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アメリカ第37代大統領リチャード・ニクソンについて

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37代大統領リチャード・ニクソン


目次

はじめに

みなさんはアメリカ史を学ぶなかで「ウォーターゲート事件」という言葉を聞いたことはありますか?今回ご紹介する、アメリカ第37代大統領リチャード・ニクソンはそのウォーターゲート事件の渦中の人物です。

ウォーターゲート事件によって大統領の座を失ったリチャード・ニクソンですが、1969年から1974年までの大統領任期中に、実は様々な国政や外交で実績を残した人物でもあるのです。スキャンダルによって大統領を追われたリチャード・ニクソンがどのような人物だったのか、詳しくご紹介します。

「リチャード・ニクソン」のプロフィール

リチャード・ニクソンはこれまでの大統領経験者とは対照的に西海岸出身の人物です。カリフォルニア州のオレンジ・カウンティで生まれたリチャード・ニクソンは、アイルランド系の家系で職を転々とする父親と、裕福な家庭出身の母親の元で5人兄弟の次男として育ちました。

リチャード・ニクソンが生まれた時には同州でガソリンスタンドを経営していた家庭でしたが、母親の家庭が裕福だったこともあり貧困ではありませんでした。しかし、病弱な兄弟の治療費を捻出するため、10歳の頃には家の仕事を手伝う生活をしていました。

地元の高校に進んでからもアルバイトをして家計を支え、スポーツ、学業ともに万能の活躍をし、憧れだった東部の名門ハーバード大学から奨学生としての誘いを受けました。しかし、家庭を支えることを優先したリチャード・ニクソンは地元の大学に通い、弁護士を志すようになります。

法律学校をトップクラスで卒業し弁護士の資格を取得しますが、希望した東部の弁護士事務所やFBIへの就職では縁がなく、カリフォルニア州で弁護士として働くことになりました。そこで出会ったテルマ・キャサリン・ライアンと結婚し2人の娘に恵まれています。

第二次世界大戦には海軍少佐として従軍し、戦後はペプシコ(ペプシコーラ)の顧問弁護士として活躍するようになります。リチャード・ニクソンの世界的企業での活躍は地元カリフォルニア州でも評判となり、33歳になった1946年には、共和党議員として下院議員選に当選し、政治家としての活動が始まりました。

1950年には上院議員選に当選し、39歳の若さでドワイト・D・アイゼンハワー政権の副大統領に指名されます。大統領まであと1歩のところまで昇りつめたリチャード・ニクソンでしたが、民主党のジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン政権に敗れ「不遇の時代」を過ごすことになりました。

1962年、地元カリフォルニア州知事選に立候補しますが敗北。先の大統領選に続いて敗北したことから「負け犬ニクソン」と呼ばれるほど落ちぶれてしまいます。ケネディが暗殺され、ベトナム戦争を泥沼化させたリンドン・ジョンソンが大統領選に出馬しないことを表明した1968年の大統領選ではニクソンが勝利しました。

大統領になったニクソンを待ち受けていたのは、直近の民主党が出来なかった外交問題でした。世界のリーダーとしてベトナム、中国、ソ連との関係をどのようにするのかニクソンに期待がかかりました。

「リチャード・ニクソン」の経歴

大統領就任まで

1913年、リチャード・ニクソンはカリフォルニア州で生まれます。幼い頃から小児結核を患っていた二人の兄弟の医療費を工面するため父親の仕事を手伝いながら、経理、配達、ガソリンのポンプ押しなどをする働き者でした。


スポーツも勉強も出来たリチャード・ニクソンは高校生の時に弁護士を志すようになり、地元の大学を卒業後、成績優秀ながら貧困な家庭の子供を援助することを目的として創立されたノースカロライナ州のデューク大学ロー・スクールに進学し、1937年にはカリフォルニア州の弁護士資格を取得します。

東海岸での就職を夢見たリチャード・ニクソンでしたが縁に恵まれず、カリフォルニア州の弁護士事務所に就職し、1939年には個人事務所を開設しました。1942年には自ら志願して海軍に入隊しますが、修士号や弁護士資格を有する優秀な人物ということを考慮され、戦線からは遠い部署の任務に就きました。

1946年、カリフォルニア州下院議員選挙に当選し政治家としての活動がスタートします。弁護士時代に得た信頼を政治基盤にし、名実ともに「若手のホープ」として注目されましたが、時を同じくしてアメリカ東部で注目されていたのがジョン・F・ケネディです。軍人出身で若手政治家という似た境遇のふたりは対照的で、西のニクソン、東のケネディという間柄でした。(後に大統領選で争うものの関係は良好だった)

1950年には上院議員に当選、1952年の大統領選ではドワイト・D・アイゼンハワーから副大統領に抜擢され、反米派も多かったキューバやベネズエラ、ソ連、アフリカ諸国を訪問するなど外交に積極的でした。また、1953年、戦後初の国賓として来日しており、副大統領時代から日米の親睦に熱心だったことをうかがわせます。

アイゼンハワー政権2期目が終わりを迎えた1960年の大統領選では、圧倒的な支持を受けて共和党候補として指名を受けました。その時の民主党候補がジョン・F・ケネディで、全米で7,000万人が視聴したとされる有名なテレビ討論が行われました。

大統領選挙期間中に体調を崩し病み上がりだった色白のニクソンと、ダークスーツに身を包んだ健康的なケネディは白黒テレビでは対照的に映り、ケネディの印象の良さは討論の内容を上回る結果になりました。1960年の大統領選は得票率差0.2パーセントという歴史上稀に見る接戦で、ケネディが勝利します。

大統領になれなかったリチャード・ニクソンは弁護士としての活動を再開し、1962年にはカリフォルニア州知事選に立候補しますが敗北。二度と政治家として活動しないことを思わせる台詞を吐いて表舞台から姿を消しました。

しかし、1968年の大統領選では、対立候補になるはずだったリンドン・ジョンソンがベトナム戦争の責任を取って出馬を断念したことや、同じく有力候補だったロバート・ケネディ(ジョン・F・ケネディの実弟)が暗殺されるなど、民主党が混乱したことを好機とし再び大統領選に共和党候補として出馬します。

内部崩壊しつつあった民主党を横目に、ベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を掲げ、見事に政治家として、そして大統領として政治の世界に復活したのでした。

大統領就任後

大統領として政界に復帰したリチャード・ニクソンは、国政では先代のリンドン・ジョンソンが実現した公民権法をより追求することに尽力します。連邦職員の雇用における差別是正にも取り組み、現代の「積極的是正措置(affirmative action)」にも通じる仕組みを作りました。

また、1971年には世界市場における米ドルの価値を保証するために用いられていた、金と米ドル紙幣を交換することを停止します。これには、欧州や日本に対する輸出増やベトナム戦争による財政支出増加が影響し、米ドル紙幣の価値を担保するはずの金がアメリカからなくなってしまったためです。アメリカを破綻させないために決断せざるを得なかったこの政策は後に「ニクソンショック」と呼ばれます。

1972年、2期目をかけた大統領選では数々の国内政策や、ベトナム戦争からの全軍撤退が評価され再選を果たしました。この時のニクソン人気は最高潮で、国内のみならず世界でも強いアメリカのリーダーシップを見せつける象徴的な存在になっていました。

リチャード・ニクソンは大統領就任直後から積極的にソ連や中国との緊張緩和に取り組みました。ソ連との間では戦略兵器制限条約を締結し、冷戦から続いた緊張を緩めることに成功します。また、1972年には、1949年から国交断絶状態だった中国へ電撃訪問を果たし、アメリカは日本や韓国と連携し、中国はアジア各国の自由と平等を支持することを求めるといった内容の「上海声明」を発表。これにより、ソ連と中国の共産化に歯止めをかけることに成功します。

外交に強い大統領として名実ともに評価を得たリチャード・ニクソンでしたが、1972年にひとつの不法侵入事件をきっかけにして、自らが辞任する事態にまで追い込まれることになります。後にウォータゲート事件と呼ばれるスキャンダルです。

この事件は民主党本部に何者かが不法侵入し、盗聴器を仕掛けたという事件でしたが、調査が進むなかで共和党関係者、ホワイトハウス、大統領再選委員会が関与したことが判明し、それらの事実をリチャード・ニクソンがもみ消そうとしたことが疑われました。もみ消しの責任を追及され窮地に立たされたリチャード・ニクソンは自ら辞任し、大統領職を退きました。


国政や外交で功績を残したリチャード・ニクソンでしたが不正関与を拭いきれず、アメリカ大統領史上初めての「辞任」という形で政界から身を引き、余生はイメージ修復のため講演会や執筆活動に専念し、1994年に81歳でこの世を去りました。

ポイント1:ウォータゲート事件

リチャード・ニクソンと言えば「ウォータゲート事件」が最も印象的な出来事でしょう。大統領が辞任するまでの事態に発展したこのスキャンダルは、大統領自らが不正に関与したことが疑われた、近代アメリカ史における最も有名な事件です。

ウォータゲート事件とは、1972年6月、リチャード・ニクソン政権のライバルだった民主党全国委員会本部に共和党関係者が侵入し、盗聴器を仕掛けたことを起点にした大統領辞任までの一連の事件です。ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内が現場だったことから「ウォータゲート事件」と呼ばれるようになりました。

事件発生当初はリチャード・ニクソンを始め共和党は無関係を主張したものの、実行犯のひとりが共和党やホワイトハウスが関与していることを自供したことで事態は急変します。リチャード・ニクソンは調査委員会に対し証拠テープの提出を拒否したり、不自然なまでにテープを編集するなどしたため「もみ消し工作」を疑われます。

さらに、嘘の証言をしたり、事件の調査に関わった検察官を解任しようとするなど強引な手法に出たため、大統領を解任するための「弾劾裁判」にまで発展しました。明らかに劣勢になったリチャード・ニクソンは、弾劾裁判によって大統領を辞職させられるというアメリカ史上初の不名誉を回避するために、自ら辞任するかたちで幕引きを図りました。

一方で、後を引き継ぐことになるジェラルド・R・フォード次期大統領によってニクソンは特別恩赦を受けたため、有罪になることなく「自ら大統領を辞任した」という事実だけが残りました。ちなみに、現在も事件の真相は不明のままです。

ポイント2:ニクソンショック

リチャード・ニクソンの活躍で特筆すべきことは「2つのニクソンショック」です。ひとつめは、1971年7月の中国を公式訪問すると発表したこと(第一次ニクソンショック)、ふたつめは同年8月のドルと金の交換を禁止したことです。(第二次ニクソンショック)

第一次ニクソンショックは、長らく断絶状態だった中国との関係正常化や、北ベトナムを支援していた中国を懐柔することでベトナム戦争の幕引き狙ったもので、衝撃的な訪問でした。

第二次ニクソンショックは、アメリカ国内から金がなくなることを未然に防ぐために、米ドルの価値を保証していた金と米ドルの交換を停止したことで生じた世界市場の混乱です。これにより、日本では固定為替相場制から変動相場制に移行し、1980年代後半から始まるバブル景気、アジア通貨危機などに繋がったと言われています。

ポイント3:沖縄返還

日本にとって大きな出来事となるリチャード・ニクソンの功績のひとつが「沖縄返還」です。1969年、リチャード・ニクソンが佐藤栄作首相と会談した際に、米軍の駐留を継続するものの、沖縄を日本に返還するという合意を結びました。

1971年には両国が「沖縄返還協定」に調印し、1972年5月15日にアメリカから日本へ正式に返還されました。この背景には、リチャード・ニクソンが副大統領を退き、カリフォルニア州知事選挙に敗れた頃の「不遇の時代」を過ごしていた時に、岸信介や佐藤栄作らと親密な関係を築いていたことが影響したと言われています。

まとめ

1969年から1974年までアメリカ第37代大統領を務めたリチャード・ニクソンは、優れた外交手腕で関係が悪化していたソ連や中国、ベトナム、日本などと関係を正常化した功績を残しています。一方で、ウォーターゲート事件による不正関与は大統領の信用を失墜させたことも事実です。リチャード・ニクソンは賛否両論ある大統領ですが、外交力は極めて優れていたと言えます。

リチャード・ニクソンに関する豆知識

・アメリカでは大統領経験者が死去した際には国葬が行われますが、リチャード・ニクソンが死去した時には国葬は行われませんでした。
・ポーカーの名手で海軍在籍時代だけで1万ドル以上稼いだと言われています。

本記事は、2019年12月23日時点調査または公開された情報です。
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公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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