【陸上自衛隊の仕事】1995年の兵庫県南部地震の話

1955年に淡路島の北淡町を震源地として発生した「兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)」を覚えていますでしょうか?

兵庫県南部を中心に、大きな被害をもたらした大震災です。今回は実際の自衛隊の方に「兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)」が発生した当時の状況を語っていただきました。


戦後最大の自然災害 「兵庫県南部地震」

1995年(平成7年)1月17日、午前5時46分、淡路島の北淡町を震源地とする大震災が起こりました。この大震災は発生した当時、戦後に発生した自然災害としては伊勢湾台風(昭和34年:犠牲者数5,098人)を上回る大災害でした。

私は、香川県善通寺市にある普通科部隊の第15普通科連隊に所属していました。そして、兵庫県南部地震が起きた時は、九州で行われていた野営訓練に参加中だったのです。

地震発生により野営訓練は中止になり、四国に帰隊して数日後、災害派遣の出動命令が出ました。そして15連隊は淡路島に出動する事になり、私も災害派遣部隊の一員として参加し、一回目は淡路島の北部にある津名町に、二回目はこの大震災の震源地である北淡町に行きました。

今回は、その災害派遣に出動した時の体験談をご紹介します。

戦前戦後を通じて起きた災害では『関東大震災』が最大の震災で、続いて『明治三陸地震津波』、『東日本大震災』、『濃尾地震』、『兵庫県南部沖地震=(阪神淡路大震災)』になります。

1995年1月17日 厳冬の九州で知った大地震

1995年1月17日兵庫県南部沖地震が発生した日、私は野営訓練に参加中で大分県玖珠郡玖珠町にある日出生台(ひじゅうだい)演習場にいました。日出生台演習場は、別府観光港から由布岳に向かって県道を西に向かってひたすら登って行きます。

途中、別府温泉、湯布院温泉を通過した後、県道50号線に入りさらに山道を登ると日出生台演習場に着きます。別府観光港から陸路、約1時間の道のりです。日出生台演習場は西日本最大の演習場で高原にある為に冬の寒さは厳しく、この日は朝から霜が降りて、辺り一面真っ白で冷え込みの厳しい朝でした。

私は、数日後に控えた実弾射撃訓練の準備の為、中型車両とジープに分乗して演習場内の『百間塚(ひゃっけんづか)』という三角点標の付近で訓練準備をしていました。

ところが、準備を始めて間もなく中隊本部から無線が入り神戸で大きな地震が起こったとの連絡を受け、直ちに訓練を中止して宿営地に戻るよう命令を受けました。

演習参加中の地震や山火事は、それまでにも何度かありましたが、地震の為、野営が中止になったのはこの時が初めてでした。命令を受けて直ぐに訓練を中止して宿舎に戻りました。

その途中、香川県で留守を守ってくれていた妻から私の電話が入りました。


妻の電話で地震の大きさを知る

妻は善通寺が震度4だと言いました。その時、震度4と言う情報を聞いて驚きました。なぜなら本部からの第一報で神戸に大きな地震があったと聞いていたからです。しかも震源地は淡路島らしいという事も聞いていたのです。

善通寺市から神戸市までは高速道路を使っても約2時間30分かかります。そんな遠い所で起きた地震にも関わらず四国の香川県の南西部にある善通寺で震度4だと妻は言うのです。

これは、とんでもなく大きな地震だなと、ジープに揺られながら思ったものです。そして宿舎に入ると大勢の隊員がテレビに群がって騒然としていました。テレビ画面に映し出されていた地図の上には、無数の(4)(5)(6)と言う数字が重なっています。そして神戸の付近に(7)という見た事もない数字がありました。

野営は中止になり演習部隊は四国へ

しばらくすると野営訓練が正式に中止になり善通寺に帰隊する事になりました。陸上自衛隊の野営訓練は武器は勿論、テントや寝具、さらに野営中の食料も携行して行くので、部隊全体が引っ越しするような大がかりな移動になります。

突然の野営訓練中止、そして移動という事で慌ただしい移動準備となりました。
普通科連隊と特科部隊が参加した実弾射撃を伴う大きな演習だったので、車両数も相当な数になります。

まさに『九州大返し』でした。ともあれようやく帰隊準備を完了して行進計画が発令され、その日のうちに日出生台演習場を後にして演習参加部隊は、別府観光港を目指して山を下りる事になりました。

フェリーも非常態勢

九州と四国を結ぶフェリーに乗船する際は民間車両と混用で乗船する為、自衛隊の車両はあらかじめ予約します。ところが急遽中止になった為に乗船予約などはできません。

ただし、この時は特別状況という事で自衛隊の車両は最優先で乗船できました。かってない規模の地震の緊張感は九州にまで伝わっていたのです。この時の野営部隊の移動は官民一体となった取り組みでした。

野営参加部隊はジープ、中型・大型トラック、指揮通信車、土木作業車、炊事車や、大砲などの特殊車両を含め100両を超える大部隊になるので一挙に移動すると交通渋滞を起こしてしまいます。

それを避ける為にいくつかの行進挺隊(ていたい)に分かれて10分~20分程度の時間差を設けて移動します。また同様の理由で交通渋滞を起こさない為にルートを八幡浜港、宇和島港の2つのルートに分けます。

早朝の帰隊。そして待機

四国に上陸してから善通寺までは八幡浜港から陸路で約5時間、宇和島港からなら約6時間を要します。高速道路を使えば所要時間は短縮されますがそれでも長距離機動の強行軍になります。

帰路の途中、続報が次々と入って来ます。ラジオから入って来るニュースも悲惨なニュースばかりでした。特に驚いたのは行方不明者の数でした。1,000、2,000と言う大雑把な数字が、発表されるたびに加速度がつくように数字が増えていきます。

自衛隊の車両移動は2時間に一度は休憩します。その休憩のたびに隊員同士で話す内容は「とんでもない地震だな」「こんな大きな地震は初めてだ」という驚きの声ばかりです。

演習場を出発して別府港まで、約1時間。フェリーで約3時間半、四国に上陸してから約5時間~約6時間、合計10時間に及ぶ長距離機動によって、翌日の早朝に善通寺駐屯地に到着しました。

到着後、演習参加部隊は解散して営外者は自宅に帰ります。その後、災害派遣の為の数日間の着替えを準備して再び駐屯地に登庁して待機状態に入りました。それからは災害派遣の命令が出るまで非常用糧食の積載、寝具等の準備などあわただしく災害派遣の出動に備えて、準備が進みます。


テレビ・新聞のニュースは自衛隊の批判ばかり!

災害派遣は、地方自治体の長からの派遣要請が無ければ出動できません。その為、善通寺の部隊は待機状態のままで出動命令を待つ事になります。ところが待機したまま一日が過ぎ、二日目が過ぎても出動命令は出ません。

テレビや新聞記事では自衛隊の活躍を伝える報道は無く、逆に自衛隊の到着が遅いなどと言う批判的な報道ばかりです。特に近畿地区を警備隊に持つ第3師団は大渋滞に巻き込まれ被災地に到着するのが大幅に遅れました。

テレビ、新聞はここぞとばかりに書きたてました。わが善通寺の部隊は演習から戻った後、いつでも出動できる態勢を取っていました。

淡路島に向けて出動!

そしてようやく命令が出て1月20日に出発する事になりました。第15普通科連隊の派遣先は淡路島の北部にある津名町でした。災害派遣に出発したのは善通寺駐屯地を出発して、徳島経由で高速を利用して淡路島に渡り、津名一宮インターで下りると直ぐに津名町に入りました。

神戸では震災後の大火災や、高速道路の倒壊などの凄まじい被害が出ていました。私は震源地に近い津名町も相当悲惨な状況になっていると予想していました。でも車両から遠望した津名町は大きな被害を受けているようには見えませんでした。

ところが、町の中に入ってみるとあちこちで家屋が倒壊していたり窓ガラスは割れ、家の前の盆栽は散乱します。それも一か所ではなく辺り一面がそうなのです。実際に目で見て、地震の規模の大きさに驚きました。

この第1回目の出動で15連隊に与えられた任務は『道路啓開』(どうろけいかい)と言う任務でした。これは倒壊した家屋が道路を封鎖しているので物流ルートを確保する為に幹線道路の障害物を排除して車が通行できるようにせよ。と言う命令でした。

あんたら何しに来たんや!

ただし到着後間もない為、地方自治体との共同連携も円滑とは言えず、とりあえずは出来る事をやるという手探りのような状態でした。具体的な作業割り当てが決まるまで、到着した駐車場付近の道路の障害物を除去していたのです。

私の職務は『小隊陸曹』という職務で、小隊の副小隊長と言う立場でした。現地に到着して作業現場に向かう途中、小さな川に差し掛かって小さな橋に差し掛かった時、川岸にある集会場が崩れて川の中に畳が散乱していました。

その時、半分崩れている集会場の中にいた男性が、大声で私達を呼びました。「おお~い!自衛隊さん。この川に落ちた畳を上げてくれ~」私はその声を聞いて小隊長に具申しました。「畳を上げる為に2・3名連れて行って良いですか?」

小隊長から帰ってきた返事はノーでした。「ダメだ。命令以外の事をするな!」でした。許可が下りないので仕方なく「すみません。別の任務があるので作業は出来ません。」と言うと大声でどなり声が聞こえたのです。

「あんたら何しに来たんや!助けに来てくれたんと違うのか!」

その時は小隊長の頑固さに憤ったものですが、今、振り返れば小隊長の判断は正しかったのです。もし、その時、部下を連れて集会場の作業をしていたら、黒山の人だかりができて、うちにも来てくれ、いや、こっちを先にやってくれと収拾がつかない事になっていた事でしょう。

地震の規模は私達の既成概念をはるかに超える広範囲で起こっていたのです。それなのに善通寺の派遣部隊は1,000名程度の勢力でした。その人数で町の中に展開すれば、あっという間に数十人程度の少人数になってしまいます。

災害現場に到着して最初に感じたのは、被災した規模と比べて自衛隊の勢力はあまりにも少なすぎると直感しました。もっと仲間が欲しいと素直に思いました。

余震で揺れ続ける町

震災後の余震もこれまでに経験した事のない多さでした。昼間の作業を終え、宿泊所の体育館に戻り、ミーティングを終えてようやく寝床に着きます。すると寝る時も体育館の屋根がガタガタと小刻みに揺れるのです。

津名町に来てからは、朝と言わず昼と言わず、常に揺れている感じで震度2~3程度の余震が頻繁に起きます。最初は気持ちが悪かったのですが、何度も余震を体験すると、不思議な事に揺れが気にならなくなって行きます。

津名町にいる間は、頻発する余震の影響で、余震が無い時でも地面が揺れているような気がしました。余震が多すぎて頭の感覚がマヒしたのです。

その津名町で印象的だったのは倒壊した家屋で発見した柱時計でした。文字盤のガラスの壊れた柱時計の針は午前5時46分で止まっていました。その時刻に、寝ている人の体が、一瞬、空中に浮くほどの直下型の地震が起きたのです。


実際に作業現場で、現地の案内係として来てくれた役場の人の話によると、地震が起きた時は、体が数十センチ浮き上がり、その後ド~ンと言う大きな音がして民家が崩れ落ちる音が聞こえたそうです。

気力を失った人々

津名町での作業はひたすら道路の障害物の除去でした。最優先で物流ルートを確保するという任務だったのです。津名町で感じた現地の人々は突然の大地震のショックで茫然自失となっている感じでした。

夜のミーティングである自衛官が報告した内容に、次のようなものがありました。あるお年寄が水道の蛇口をひねって水を出してくれと言って来たそうです。頼まれた自衛官が蛇口をひねってあげるとあっけないほど簡単に水が出たそうです。

その蛇口は、家屋が倒壊した後に残っていた腰ぐらいの高さにあるむき出しの水道の蛇口だったそうです。お婆さんでも手を差しだしてひねれば、簡単に水が出る蛇口でした。

つまり、地震のショックで、なんでもない簡単な作業も出来ないほど無気力状態になっている人がいるという報告でした。私も同じような体験をしています。
あるアパートの前で、やせたお婆さんが無表情で、次々と盆栽の鉢を道路に落として鉢を壊していたのです。

それは、アパートの前の道路上でした。あまりにも投げやりになっている様子が見ていられなくて私は止めようと思ったほどです。

「お婆さん、その盆栽、本当に壊すんですか?まだ、綺麗な盆栽ですけど…」

そういうと…

「全部壊して…もう…いらん!」

私は、そのおばさんと一緒に、盆栽の鉢を壊しました。地震が発生してまだ1週間経過していない時期でした。津名町の人々は精神的に打ちのめされていたのです。

北淡町野島地区

道路の障害物に明け暮れた津名町での作業をひとまず終了して、私達の部隊は一時善通寺に帰隊しました。ただし、完全休養できたのは1日だけで直ぐに着替えなどを準備して2回目の出動をしました。

この2回目の出動から、本格的に民有地の復旧活動をすることになったのです。2回目の出動は、震源地である北淡町野島地区でした。野島地区は淡路島の北西部にある町で播磨灘に面した海沿いの漁師町です。

北淡町の被害状況は津名町よりもさらに凄まじく、車から見える町の外観も異様な光景でした。斜めに傾いている家や倒壊している家。車の中から街並みを見て、これは風景なのか?と違和感を覚えたほど異様な風景でした。

鳥居は崩れ落ちアスファルトの地面の段差は1メートル50くらいあって自然の力の凄さに驚きました漁師町なので裕福な家庭が多いのか二階建ての立派な家が多かったのですが胸の辺りの高さのところで、どの家も30センチほど水平にずれていました。

新築の家の前で男泣きしている人

倒壊している家の中には、柱に化粧紙を巻いた新築の家もありました。屋根は真新しい日本瓦で壁はありませんでした。屋根瓦を拭き終えたばかりの新築の家がそのまま倒壊しているのです。

その崩れた家の前にドラム缶に木をいれて暖を取っている40代くらいの男性が目に涙を浮かべたまま座り込んでいました。流れ落ちる涙をぬぐおうともせず、無言で泣いていたのです。

私達の小隊は作業現場に向かう途中、その崩れた新築の家の前を通りがかったのです。全員が無言でその男性の前を通り過ぎました。泣いている男性の姿からは家を建てて、幸せの絶頂からどん底に突き落とされた悲哀がにじみ出ていたのです。

明るさを取り戻していく野島の人々

第2回目の派遣から私達は、傷んだ家屋の解体作業に着手しました。津名町に出動した時は、地震発生直後だったので人々は茫然自失で絶望している状態でした。未曽有の大災害の現実を受け入れる事が出来なかったのかもしれません。

一瞬にして生活そのものが消えたのです。やり場のない怒りを自衛官に向けた人もいたのですが、それも無理のない話で八つ当たりでもしなければやりきれなかったのでしょう。

ところが、この野島地区で家屋の解体作業に取り組み始めてから日が経つにつれて被災地の人々の雰囲気が目に見えて変わって行くのを実感しました。笑顔を見せる人が目につき始めたのです。


解体する家屋の屋根には、陸曹が上がって命綱を全員がつけられるようにロープを組んでから、若い陸士を屋根に上げて屋根瓦を撤去します。瓦の撤去が終わると手作業と建設業者とチームを組んで家屋を解体して行きます。

1個分隊、約10名で大型トラック1台、建設機械1台のチームで解体して行きます。明けても暮れても家の解体が続きます。そんな作業をしている途中、家の横を通り過ぎる奥さん達や学生さんが「お疲れ様です。」「頑張って下さい」などの声をかけてくれるようになりました。

さらに、バナナやミカンなどの差し入れもしてくれる人も現れました。私達は家屋の解体で毎日、全身、汗まみれで誇りまみれ!作業を終えて宿舎の国民休暇村に帰る事は全身、埃だらけで真っ白の状態でした。

そんな中でも町の人達の表情に笑顔が戻って来たのには、私達も元気づけられました。震災から3週間ほど経過して淡路の人達もショックから立ち直りつつあるように私は感じました。

かっこいい自衛官

ある時、休憩中の私のところに二人の女子中学生がやって来ました。理由を聞くと私の小隊のある若い自衛官の名前と住所を教えて欲しいというのです。その女の子達にとっては、その隊員が救世主のように見えたのでしょうか?

その隊員は私と同じ中隊に所属している陸士長でした。その時は不在でしたが、後でその隊員に二人の女子中学生の話をして近くにいるので声を掛けてやれと言ったのですが恥ずかしがって女の子と会おうとはしませんでした。

津名町に出動した頃は、マスコミが自衛隊の批判した事もあって自衛隊に対する民情はけして暖かくはありませんでした。しかも、震災直後のショックで精神的な余裕が無かったのでなおさら被災地の人達の視線は冷たく感じました。

ところが被災地で活動をし始めてから、徐々に自衛隊の活動に暖かい視線を向けてくれるようになりました。私は実際に目撃しなかったのですが約50日に及ぶ出動を終えて野島地区を後にする時、涙を浮かべて派遣部隊を見送ってくれた人もいたと聞いています。

評価されていた自衛隊

この淡路への派遣については後日談があります。兵庫県伊丹市にある伊丹駐屯地に中部方面総監部があります。東海北陸、近畿、阪神、中国、四国にまたがる中部方面隊の司令部です。
その伊丹駐屯地で、年に一回、創立記念日行事が行われます。私は、震災後、約10年経った頃に伊丹駐屯地の記念日行事の支援要員として讃岐うどんのバザーの出店の為に10名の隊員を連れて行事に参加しました。

体育館で記念会食をするのですが、その近くで讃岐うどんを約800食作りました。その時の事です。80歳くらいのお年寄りがテントに近づいて来たので私はうどんを勧めました。

「讃岐うどんはどうですか?料金はいりません。手打ちじゃありませんが、美味しいですよ。」と言うと、じゃあ、頂こうかと言ってうどんを美味そうに食べるのです。

その時の私はトレーニングウエアーで上は法被姿でした。そして頭には識別帽を被っていました。識別帽と言うのは部隊のロゴマークの入ったキャップです。食べ終わったおじさんは美味しかったと言った後、私の識別帽を見ながら言うのです。

「わしは淡路島から来たんだが、あんたたちの帽子のマークは見覚えがある!あんたたち淡路島に来てくれた善通寺の部隊の人じゃないか?」

「そうです。善通寺市の第15普通科連隊です。」

「やっぱし、そうやったか!あの地震の時、淡路に来てくれた部隊じゃな!」


「そうです。北淡町の野島に出動しました。」

そういうと懐かしそうな顔をして言いました。

「あんたら最後まで淡路島に残って頑張ってくれたな。自衛隊さんのおかげや!淡路島を元通りにしてくれたのは自衛隊や。…わしはこの事は死ぬまで忘れん!…これだけは言っておくからな!…いやあ~久しぶりに美味しいうどんを食べた。ありがとう~…元気でな…」

そういうとそのご老人は丁寧にお辞儀をして立ち去ったのです。

災害派遣の作業中はヘルメットでしたが、作業が終われば私達は、15連隊のロゴマークの入った識別帽を被っていたのです。

それにしても地震から10年以上経って淡路島の人から感謝の言葉を聞けるとは思いませんでした。この時のお年寄りの言葉は何よりも嬉しかった言葉でした。

災害派遣は発生したばかりの時は、最悪の状態のところに飛び込んでいくような任務です。現地の人々と連帯意識を持てるようになるには時間が掛かります。同じ境遇を長い時間、共にしないと心はけして一緒になりません。

ただし、必ず最後には理解してくれるようになります。黙々と任務をこなしていれば、やがて気持ちは伝わります。現役を終えた今でも伊丹駐屯地で感謝の言葉を言ってくれた淡路島から来た老人の言葉は、私の勲章でもあります。

「あんたらが淡路島を元通りにしてくれた。わしは死ぬまでこのことは忘れんからな!」

本記事は、2018年1月1日時点調査または公開された情報です。
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