アメリカ第38代大統領ジェラルド・フォードについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第37回目は第38代大統領を務めたジェラルド・フォードです。 ジェラルド・フォードは第37代大統領リチャード・ニクソンの辞任を受けて大統領に昇格したため大統領選挙をせずに大統領になった人物です。 公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

はじめに

近代アメリカにおける最大のスキャンダル「ウォーターゲート事件」の責任をとって辞任したニクソン大統領のあとを継ぐ形で大統領に就任したのがジェラルド・フォードです。

ジェラルド・フォードは、ニクソン政権で副大統領を務めていたスピロ・アグニューが収賄容疑で辞任したことで副大統領に就任し、その後ニクソン大統領が辞任したため、さらに繰り上がって大統領に就任した人物です。

2度も繰り上がるようにして大統領に就任したジェラルド・フォードとはどのような人物だったのか、そしてわずか2年5ヶ月の任期でアメリカ史にどのような功績を残した大統領だったのかを解説します。

「ジェラルド・フォード」のプロフィール

ジェラルド・フォードはネブラスカ州のオマハという街で生まれました。生まれた時には父親が母親に暴力を振るうような状態にまで家庭環境は悪化しており、2歳の時に両親が離婚しました。後に母親が再婚したことでジェラルド・R・フォードと名前が変わりますが、それまではレズリー・リンチ・キング・ジュニアという名前でした。

母親の再婚を機会にネブラスカ州からミシガン州へ引越したジェラルド・フォードは成績優秀な生徒として名門のミシガン大学へ進学し、アメリカンフトッボール部のスター選手として活躍します。その実力は全米代表にも選出されるほどで、大学卒業時にはNFLの複数のプロチームからスカウトを受けたほどです。

フットボール選手として将来を期待されたジェラルド・フォードでしたが、プロには進まずにイェール大学の法律学校に進み弁護士資格を取得する道を選びます。弁護士事務所を開設した頃に第二次世界大戦が始まり、海軍で海軍飛行学校の運動教官を務めました。その後、空母モンテレーに乗り込み太平洋での戦闘にも参加しましたが、台風の影響を受けて破損したモンテレーは前線から撤退し、陸上任務に戻った時点で終戦を迎えました。

戦争が終わった1949年には共和党員として連邦下院議員に当選し、その後は13回連続当選を続け、下院院内総務を務めるまでになります。1973年、ニクソン政権で副大統領を務めていたスピロ・アグニュー副大統領がメリーランド州知事時代の収賄容疑で辞任に追い込まれたことで、ニクソン大統領からの指名を受けて副大統領に就任しました。

アメリカ史上初めての形で副大統領に就任したジェラルド・フォードでしたが、1974年8月にはニクソン大統領が大統領を辞任したため、繰り上がるようにして大統領に就任しました。この結果、ジェラルド・フォードは大統領選で戦うことなく大統領に就任した初めての人物として話題になりました。

ニクソンが残したわずか2年の任期を任されることになったジェラルド・フォードは、2年後の1976年に控えていた大統領選に勝利することを目標にして始まったのでした。

「ジェラルド・フォード」の経歴

大統領就任まで

1913年、ジェラルド・フォードはレズリー・リンチ・キング・ジュニアとしてネブラスカ州で生まれます。両親の離婚と母親の再婚を機に、正式にジェラルド・フォードとなり、幼少期はミシガン州で過ごしました。

学業もスポーツも優秀だったジェラルド・フォードはアメリカンフットボールのトップ選手として活躍する傍らで、学費を捻出するためにアルバイトを掛け持ちする大学生活を送ります。ミシガン大学卒業時にはプロフットボールチームからの誘いをすべて断り、弁護士になるために名門イェール大学ロースクールに進学しました。

弁護士として活動を始めてすぐにアメリカが第二次世界大戦に参戦することが決まり、海軍に入隊し、持ち前の運動神経を買われて空母の運動管理官や砲術士官などを任されます。サイパンやチューク諸島での戦闘に参戦しますが、1944年のフィリピン台風による被害を受けて戦線を離脱したまま終戦を迎えました。

1946年2月に正式に海軍を除隊したジェラルド・フォードは弁護士の仕事に戻り、1949年には連邦下院議員に初当選し、その後24年にわたって13回の当選を果たします。共和党の若手リーダーとして頭角を表したジェラルド・フォードはジョン・F・ケネディ暗殺事件の調査委員会(ウォーレン委員会)のメンバーを務めたり、共和党の若返り改革の中心的存在になりました。
1964年から1965年にかけては、民主党のリンドン・ジョンソン政権が掲げた、連邦法で人種差別を禁止する公民権法や、投票の際の人種差別を禁じた投票権法の成立に共和党員でありながら協力し、成立に貢献しています。

一方で、リンドン・ジョンソン大統領が推進した「偉大な社会政策」に共和党のリーダーとして反対し、テレビ出演時には共和党の政策をアピールして、後に政権を取ることになる共和党の存在感を示しました。

ニクソン政権2期目となる1973年には、副大統領を務めていたスピロ・アグニューがスキャンダルによって失職したことから、ニクソン大統領の指名を受け上下両院の賛成を得て第40代副大統領に就任します。この際、ケネディ暗殺後に制定された合衆国憲法修正第25条が初めて適用されたケースになりました。(大統領が欠員した場合は副大統領が昇格。副大統領が欠員した場合は大統領が指名し、議会両院による採決がおこなわれる)

1974年8月8日、ニクソン大統領は関与が疑われたウォーターゲート事件の責任を取って辞任することを公表したため、翌日には副大統領だったジェラルド・フォードが大統領に昇格しました。この時にジェラルド・フォードは「長い悪夢が終わった」という有名な台詞を残しています。

大統領就任後

1974年8月9日、辞任したニクソンの後を託されたジェラルド・フォードでしたが、就任直後に強烈なインパクトを残す「あること」をして、それによって後々に大統領の座を譲ることになることをします。それがニクソンに対する「大統領特別恩赦」でした。

ウォーターゲート事件で、ニクソンが関与したと疑われることの一切を罪に問わないとしたことで、ニクソンやホワイトハウスに対して懐疑的になっていたアメリカ国民の反感を買ってしまったのです。そして、このことが2年後に迫っていた1976年大統領選のジェラルド・フォード敗北を決定付けたとされています。

しかし、そもそもウォーターゲート事件によって共和党自体がすでに支持を失っており、崩壊状態にあったことに間違いありませんでした。事実、1974年の中間選挙の時点で上下両院で多数党が異なる「ねじれ」が生じており、ジェラルド・フォードは民主党が可決した法案を50回以上にわたって大統領拒否権を行使し、なんとか対抗するという事態になっていました。

ジェラルド・フォードはニクソンの後という極めて不利な状況下で大統領になったため、具体的な政策や外交よりも「ホワイトハウスの威厳回復」に努めることしか出来ませんでした。ベトナム戦争への参加を拒否した軍人や逃亡兵に条件付き恩赦を与えたことを始め、ニクソン政権時代から続く人員を削減したり、有識者を集めた経済会議をホワイトハウスで開催するなど「開かれたホワイトハウス」を作ることに尽力します。

また、テレビメディアを使って自分の朝食を自分で用意する姿や、水泳を楽しむ様子を伝えることで国民との距離を縮めることも積極的に行い、1974年には現職大統領として始めて日本を公式訪問したり、1975年には緊張状態が続いていた中国の毛沢東と会見するなど平和の構築にも貢献しています。

目立った功績こそあげていませんが、後の大統領になるジミー・カーターや、ジョージ・H・W・ブッシュなどからは、不利な状況の中で失墜した大統領の威厳を取り戻した人物として高い評価を得ているのも事実です。

大統領に就任してわずか2年で迎えた1976年の大統領選では、民主党候補のジミー・カーターに敗れ、おおよそ2年の大統領任務を終えました。この時の敗因は、国民の間で根強く残っていたニクソン(共和党)に対する不満や、ニクソンを追求せずに恩赦したこと、さらに現実的にソ連の支配下だった東欧州に対して、東欧州はソ連の支配下ではないと失言したことが大きく響きました。

結局、ジェラルド・フォードの大統領任期はわずかで終わり、共和党政権から民主党政権へ移行することになりました。アメリカにおけるジェラルド・フォードの評価は「無能」と切り捨てる人もいれば、ウォーターゲート事件の最後の被害者として同情する声もあります。ジェラルド・フォードは2006年12月26日に93歳でこの世を去りました。

ポイント1:大統領選を戦わずして大統領に就任した人物

ジェラルド・フォードの最も特徴的なことはやはり「大統領選を戦わずして大統領になった」ということでしょう。ニクソン政権時代の副大統領が辞任したこと、そしてニクソン大統領が辞任したことで2度も繰り上がるようにして大統領になりました。

しかし、所属する共和党に対する風当たりが強い中で大統領になったことはジェラルド・フォードにとって厳しいものでした。大統領就任中には目立った功績を残すことなく、2年5ヶ月で大統領職を終えています。

ちなみに、1980年の大統領選の際にロナルド・レーガンがジェラルド・フォードを副大統領候補に指名する予定でしたが、ジェラルド・フォードが大統領権限の分担を要求したことで頓挫してしまいました。

ポイント2:1974年連邦選挙運動法

ジェラルド・フォードがおこなったホワイトハウスの信頼を取り戻すための政策のひとつが「1974年連邦選挙運動法」です。この法律は、大統領選挙と連邦議会選挙における献金と支出を超党派で監督する連邦選挙運動委員会の設立や、候補者による報告を義務づけ、メディアや民間団体に開示することを定めたものです。

これにより長らく不透明だったアメリカの政治と金の関係が公になる仕組みが出来ました。アメリカ史の中で最も「政治と金」に影響を与えた法律とされており、政治家を始め利権を狙う会社や団体の反発を抑えて成立させたことはジェラルド・フォードの功績と言えます。

ポイント3:大統領特別恩赦

ジェラルド・フォードが大統領に就任してわずか4週間後に、ニクソン元大統領に対して大統領特別恩赦がおこなわれました。当然ながらアメリカ国民はこのことをよく思わず、ジェラルド・フォードの評判を下げることに繋がりました。

この大統領特別恩赦は、ニクソンがジェラルド・フォードに大統領の座を譲るための条件だったと疑われる始末で、ジェラルド・フォードは下院司法委員会で宣誓させられる事態にまで発展しました。(大統領が議会で宣誓するのはウッドロウ・ウィルソン以来55年振りで極めて稀なこと)

まとめ

ジェラルド・フォードは2度の繰り上がりを経験して大統領になりましたが、残念ながら大統領として目立った功績をあげることなく表舞台から姿を消しました。ニクソンが関与したとされるウォーターゲート事件はニクソンの辞任で終わったように見えましたが、ジェラルド・フォードが恩赦をしたことで再び反感を買うことになったのでした。大統領特別恩赦が最高で最低の功績だったと言えるかもしれません。

ジェラルド・フォードに関する豆知識

・1975年、ジェラルド・フォードはわずか20日間のうちにカリフォルニア州で2回も暗殺未遂に遭っています。
・昭和天皇がアメリカを訪問した際に出迎えたのがジェラルド・フォードです。

38代大統領ジェラルド・フォード
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