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アメリカ第30代大統領カルビン・クーリッジについて

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アメリカ第30代大統領


目次

はじめに

1923年8月から1929年3月までアメリカ第30代大統領を務めたカルビン・クーリッジ(発音はカルヴィンもしくはカルヴァン)は、第29代大統領だったウォレン・ハーディングが急死したため、急遽大統領に繰り上がるようにして就任した人物です。

アメリカ経済が空前の好景気に沸き「黄金の20年代」と呼ばれた時代に大統領を務めたカルビン・クーリッジは、アメリカの急激な成長や繁栄とは対称的な存在で、物静かな性格ゆえに「寡黙なカル」と呼ばれたほどでした。

今回は、アメリカが急成長を遂げた1920年代に大統領を務めたカルビン・クーリッジについて解説します。

「カルビン・クーリッジ」のプロフィール

カルビン・クーリッジはバーモント州のプリマスという街で農業や雑貨店を経営していた家庭で生まれました。2人兄弟の長男で、父親の農業を手伝いながら学校に通う毎日を送っていたとされています。ちなみに、カルビン・クーリッジが生まれた1872年7月4日はアメリカの独立記念日であり、カルビン・クーリッジは独立記念日に生まれた唯一の大統領経験者としても有名です。

カルビン・クーリッジは地元の寄宿制学校であるセントジョンズベリーアカデミーで学び、一度入学試験に失敗した後にマサチューセッツ州の名門アマースト大学(Amherst College)に進学します。大学では法律学を専攻し、成績優秀で卒業した後に法務書記を経てマサチューセッツ州の弁護士になりました。

マサチューセッツ州で弁護士事務所を開設して以降は、同州ノーサンプトンの市議会議員、市事弁護士、法廷事務官、州下院議員などを務めました。1910年と1911年にはノーサンプトンの市長に選出され、その後も州上位議員、議長、州副知事を歴任し、1919年にはマサチューセッツ州の州知事に就任します。

カルビン・クーリッジは絵に描いたような順調さで出世を続け、1920年の大統領選では副大統領候補に選出されました。1923年、時の大統領だったウォレン・ハーディングが脳梗塞で命を落としたことで、繰り上がるようにして大統領に就任することになります。

シアトルでウォレン・ハーディングが倒れた際、休暇のためバーモント州の父親の家に滞在中だったカルビン・クーリッジは、実家には電気も電話もなかったため、知人から口頭で大統領就任の話を聞かされました。

これを受け、真夜中に灯油ランプの下、父親による立ち会いの元で大統領就任宣誓をおこないました。この就任エピソードは現在でも広く知られた事実です。(後日、ワシントンD.C.で正式な就任宣誓を実施)

「カルビン・クーリッジ」の経歴

大統領就任まで

1872年7月4日、カルビン・クーリッジはバーモント州プリマスで生まれました。幼少期は、バーモント州の名産品でもあるカエデ糖の生産をしていた父親を手伝うことが好きだったと言われています。農業を手伝いながら学校に通い、1891年にアマースト大学に入学しました。

1895年に大学を卒業してからは、マサチューセッツ州で弁護士事務所を開設し、次第に政治界へ進むようになります。1899年には市議会議員に選出され、様々な要職を経
て、1907年には州下院議員を務めるほどになりました。1905年には寡黙なカルビン・クーリッジとは対称的で、明るくおしゃべりなグレースと結婚し、後にふたりの息子をもうけています。


1910年から1911年までノーサンプトン市長を2期務め、税の削減や市の負債削減に取り組んだ姿勢が高く評価され、1912年から3年間は州上院議員に選出されています。1916年からは副知事、そして1919年から1920年までは州知事を歴任し、1920年の大統領選前におこなわれた共和党の大統領候補指名争いでは、オハイオ州上院議員だったウォレン・ハーディングに敗れ、副大統領候補に指名されました。

大統領就任後

1923年8月2日、ウォレン・ハーディングが急死したという知らせがカルビン・クーリッジの元に届きます。

ウォレン・ハーディングの急死から約7時間後の深夜2時頃、公証人として父親が立ち会い、電気もない応接室にて大統領就任宣誓をおこないました。

それまで目立たない副大統領として知られていたカルビン・クーリッジでしたが、大統領に対して英雄的な価値を期待するほとんどのアメリカ国民からは期待されることなく大統領としてのキャリアがスタートしました。

カルビン・クーリッジはこれまでのどの大統領よりも記者会見を多く開催したことで有名です。その数は在任5年間でおおよそ500回以上で、現代にも続く大統領による記者会見の重要な礎になったと言われています。

カルビン・クーリッジは多くの国民の関心は大統領の人間的側面であることを見抜き、個人的な生活や人間性を新聞を使って広く知らしめることに長けていました。また、カルビン・クーリッジは遊説が得意ではなかったため、当時の新しいメディアだったラジオを使って国民の人気を得ることに成功します。ラジオの普及によって1924年の大統領選で勝利したと言われています。

カルビン・クーリッジはこれまでの大統領とは異なり、議会とのやり取りの成果や政策を強調して国民からの支持を得ようとするのではなく、大統領とは言えひとりのアメリカ国民であるという立場をメディアを使って巧みに表現した人物と言えます。

「寡黙なカル」と呼ばれるほどに物静かだったカルビン・クーリッジですが、新聞やラジオを使って多くの支持を集めることに成功した大統領のひとりです。アメリカ大統領のメディア戦略は現代でも続いていることから、カルビン・クーリッジはその先駆けだったと言えます。

ポイント1:排日移民法(1924年移民法)

1924年、各国出身者に対する移民割当比率を3パーセントから2パーセントに減らす移民法が成立し、アメリカへ移住を試みる移民の数は劇的に減少しました。1927年にはすべての国に対して年間15万人という上限を設け、事実上日本人移民は完全拒否されることになりました。

この法についてカルビン・クーリッジは、日本人を排斥する法という意味合いはなく、日本人を拒絶する方針を決定した議会を残念に思うと発言していますが、拒否権を使うことなく議会に屈するかたちで署名しています。

ポイント2:減税政策

後に「狂騒の20年代」や「黄金の20年代」と呼ばれることになる、アメリカが経済的な急成長を遂げた1920年代、カルビン・クーリッジはノーサンプトン市長時代と同様に、所得税や相続税の減税、国債の縮小を実施し、アメリカの繁栄を加速させたと言われています。

「必要以上に税金を集めることは合法的強盗だ」という言葉を残しており、後の大統領になるロナルド・レーガンは、カルビン・クーリッジのこの言葉に強く胸を打たれ敬愛することになったとされています。

ポイント3:不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)

第一次世界大戦後の1927年、フランス政府からアメリカ政府に対し、両国は戦争を否定し平和を維持するという内容の条約締結が提案されました。アメリカはヨーロッパには干渉しないというモンロー主義や、実質的な米仏同盟の締結になることを恐れ、フランスからの提案に対しては消極的でした。

しかし、カルビン・クーリッジ政権のフランク・ケロッグ国務長官は2カ国間ではなく、イギリスやドイツ、日本などの列強国を巻き込むようにして締結することを再提案し、1928年8月に15カ国が不戦条約に署名、1929年には64カ国に拡大されました。この条約は後の戦争の違法化や紛争の平和的解決の基礎になったと言われています。

一方で、この条約に対する違反について制裁は規定されておらず、後に起こる中国とソ連の国境問題、満州事変などではアメリカが不戦条約の遵守を提言しても効果はなかったことも事実です。


まとめ

アメリカ第30代大統領を務めたカルビン・クーリッジは、これまでの大統領のように大統領権限の行使によって政治や国を動かす英雄タイプではなく、新聞やラジオなどのメディアを使うことで国民に近い存在であっても政権運営は出来ることを証明した人物と言えます。なかでも、ラジオの普及とカルビン・クーリッジの人気は比例しており、後のアメリカ政治におけるメディア戦略の重要性を示したと言えるでしょう。

カルビン・クーリッジに関する豆知識

・カルビン・クーリッジはラジオ演説を初めておこなった大統領です。また、ホワイトハウスからラジオ演説をおこなった初の大統領でもあります。
・カルビン・クーリッジは私生活を公開することが多かったため、当時にしては珍しくその姿を収めた写真が多数現存していることが特徴です。

本記事は、2019年10月25日時点調査または公開された情報です。
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公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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