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アメリカ第23代大統領ベンジャミン・ハリソンについて

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はじめに

ベンジャミン・ハリソンは連続ではない二期(第22、24代)の大統領を務めたグロバー・クリーブランドに挟まれるようにして大統領を務めた人物です。大統領を務めた4年間では、グロバー・クリーブランド政権が苦心していた関税問題の対極的な存在として活躍します。

ベンジャミン・ハリソンの祖父は第9代大統領を務めたウィリアム・ハリソンであり、祖父と孫の二代にわたって大統領を務めたことでも知られています。また、唯一のインディアナ州出身の大統領であることも有名です。

今回は1889年から1893年までグロバー・クリーブランド政権の時代に挟まれるような形で大統領を務めたベンジャミン・ハリソンについて解説します。

「ベンジャミン・ハリソン」のプロフィール

1833年ベンジャミン・ハリソンはオハイオ州で生まれました。父親は連邦下院議員、祖父は第9代大統領を務めたウィリアム・ハリソン(大統領就任1ヶ月後に死去)、曽祖父のベンジャミン・ハリソン5世はアメリカ独立宣言の署名者のひとりだった政治一家に育ちました。

地元でも有名な政治家系に生まれたものの裕福な生活ではなく、父親の農業によるわずかな収入で暮らしていました。8人兄弟のうちベンジャミン・ハリソンとアーウィン・ハリソンはファーマーズ・カレッジに進学し、農業を専攻するようになります。

1850年にはファーマーズ・カレッジからオハイオ州のマイアミ大学へ転入し、歴史や政治経済学などを学ぶようになります。そこで知り合ったホワイトロー・リードは後にベンジャミン・ハリソン政権の副大統領候補になりました。ファーマーズ・カレッジとマイアミ大学での得た出会いがベンジャミン・ハリソンを農業から政治の道へ導くことになります。

大学を卒業してからは法律事務所で働きながら法律を学び、21歳のときにはインディアナ州へ引越しをして弁護士として働き始めます。その年からインディアナポリスの連邦裁判所の廷吏も任されるようになり、1856年には共和党に参加しました。ジェームズ・ブキャナン大統領の対抗馬だったジョン・フレモントを支持する活動を通じてインディアナポリス市代理人に就任します。

1860年にはインディアナ州最高裁判所の報告官、南北戦争の准将、最高裁判所の速記係などを務め、1888年の大統領選では共和党からの指名を受けて大統領候補になりました。自由貿易か国内産業保護かで二分されていた時代に、国内産業を保護する層からの支持を受けて1889年に大統領に就任します。

しかし、自由貿易と国内産業保護の対立問題はベンジャミン・ハリソンを大いに困らせることとなるのでした。

「ベンジャミン・ハリソン」の経歴

大統領就任まで

オハイオ州で8人兄弟の次男坊として生まれたベンジャミン・ハリソンは、もともとは当時の父親の影響で農業を志した人物だったとされています。大学へ進学してからも農業を中心に勉強を続けますが、マイアミ大学へ転入してから弁護士そして政治家としての道を歩み始めることになります。

大学を卒業した翌年の1853年にはファーマーズ・カレッジ学長の娘だったキャロラインと結婚し、引き継いだ叔母の遺産を使ってオハイオ州からインディアナ州のインディアナポリスへ引越しをします。後に、この移住が政治家生命の原点となります。


インディアナポリスで弁護士として活動を始めた一方で、それまで支持してきたホイッグ党から共和党へ鞍替えし、政治活動へ積極的に参加するようになりました。なかでも、インディアナポリス紳士会(ユニバーシティ・クラブ)や、マイアミ大学の卒業生社交団体(ファイ・デルタ・シータクラブ)の初代会長を務めたことは初期の私的政治活動の一例と言えます。

インディアナポリスで弁護士として成功し、社交会の中心人物としても活躍していたベンジャミン・ハリソンは、南北戦争の際には北軍の義勇兵として准将を務めています。1865年に除隊してからは弁護士や州最高裁判所などで働きました。1876年にインディアナ州知事選に立候補しますが、落選してしまいます。

1888年の大統領選にまでミシシッピ川委員会、輸送路委員会、準州委員会など様々な役職を務めたベンジャミン・ハリソンは次第に地域に貢献する政治家としての名声を手に入れるようになります。大統領選では北部からの票を獲得し、一般投票では再選を目指したグロバー・クリーブランドに敗れたものの、選挙人投票で勝利して、翌年に大統領に就任しました。

大統領就任後

1889年に大統領に就任したベンジャミン・ハリソンは、先代の大統領であるグロバー・クリーブランドが抵抗を示した共和党議員による議会の統制を受け入れる立場を明確にしました。ベンジャミン・ハリソン大統領を議会と対立しないように仕向けた人物がジョン・シャーマン上院議員です。

ジョン・シャーマンは後にベンジャミン・ハリソン政権下で、独占資本の活動を制限するシャーマン反トラスト法(シャーマン独占禁止法)や、政府が銀を買い取るシャーマン銀購入法などの成立で暗躍する人物です。結果的にこれらの法律は世間の不評を買うことになり、ベンジャミン・ハリソン政権はわずか1期で終えることに繋がります。

自由貿易や共和党主体の政府を嫌悪したグロバー・クリーブランドとは対照的に、ベンジャミン・ハリソンは大企業とも繋がりが深い議会主体の政治を優先する政策を進めました。そのなかでもマッキンリー関税法は顕著な例とされています。

マッキンリー関税法は下院議員で後の大統領でもあるウィリアム・マッキンリーによって提案された関税を大幅に引き上げる法案です。関税を引き上げることによって国内産業を守れるようになることから工業地域だったアメリカ北部を中心に支持されました。しかし、50パーセント以上に引き上げられた関税によって連鎖的に物価の高騰が急激に進んだため、結局は国民から批判されることになります。

さらに、ベンジャミン・ハリソンは後に「ザル法」と呼ばれることになるシャーマン反トラスト法を成立させます。シャーマン反トラスト法は州間や国際間での取引の制限を禁止したり、独占を禁止する法で日本の独占禁止法のモデルにもなっています。しかし、砂糖業界の98パーセントを独占していた企業を罰しない判決が下るなどしたため、実質的に有効性に欠ける無力な法律となりました。

1893年に撤廃されることになるシャーマン銀購入法もベンジャミン・ハリソンの政権の特徴のひとつです。マッキンリー関税法によって大幅な関税を課すために西部の支持を必要としたベンジャミン・ハリソン政権は、支持してくれた見返りとして西部に有益となるシャーマン銀購入法を可決させました。

シャーマン銀購入法はアメリカ全土の銀総産出量(約450万オンス)に並ぶ銀を政府が毎月買い取る法律です。これによって銀の保有者は手形を金に交換したため、政府の準備金はすぐになくなってしまいました。

このようにベンジャミン・ハリソン政権で実現したマッキンリー関税法、シャーマン反トラスト法、そしてシャーマン銀購入法はいずれもベンジャミン・ハリソンを代表する政策ですが有効性は乏しく、政敵で大統領への返り咲きを狙っていたグロバー・クリーブランドに攻撃を許す事態を招きました。

1892年の大統領選では物価高騰に反発した国民からの支持が得られず、グロバー・クリーブランドに再選を許してしまいます。自由貿易か保護貿易かで揺れていた時代に極めて偏った金融政策を執ったベンジャミン・ハリソンはわずか1期で政界から去ることになったのでした。引退後は後の大統領になるウィリアム・マッキンリーを応援することに尽力します。

ポイント1:連続したザル法

ベンジャミン・ハリソンは共和党員による議会統制に従う立場をとったため、議会の思うままに様々な法案が成立しました。なかでも、マッキンリー関税法、シャーマン反トラスト法、シャーマン銀購入法は無力な法として批判され続けました。

これに関連するウィリアム・マッキンリー、ジョン・シャーマンの二人はベンジャミン・ハリソン政権を影で巧みに操った人物として覚えておくといいでしょう。

ポイント2:6つの州を成立

ベンジャミン・ハリソンは大統領在任期間中にノースダコタ、サウスダコタ、モンタナ、ワシントン、アイダホ、ワイオミングを準州から州へと昇格させました。アメリカ北西部が現在の形に近づき、アメリカはこの時代には44の州になっていました。


ポイント3:イタリアやチリとの戦争回避

ベンジャミン・ハリソンはイタリア、チリとの戦争を直前で回避したことでも知られています。なかでもチリ政府との対立はチリ船籍の拿捕をきっかけにしてアメリカ水兵が殺害される事態にまで進展し、後の大統領でもあるセオドア・ルーズベルトは即時開戦を迫ったほどでした。

議会に「適切な対応」を迫ったベンジャミン・ハリソンでしたが、戦争に唯一反対した国務長官のジェイムズ・ブレインによって説得され戦争を回避しました。

まとめ

ベンジャミン・ハリソンは国内産業を保護し、産業主義の経済成長を目指した共和党にとって理想的な大統領ではあったものの、保護関税などの金融政策で失策を続けてしまったことが痛手となり失脚しました。

後に大統領に返り咲く民主党のグロバー・クリーブランドも経済を立て直すことは出来ずに終わりますが、4年ごとに政権が変わったこの時代は、アメリカ経済が複雑し始めた象徴的な時代だったと言えるかもしれません。

ベンジャミン・ハリソンに関する豆知識

・ベンジャミン・ハリソンは、メジャーリーグのサンフランシスコ・ジャイアンツの名付け親としても知られています。(当時はニューヨーク・ジャイアンツ)
・7歳の時に祖父のウィリアム・ハリソンが大統領に就任しますが、就任式には参加していません。
・自身が大統領に就任した際に被っていた帽子は祖父の帽子とされています。

本記事は、2019年9月22日時点調査または公開された情報です。
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公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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