はじめに
おそらく日本で最も知られているアメリカ歴代大統領のひとりであるエイブラハム・リンカーンは、1861年から1865年4月15日に暗殺されるまで第16代大統領を務めました。アメリカが建国以降に直面した最も難しい問題とされた奴隷制度や南北戦争の最中に大統領を務めたエイブラハム・リンカーンは、アメリカでも最も偉大な大統領として広く知られています。
今回はアメリカ第16代大統領を務めたエイブラハム・リンカーンが具体的にどのような人物で、どのような思考を持って様々な功績をあげたのか詳しく解説します。
「エイブラハム・リンカーン」のプロフィール
エイブラハム・リンカーンはケンタッキー州で生まれ、7歳のときにインディアナ州へ、そして21歳のときにイリノイ州に引越しをしました。幼少期から21歳になるまでは家計を支えるために様々な仕事をして、稼いだお金を父親に渡すような生活を続けていました。エイブラハム・リンカーンは青年期をイリノイ州で過ごしていたことから、現在でもイリノイ州はエイブラハム・リンカーンの州として広く知られています。
エイブラハム・リンカーンは無学で貧しい両親の元に生まれたため、まともな教育を受けることなく育ちました。唯一受けた教育は、巡回教師と呼ばれる人から教わったこと程度で、基礎教育1年分だったとされています。しかし、独学で測量士や法律学を勉強して後に敏腕弁護士として活躍するようにまでなります。
青年期までをこのような環境で過ごしたことからエイブラハム・リンカーンは質素で素朴、健全で誠実、そしてユーモアのある人物になったとされています。この性格は後に大統領になってから大きな意味を持つようになります。
1846年に国政に参加してからは、ジェームズ・ポーク大統領の政策に反対し、カリフォルニアを始めとする広大な西部の土地を手に入れることに繋がった米墨戦争にも反対しました。皮肉にもジェームズ・ポークとエイブラハム・リンカーンは歴代大統領のなかでも最も偉大な人物として知られる二人です。
米墨戦争で活躍したザカリー・テイラーが大統領を継いだと同時に、エイブラハム・リンカーンはウィリアム・H・ハーンドンと弁護士の共同事業を始め、弁護士活動に専念するようになります。北海道全域に該当するほどの広大なエリアを巡回しながら裁判をこなしていくうちに、多くの人から誠実で真摯な態度の人物と評判を得るようになりました。
この頃から「Honest Abe.(正直者のエイブラハム)」と呼ばれるようになります。弁護士として精力的に活動した時代に築いた人脈が後の政治家としての活動を支えるようになります。そのひとりがデイビッド・デイビスで、エイブラハム・リンカーンが大統領就任後に最高裁判所判事に指名した人物です。エイブラハム・リンカーンが大衆から支持された背景には地道な弁護士活動があったと言えます。
大統領に就任してからは波乱の状況下において「連邦を守ること」を主張し、奴隷制度を巡る南部諸州の合衆国離脱や南北戦争の指揮に尽力しました。エイブラハム・リンカーンはある手紙のなかで「連邦を守るためであれば奴隷を全面解放するし、解放しない方が連邦を守れるのであれそうする」と述べています。
エイブラハム・リンカーンは奴隷解放に貢献した人物ですが、その背景には明確な「連邦を守る、すなわちアメリカ合衆国を守る」という強い意志があったことはあまり知られていません。エイブラハム・リンカーンは誰よりも誠実にアメリカのことを真剣に考えていた大統領とされていることから、現代でも最も偉大な大統領として知られているのです。
「エイブラハム・リンカーン」の経歴
幼少期から青年期
1809年、エイブラハム・リンカーンはケンタッキー州で生まれます。家族はエイブラハム・リンカーンが生まれた時にはその地域では裕福に分類されるほどに農業や土地で成功していたものの、土地の権利書が偽物だったとされ、訴訟の結果すべてを失うことになりました。
一家は新しい土地を求めてインディアナ州に移住しますが、そこでエイブラハム・リンカーンは土地問題や裁判で苦しんだ父親を見て、測量士や弁護士になるための勉学が必要と考えるようになり独学で勉強を始めました。この時に始めた読書の習慣は生涯にわたって続くことになり、戦争時の戦術、演説の内容、そして南北戦争の大義名分を生み出すことなどに繋がります。
1830年、エイブラハム・リンカーンは自由州だったイリノイ州に引越しをして家族から独立します。身長が193センチほどあったエイブラハム・リンカーンは屈強でありながら優しく、誠実な人柄だったとされています。この頃に生涯の親友となるジョシュア・フライ・スピードと出会い、一緒に生活を始めます。
ジョシュア・フライ・スピードは後にエイブラハム・リンカーンが暗殺されたことを知るとエイブラハム・リンカーンを讃える記念事業を立ち上げ、政府への資金援助や関係者に伝記の執筆を依頼した人物として知られています。なかでもワシントンD.C.にあるリンカーン記念堂は大きな功績のひとつでしょう。ジョシュア・フライ・スピードの貢献によってエイブラハム・リンカーンの功績が後世に伝えられています。
1832年、エイブラハム・リンカーンが23歳のときに、イリノイ州とインディアン連合との間でブラック・ホーク戦争が起こり、イリノイ州軍として従軍します。目立った活躍こそなかったものの、エイブラハム・リンカーンの祖父はインディアンに殺されていたため、個人的なインディアンに対する排除論は根深いものがありました。
事実、大統領就任後もインディアン徹底排除政策を執り、1862年には38名のインディアンを一斉に絞首刑にしました。この刑の執行はいまだにアメリカ史上最大の処刑として知られていますが、エイブラハム・リンカーンが一貫して黙認し続けたことはあまり知られていません。
政治家として
23歳で周囲の奨めもあってイリノイ州議会議員に立候補したエイブラハム・リンカーンですが、落選し、当時住んでいた町(ニューセイラム)の郵便局長、土地の測量士、弁護士で生計を立てていました。そして、24歳のときに2度目のイリノイ州議会議員に立候補して当選を果たします。
弁護士として活動する一方で、下院議員として奴隷制度維持論にも奴隷制度廃止論にも反対します。エイブラハム・リンカーンはこの時点で、奴隷制度維持論や奴隷制度廃止論そのものが争いごとの火種になることを見抜いていたとされています。エイブラハム・リンカーンは奴隷制度へ賛成するか反対するかよりも、奴隷制度の議論が拡大すること自体を懸念していました。
1846年にはホイッグ党から下院議員に選出され国政に参加するようになります。エイブラハム・リンカーンはホイッグ党の創設者でもあったヘンリー・クレイを賞賛し、自らヘンリー・クレイの弟子と名乗るようになります。ヘンリー・クレイは大統領にこそなれませんでしたが「最も大統領に近かった人物」として有名で、エイブラハム・リンカーンの思想に大きな影響を与えた人物と言われています。
1850年に入ると、奴隷制度を巡る議論が活発化するようになりました。なかでも、1854年に成立したカンザス・ネブラスカ法は実質的に奴隷制度を拡大することに繋がったため、奴隷制度の存在そのものを懸念していたエイブラハム・リンカーンは、ホイッグ党から上院議員選挙に選出されることになりました。
しかし、エイブラハム・リンカーンは支持者たちに別の議員に投票するように説得し、内部分裂しつつあったホイッグ党、民主党、自由土地党などのメンバーを集めて新しい共和党を作りました。1858年には共和党から上院議員に選出された際の共和党州大会において、奴隷制度問題が連邦を解体する危険があることを訴え「どちらか一方で決着することになる」と危機感を持たせました。
1860年の大統領選では民主党候補のスティーブン・ダグラスと徹底抗戦になります。両者とも雄弁だったため、後に「リンカーン・ダグラス論争」と呼ばれた大統領選は、現在でもアメリカ史上最も有名な論争と言われています。
大統領選のときには両者ともあらゆることに対照的な立場をとっていました。エイブラハム・リンカーンは奴隷制度問題が連邦を解体する危険性があることと、スティーブン・ダグラスがすべての人は生まれながらに平等というアメリカ建国時の価値をゆがめようとしていると非難しました。
一方で、スティーブン・ダグラスはエイブラハム・リンカーンが奴隷制度廃止論者に加担していおり、奴隷制度を各州民が決める権利を阻害していると非難しました。さらに、1857年にアメリカ合衆国最高裁判所によって「アフリカ人は奴隷に関係なくアメリカ合衆国の市民にはなれず、連邦の領土内では奴隷制度を禁止する権利はない」という判決が下った「ドレッド・スコット対サンフォード事件」をないがしろにしていると批判しました。
選挙期間中にニューヨークを訪れて演説を行ったエイブラハム・リンカーンですが、市民からはみすぼらしい格好をした人物と冷たい目を向けられます。しかし、演説が始まると多くの人が演説の内容や強い意志に魅了されていったとされています。演説中にライバルや他の議員の名前を一切出すことなく話す姿は、ニューヨークの人を惹き付けました。エイブラハム・リンカーンのこのような姿は北部の票を次々に獲得していきました。
1860年11月、エイブラハム・リンカーンはスティーブン・ダグラスを破って共和党初の大統領として勝利します。当時、15州あった南部の奴隷州のうち10州からは1票も入らず、南部の996郡のうち2郡のみでしか勝利できなかったことは北部と南部の対立構造を浮き彫りにし、南部州からの不支持を一層明白なものにしました。そして、エイブラハム・リンカーンの勝利は南部州が連邦から脱退することを決定付けます。
大統領就任後から南北戦争開始まで
エイブラハム・リンカーンが大統領選に勝利して、大統領職に就くまでの4ヶ月の間に南部諸州は連邦からの脱退を示唆します。これに対してエイブラハム・リンカーンは妥協案として、すでに奴隷州として存在している州の奴隷制度を保護するコーウィン修正条項の批准を促すことに着手し、各州知事へ直筆の手紙を書いて脱退を阻止しようとしていました。
しかし、1860年12月20日にサウスカロライナ州が連邦からの脱退を決定し、翌年の2月1日までにフロリダ州、ミシシッピ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州が次々に脱退していきました。さらに、これらの州で「アメリカ連合国」を設立し、主権国家になることが宣言されます。
わずかに任期を残したジェームズ・ブキャナン大統領と、次期大統領のエイブラハム・リンカーンは、脱退は違法としアメリカ連合国を認めないとしましたが、新しく設立されたアメリカ連合国では、大統領としてジェファーソン・デイヴィスが選出され、正式な国家が発足しました。
バージニア州のリッチモンドにアメリカ連合国の首都機能を置き、ワシントンD.C.同様にアメリカ連合国の議会議事堂やホワイトハウスも用意されました。この頃、長く過ごしたイリノイ州のスプリングフィールドからワシントンD.C.に向かおうとしていたエイブラハム・リンカーンは、暗殺の計画があることを知らされており、変装して警護を受けながらホワイトハウスに辿り着いたとされています。
1861年、建設途中だったワシントンD.C.のアメリカ合衆国議会議事堂の前で就任演説を行ったエイブラハム・リンカーンは、離脱した南部諸州に向けて「奴隷制度に関与して南部諸州の人たちの生活を脅かすようなことはないし、法律的な権限もない。そうしたいとも思わない」と発言し、連邦をひとつにまとめることを主張しました。
さらに「アメリカ国民は敵同士ではなく友同士でなくてはならず、いつだって憲法上の権利を使って政府を解体することも可能」と友好的な道を示しました。エイブラハム・リンカーンを始めとする共和党員は連邦の解体を防ごうとした一方で、アメリカ連合国は一切の妥協なく反乱を続ける姿勢を崩しませんでした。
南北戦争でのエイブラハム・リンカーン
アメリカ連合国すなわち南部連合は南部各地にあった要塞を占拠し始めます。それらは連邦政府の管轄ではなくアメリカ連合国の管轄になるとみなし、次々に範囲を広げていきました。そして、最後に残ったのが「サムター要塞」でした。
サムター要塞の指揮官(北軍)は南部連合の圧力を受けていたためエイブラハム・リンカーンに食料補給と兵士2万人の派遣を要望しました。これに対してエイブラハム・リンカーンは食料のみの補充を命じて、サムター要塞に食料が無事に届けられれば、兵士や武器を運び込むことはないと南部連合に約束しました。
この提案は南部連合にとって難しい選択になります。食料補給を阻害すれば北軍から攻撃される可能性があり、反対に阻害しなければいつまでもサムター要塞は北軍のままとなるためでした。
1861年4月12日、南部連合はサムター要塞を36時間にわたって砲撃して補給船の侵入を阻害し、サムター要塞を制圧しました。この結果は、エイブラハム・リンカーンを始め北軍からすれば南部を攻撃する大義名分を手に入れたことになり、連邦政府を守るためには連邦政府の戦争権限を行使する道しか残されていないことを意味していました。
エイブラハム・リンカーンは1861年4月15日に、法による手続きでは抑制できない反乱が起きているとして7万5千人の民兵を招集し、南部の海岸を封鎖、海軍1万8千人、陸軍2万2千人を増兵しました。さらに、議会の承認を得る前に5隻の海軍船の購入を決断するなどして、後に「大統領の戦争」と呼ばれるほどの規則を超越した決定を下していきました。
南北戦争が始まってすぐにエイブラハム・リンカーンは人身保護令状の発行を停止しました。人身保護令状とは行政権によって個人を不当に拘束することを防ぐのを目的にした個人を守るための制度ですが、エイブラハム・リンカーンは大統領の権利を使ってそれを停止し、反乱に加勢する者を容赦なく拘束できる環境を作りました。人身保護令状を停止した大統領は歴史上エイブラハム・リンカーンだけです。
この時のエイブラハム・リンカーンの思考は、大統領は法を忠実に執行するための義務があり、それを乱そうとする者は人身保護令状を停止してでも拘束し、なおかつ大統領は軍隊の最高司令官として軍事力も含めて反乱者(南部連合)を制圧できるというものでした。ちなみに、人身保護令状を停止した問題はアメリカ人の自由の権利を揺るがす問題として現在でも議論の対象にされています。
北部は南部と比較して人口や工業化が進んでおり、強力な海軍も持ち合わせていました。それに対して南部は、海軍を持たず北軍によって閉鎖されてしまった海上からの侵攻は不可能だったため、地元の強みを生かした地上戦で対抗することに専念しました。
その際に活躍したのがロバート・リー、サミュエル・クーパー、ジョセフ・ジョンストンなどの将校たちです。なかでも、総司令官を務めたロバート・E・リーは南部軍の英雄として、現在も南部諸州で尊敬されている人物です。
南北戦争は奴隷制度を巡ることが起点でもありますが、双方で目的が異なったことも事実です。北部は「連邦政府の再統合とアメリカ連合国の解体」で、南部は「アメリカ連合国の維持」でした。エイブラハム・リンカーンはこの行為を「戦争」と位置づけるのではなく「反乱」と見なして、憲法に沿った形で宣戦布告をしています。
南北戦争が始まってからエイブラハム・リンカーンが執った数々の行動は、同じ共和党内からも軍事的な独裁と非難されることが多かったものの、連邦を守るという強い意志と弁護士としての緻密な論理で周囲からも支持されるようになります。
なかでも、通常の裁判規則の範囲外で裁判を行える「軍法裁判」を用いたことはジョージ・ワシントン以降初で、これにより反乱者の拘束を合法的に容易にしました。エイブラハム・リンカーンの読書癖によって導き出された案でした。
南北戦争という非常事態に合法的な方法で反乱を静める対策を執ったエイブラハム・リンカーンですが、特筆すべきこととして、南北戦争期間中に実施された中間選挙については一切の妨害や干渉はしなかったことがあります。大統領就任演説の際に「いつだって憲法上の権利を使って政府を解体することも可能」と言ったことに忠実だったのです。
南北戦争におけるエイブラハム・リンカーンの功績は、南部連合を制圧したことではなく、憲法に忠実でありながら連邦を守ったことと言えます。
奴隷解放宣言
1863年1月1日、エイブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言を発布しました。その内容は「連邦政府から脱退した州のなかで1863年1月1日までに戻ってきていない州の奴隷は永久に解放される」というものでした。これに先だって予備版の奴隷解放宣言が発行されていましたが、それは奴隷を保持し続けてもよいと解釈されるような内容だったとされています。
この奴隷解放宣言は南北戦争の最中に発布されたことから南北戦争の直接的な原因と考えられがちですが、エイブラハム・リンカーンにとって連邦政府を恒久的に守るために必要だったひとつの政治的な動機でした。南北戦争の目的や目標ではなく、あくまでも連邦を守るためのひとつの手段だったのです。
事実、大統領としてのエイブラハム・リンカーンは、奴隷制度については賛成派でもなく反対派でもありませんでした。ただし、奴隷制度がある限り連邦政府は分裂状態になり、いつまでも連邦政府の統一が図れないと考えていたため、奴隷制度問題を南北戦争に組み込んだのです。
エイブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言のなかで、解放された奴隷は適切な賃金を得られる仕事に就くことを奨め、アメリカ軍に受け入れる用意があることも盛り込みました。さらに、解放された奴隷が国内外で労働できる場所を確保することにも尽力しました。(いずれも周辺諸国の反対のため失敗に終わります)
1864年には、奴隷制度は共和政体や国家の安全の原理に反していることを理由に、憲法を改正して全州で奴隷制度を禁止することを議会に求めました。その結果、1865年1月にすべての奴隷を解放することを盛り込んだ憲法修正13条が成立しました。このことこそが、エイブラハム・リンカーンが奴隷を解放した本当の功績と言えます。
大統領2期目・暗殺
1864年、エイブラハム・リンカーンにとって2期目となる大統領選を迎えます。民主党からはジョージ・マクレランが選出されますが、エイブラハム・リンカーンは自身が再選することはないと考えていました。その証拠に、1862年の中間選挙で民主党が勢力を伸ばしていたことや、南北戦争の長期化がありました。
しかし、結果的にエイブラハム・リンカーンは再選し、就任演説のなかで混乱時でも自由で公平な選挙が行われたこと、連邦の統一に向けて国民が結束する必要があることを
主張しました。
1865年4月、南部連合のロバート・リー将軍は食料不足と退路がなくなったことを理由に北軍に降伏し、実質的に南北戦争は終了しました。両軍合わせて60万人以上が命を落とす、アメリカ史上最も犠牲者が多かった争いになりました。
リー将軍が降伏した5日後、ワシントンD.C.にあるフォード劇場で現代劇を鑑賞中だったエイブラハム・リンカーンは頭部に1発の銃弾を受けて昏睡状態に陥り、1865年4月15日早朝に死亡しました。発砲したのは南部連合支持者のジョン・ブースで、エイブラハム・リンカーンは暗殺された初めての大統領になりました。
ポイント1:南北戦争
エイブラハム・リンカーンは奴隷制度を巡り対立を続けてきた南北が軍事衝突にまで発展した最も困難な時代に大統領を務めました。北軍を率いて南軍に勝利し奴隷を解放した人物として知られていますが「連邦を守ること」を一貫して通し、連邦を守るために強力なリーダーシップを発揮し、大統領の権限を行使しました。
一方で、憲法や規制を超越した大統領の権限はアメリカ国民個人の権利を侵害した越権行為だったと見る声もあります。
ポイント2:奴隷解放宣言
エイブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言によって南部諸州に根強く染み付いた奴隷による社会構造や経済的組織をなくして、現在のアメリカに繋がる国の基礎を築いたと言えます。奴隷解放宣言では、あくまでも連邦から脱退した南部諸州に限って奴隷を解放することを定めています。
奴隷解放宣言も重要な出来事ですが、全州が奴隷を解放することを定めたアメリカ合衆国憲法修正条項第13条および第14条もエイブラハム・リンカーンによる功績ですので覚えておくといいでしょう。
ポイント3:ゲティスバーグ演説
エイブラハム・リンカーンは聴衆を魅了する演説の天才とされていますが、なかでも最も有名な演説が1863年のゲティスバーグの演説です。ペンシルベニア州のゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式に参加した際に行ったもので、わずか2分程度の演説でした。
この演説では「人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶滅させない」という名フレーズが生まれ、多くの人の心を掴みました。これによりアメリカは民主主義国家としての道を進むようになるのでした。
まとめ
エイブラハム・リンカーンは現代でも最も偉大で、最も尊敬を集める大統領とされていますが、その背景には「アメリカ連邦国家を守る」ことに様々な形で尽力したことがあります。国を二分する事態にまで発展した奴隷制度を廃止して、現代にも繋がるアメリカ社会の基礎を作ったことこそエイブラハム・リンカーンの功績と言えるでしょう。
エイブラハム・リンカーンに関する豆知識
・弁護士時代、毎日寝る間もなく一生懸命に働いたとされていますが、妻だったメアリー・トッドの気性が荒く、それを恐れていたためと言われています。
・1860年の大統領選の際に11歳の少女(グレース・ベデル)から、存在感を出すためにあご髭を生やすように薦められて、あご髭を生やしたとされています。
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