、長く続いた議会主体の政治体制は実質的に終わりを迎えたのでした。

1881年7月2日、ジェームズ・ガーフィールドはワシントンD.C.の駅で背後から銃撃を受けます。襲った男は1880年の大統領選でジェームズ・ガーフィールドを熱心に支持したチャールズ・ギトーでした。チャールズ・ギトーは選挙活動で貢献したことへの見返りに役職をもらえると思い込んでいたものの、それが実現しなかったため暗殺を決意したとされています。

銃撃されて2ヶ月後の1881年9月19日、体内に残ったままの銃弾を取り除こうとした処置によって引き起こされた感染症が原因でジェームズ・ガーフィールドは49歳で命を落としました。

ポイント1:大統領の権限を復活させることに尽力

ジェームズ・ガーフィールドが大統領に就任した時、アメリカ政府は腐敗が進んだ状態で、上院議員の思うままに人事が決められたり、企業との癒着が横行していました。先代のラザフォード・ヘイズが取り組んだようにジェームズ・ガーフィールドも上院議員優位の政治体制を正すことに尽力しました。

なかでも上院議員の堅固派だったロスコー・コンクリングを辞職に追い込み、再選させなかったことは大統領の権限が復活したことを意味する象徴的な出来事だとされています。

ポイント2:暗殺された二人目の大統領

ジェームズ・ガーフィールドはエイブラハム・リンカーンに次いで暗殺された二人目の大統領です。就任後わずか4ヶ月で襲撃され、2ヶ月後には粗末な治療によって命を落としてしまいます。銃撃されてから命を落とすまでの2ヶ月の間で行った公務は犯罪者の身柄引き渡しの書類1通に署名をしただけとされています。

ポイント3:スター・ルート・スキャンダル

ジェームズ・ガーフィールドは南部と西部の郵便配達契約を結ぶのと引き換えに郵便局員や共和党員が賄賂を受け取っていた問題(スター・ルート・スキャンダル)を解決しました。

結果的に誰も有罪判決を受けることなく終わったスキャンダルでしたが、後に取り組んだ公職制度改革(上院議員主体の政治体制改革)の原点になったとも言え、腐敗した政府を改革する布石になりました。


まとめ

ジェームズ・ガーフィールドは17歳までは苦労が絶えない生活を送ってきましたが、努力によって弁護士そして政治家の道を切り開いた人物です。大統領に就任してからは功績を残すことが叶わず、命を落としてしまいます。多くの歴史家はジェームズ・ガーフィールドが生きていれば腐敗した政治を一掃できていたはずと考えています。

ジェームズ・ガーフィールドに関する豆知識

・アメリカ大統領のなかで初めての左利きの大統領として知られています。
・息子のジェームズ・ルドルフ・ガーフィールドも政治家になり、ルーズベルト政権で内務長官を務めています。

本記事は、2019年3月5日時点調査または公開された情報です。
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