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アメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトについて

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目次

はじめに

1901年から1909年まで大統領を務めたセオドア・ルーズベルトは、史上最年少大統領、初のアメリカ人ノーベル賞受賞者など様々な経歴を持つ人物です。大統領としての功績も大きく、時に強引な姿勢は多くのアメリカ人から支持されて現代でも偉大な大統領のひとりとして広く知られています。

国内政策から外交政策へと移行しつつあったアメリカ激動の時代に、若くして大統領に就任したセオドア・ルーズベルトがなぜ多くのアメリカ人から尊敬を得るようになったのか詳しく解説します。

「セオドア・ルーズベルト」のプロフィール

1858年、ニューヨーク州の裕福な家庭に生まれたセオドア・ルーズベルトはユダヤ系オランダ人の移民が祖先であり、ガラス輸入商社を営む家計で育ちました。幼い頃は病弱でしたが、生涯にわたって積極的に体を鍛えることを続けました。この努力が後の政治家としての活躍の原動力になり、タフで精力的なスタイルから「カウボーイのような大統領」と評されることに繋がります。

博物学や自然を好んだセオドア・ルーズベルトですが、ハーバード大学に進学後は次第に海軍へ関心を抱くようになります。大学卒業と同時に、史上最年少でニューヨーク州の下院議員に選出され、同市の警察の腐敗追及に尽力して多くの市民から支持を得ていきました。

議員として働く傍らでは小説家や歴史家としても活動しました。1882年には後に名書として名を残すことになる「The Naval War of 1812」を出版し、1812年の米英戦争における海軍戦闘の詳細な分析力と集約力が高く評価され、セオドア・ルーズベルトを軍事学者としても知らしめることになります。

1898年、スペインとの間で米西戦争が勃発すると海軍だけでなく陸軍士官としても従軍し、その活躍は没後に名誉勲章を受賞するほどのものでした。米西戦争後の1899年にはニューヨーク州知事選で勝利し、さらにその2年後にはウィリアム・マッキンリー政権で副大統領に任命されました。

1901年、ウィリアム・マッキンリーが暗殺されたため、セオドア・ルーズベルトが繰り上がるようにして大統領に就任します。実は、ウィリアム・マッキンリーが死亡した時、セオドア・ルーズベルトは自然好きが高じてニューヨーク州北部のアディロンダック山地に出かけていたため、おおよそ13時間にわたって大統領が不在の事態に陥っていたとされています。

突如、大統領職を引き継いだセオドア・ルーズベルトはわずか42歳という史上最年少大統領となりますが、国内企業の独占禁止法、パナマ運河建設、そして日露戦争の仲介などに活発に取り組むことになります。

「セオドア・ルーズベルト」の経歴

大統領就任まで

セオドア・ルーズベルトの幼少期は病弱でありながら好奇心が旺盛な子どもだったとされています。ひどい喘息持ちだったセオドア・ルーズベルトは援助をしてもらわないと眠れないほどで、あるときは椅子に座って猫背にならなければ眠れないほどだったと言われています。

その反面で、いたずらや昆虫採集などにも没頭し、9歳のときには剥製術を学んで、自らが採取した昆虫によって構成した論文を作りました。さらには、従兄弟のアンドレ・ルーズベルトと共同でルーズベルト自然歴史博物館を設立し「自然主義者」として知られるようになります。

ハーバード大学在学中には、1812年の米英戦争におけるアメリカ海軍の戦術や作戦を分析して論文化、さらに出版をして「軍事学者」または「作家」としても名が広まるようになりました。大学卒業後は海軍次官としても働き、米西戦争では陸軍士官として従軍し「軍人」としても功績を残します。


1899年にニューヨーク州知事に選出されてからは「政治家」として本格的に活動するようになります。これまで精力的に様々な分野で活躍し、そのいずれも高い水準で功績を残してきたことから、すぐにウィリアム・マッキンリー政権で副大統領を任されるようになります。

セオドア・ルーズベルトの自然主義者、軍事学者、作家、軍人、そして政治家という様々な肩書きや経歴こそが多くのアメリカ人からの支持を得る絶対的な根拠であり、人気の秘密でもあるのです。

大統領就任後

1901年、ウィリアム・マッキンリー暗殺を受け、セオドア・ルーズベルトは副大統領から大統領に昇格します。この当時のアメリカ国内では急速な近代産業化が進み、北部の都市を中心にして人口の爆発的増加が続いていました。その影では、成功を収めた企業に権力と利益が集中し、市場の独占が制御できないほどになっていました。

セオドア・ルーズベルトはこのような状況が国民の経済的機会を奪い、不平等、さらには政治的腐敗を生み出しているとして、これまでの自由放任主義からの脱却に取り組みます。(革新主義)セオドア・ルーズベルトは大統領としてリーダーシップを発揮し、後に「独占禁止法取締官」と呼ばれるようになります。

なかでも大きな功績とされているのが、複数の鉄道会社が共同して運営していたノーザン証券会社告発事件です。ノーザン証券会社は鉄道運賃を統制して実質的な独占状態にあり、競合鉄道会社を圧倒する状態が続いていました。これに対して最高裁は不公正と判断し、セオドア・ルーズベルトの目指す独占を禁止する政策が大きく前進しました。

セオドア・ルーズベルトは大統領在任中に54件の反トラスト訴訟(独占禁止訴訟)を起こしました。セオドア・ルーズベルトの本当の狙いは、企業の独占を解体することではなく、行き過ぎた独占企業が政府を超える事態を防ぐことでした。後に、企業を監視する商務労働省が設立され、賃金値上げや労働時間交渉など現代にも続く企業規則の基礎が作られました。

国内政策で功績を残したセオドア・ルーズベルトですが、外交の面でも様々な功績を残しています。なかでも日露戦争を仲介し、1906年にノーベル平和賞を受賞するきっかけになったポーツマス講和条約はアメリカ大統領が直接的に関与した外交事例として知られています。

1904年、満州や朝鮮半島の権益を巡ってロシアと日本の対立が表面下します。日本軍による奇襲攻撃によって始まった日露戦争ですが、セオドア・ルーズベルトはロシアのアジア侵略を防ごうとした日本を支持し、ロシアに限らずヨーロッパ諸国がアジア侵攻を始めた場合は、アメリカは日本に協力するという密約を結びました。

日本の勝利に終わった日露戦争ですが、日本はアメリカに講和締結の仲裁を依頼し、セオドア・ルーズベルトは議会を説得して、1905年にメイン州のポーツマス海軍造船所で交渉を開催しました。おおよそ1ヶ月間、日本もロシアも妥協しない交渉が続いた中、セオドア・ルーズベルトの度重なる斡旋も手伝って両国の講和条約が締結しました。

ポーツマス講和条約を成功に終わらせた立役者となったセオドア・ルーズベルトは日米関係を強固にした反面、日本が太平洋における一大勢力になったことを実感していました。日米両国は後に太平洋戦争で争うことになったため、セオドア・ルーズベルトの外交関与が正しかったかどうかは今でも賛否両論あります。

セオドア・ルーズベルトはアメリカ国内に限らず、海外の問題についても積極的かつ直接的に関与した大統領と言えます。このような姿勢を築いたことはアメリカ大統領史でセオドア・ルーズベルトが初めてであり、この点がアメリカ人から高く評価されて、現代でも尊敬されている大統領のひとりであり続ける所以です。

ポイント1:革新主義

セオドア・ルーズベルトが国内政策で最も注力したのが企業に規則を持たせ、独占的な競争市場を防ぐことでした。鉄道、金融、製造業などの様々な業界で大企業が優位で、政治への影響力を持っていた時代に終止符を打った大統領です。自らがリーダーシップを執り、アメリカ経済を自由放任主義から「革新主義(Progressivism)」に導いた功績は大きいとされています。

ポイント2:棍棒外交

セオドア・ルーズベルトは外交にも尽力した大統領で、その外交スタイルを表現した本人の言葉に「Speak softly and carry a big stick.」があります。「静かに対話をし、こん棒も持ち歩く」というような意味で、軍事力をちらつかせる外交でもありました。

なかでも、棍棒外交と呼ばれるカリブ海政策やパナマ運河着工、アメリカ艦隊世界周航などいささか強引な方法を用いてアメリカの存在を主張しました。一方で、ポーツマス講和条約などに代表されるような粘り強い対話の姿勢も持っていました。

ポイント3:日本との関係

セオドア・ルーズベルトの功績のひとつにノーベル平和賞受賞に繋がったポーツマス講和条約があります。日本とロシアの仲裁に入ったセオドア・ルーズベルトはロシア皇帝のニコライ2世に親書を送るなどして、膠着状態だった両国の間を取り持ちました。


もともと親日家だったセオドア・ルーズベルトですが、ポーツマス講和条約の締結後は日本を脅威に感じるようになり、戦艦を日本へ寄港させるなどして警戒するようになります。大統領のそのような姿勢は後の排日移民法など移民排除の方針に繋がっていくのでした。

まとめ

セオドア・ルーズベルトは様々な経歴や肩書きがあり、政治家らしからぬ側面も持っていました。そのような人格で、なおかつ大統領として強力なリーダーシップを執って「強いアメリカ」を実現したため多くの尊敬を集めています。アメリカ大統領史のなかでも、非常に優れた大統領としていまでも人気がある人物です。

セオドア・ルーズベルトに関する豆知識

・大統領職を離れてからはアフリカのサファリやブラジルのアマゾンを探検し、手記を出版して余生を楽しんだとされています。(南米でマラリアに感染後、60歳で死去)
・アメリカ人初の柔道茶帯の保有者です。

本記事は、2019年10月3日時点調査または公開された情報です。
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公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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